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江戸時代から二百年、
島本の家系は代々膝枕屋をやっている。
客の相手が難しい仕事だ。

何が難しいっていざこざが起る。
『しょっちゅう』ではなく『たまに』だが、
そのたまにが結構厄介なのよね、
と当代の『おばあちゃん』が末の孫に幼少から説いてきた。

『膝枕屋』だなんて、
そうでない者にとってはふざけた名前なのだろう、
これを見ず知らずの人に言うと皆一律に、

「そもそも客を見つけるのが大変じゃないの?」

といちゃもんを付けてくれる。

その気持ちが判らんでもない。
足さえ身体についていれば膝枕は出来るのだから。

しかし人間一人だけでは事足りない。
自分の足では膝枕は出来ないのが人間の身体。
腰から足を分離する機能をお持ちの方なら話は別だが、
そんな奇天烈摩訶不思議大冒険な人種は聞いた事が無い。

膝枕とは人間が少なくとも二人、必要となる。

そして案外、人は誰かに膝枕をして欲しい。

その事を大抵の人は知らないし、知ろうともしない。

お陰で島本家は二百年膝枕屋をやれている。
そう説明するのも常におばあちゃんの役だった。

島本の『おじいちゃん』はおばあちゃんが四十の時に鬼籍に。
その話は家族の誰もが嫌いなので、
末の孫のミズキも一回しか聞いた事が無い。
代わりに『遊女の話』などをミズキは何回もねだった。

昔の遊女さんは髪の毛に油を塗っている。
油が髪についてたら頭が撫でられないでしょ。
触る方も触られる方も、あっ、ちょっと待ってってなる。
だからお仕事が終わって髪が綺麗になると呼ばれるのが常で、
髪の毛に何もついてない遊女さんを見るのは膝枕屋の特権だったのね。

その話をおばあちゃんから聞くに、
どうもうちの歴史は二百年どころじゃないのではないか。
そうミズキは子供ながらに思うのだが、
おばあちゃんが言う時はいつも、

「うちは二百年」

とぴしゃりと言うもんで、
ミズキもハイそうですか、と口をつぐんだ。
別に二百年だろうが三百年だろうが、
今の当家になんの影響も無い事をミズキも知っている。

ミズキは母も父もよく『仕事』で家を空ける家庭に育ち、
年の離れた姉と兄も頻繁にどこかに行く始末で、
家の中に居てくれたのは『おばあちゃん』だけだった。

おばあちゃんはどこかへ行かないのだろうか。
ミズキは子供の心を遠慮せずに解放して尋ねた事があったが、
おばあちゃんは「新幹線で座ってるのが辛いから」と話した。

「同じ椅子に二時間も三時間もなんて、
 もうばあちゃには辛いのよ、判る?」
「おばあちゃんは家で本読む時だって同じ事するじゃない。
 同じ椅子に二時間も三時間も座ってるよ」
「家の椅子は家の椅子。
 新幹線の椅子は全く別。
 あの椅子はおばあちゃんに優しくないのよ」

座り心地だけが嫌いな理由じゃなくてね、
好きな所にいけないってのが、もうなんか辛いのよね。

そこまでの説明に子供の勘が働いて、
これ以上話を伸ばしても何も面白くないと悟り、
ミズキはまた昔話をせがむ日々だった。

そんなミズキが五年生の時だ。
小学校の五年生。

「ミズキ、いくよ」

初めて母が新幹線のチケットを渡した。
「誰と行くの」という質問には「お母さんとよ」と返り、
「何処まで行くの」という質問には「名古屋よ」と返り、
おばあちゃんが、

「まだ早いんじゃないのかい」

と言った言葉が、

「私も同じ年で母さんと行ったわよ」

という母の言葉に喰われた。

そうか、
僕はおばあちゃんが嫌った新幹線の椅子に乗るのか。
嗅ぎ慣れない匂いのタクシー中、
新幹線の切符は無くさないでねと母がミズキに二回も言った。
珍しい事だった、母が同じ事を二回も言うなど。

島本の家族は無口が揃っている。
唯一おばあちゃんだけがミズキによく喋ってくれた。
母によるとおばあちゃんも家の外では無口らしいが、
小学五年生は家の中という『世界』が大きい。
家の中でお喋りならば、それはもうお喋りと断じたくもなる。

大半の家族が無口。
その弊害は習字の時間に出た。

好きな言葉を書きましょうねと先生が命じ、
ミズキは墨汁を付けた筆で大きく『二百年』と書いた。
時間を表す言葉を書いた生徒はミズキだけだったので、
先生も思わず「どうして二百年なの?」と尋ねたくなったのだろう。
それに「おばあちゃんがいつも言ってる」とミズキが答えたもので、
その後の家庭訪問で先生が、

「おばあさまはいつも何の話を……」

などとおかしな事を母に聞く羽目になる。
その母が二回も言うとは、
無くしたら大変な事になると思いミズキは切符を仕舞い込んだ。

新幹線から降りたのは名古屋らしかった。
瑞貴が初めて見た名古屋は拍子抜けしたものだった。
名古屋弁と言う妙ちくりんな言語を喋る人が闊歩しているかと思ったが、
実際はその多くが口を閉じて淡々と駅構内を歩いている。
見た目は同じ日本人、名古屋駅に金のしゃちほこも無い。
「なぁんだ、ここも日本だね」なんてミズキが言うと、

「日本人が一杯いるでしょ、ちゃんと日本よ」

と母が笑ってくれた。

その後の移動はまたタクシー。
その中で母がミズキに説く。

「これから志賀野さんに会うわ。」
「お母さんのお客さん?」
「その志賀野さんがミズキに仕事して欲しいって。」
「お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいに?」
「話を聞いてあげて」
「頭も撫でるんでしょ?」
「頭は特に撫でなくていいわ。
 ミズキが心の底から撫でてあげたいと思った時だけにして」

ミズキの母の癖は間違ってない事には答えない事。
志賀野さんは客。兄や姉みたいに仕事をする。
母の頭の中では『正解』と処理された会話はすっ飛ばし、
次の会話へと流れていく。
ミズキも母の息子を十年以上やって、
もう慣れた。判っている。

「こんにちはミズキ君。
 おじさんはね志賀野さんだよ、よろしくね。」

タクシーが止まったのは大きな建物だった。
金細工で「HOTEL」の字が読み取れる。
入った部屋には日に焼けた肌の男と畳の部屋が待っていた。

「それじゃミズキ、お母さんはこっちの部屋にいるから。
 判らなくなったらお母さんって呼ぶのよ。」

母が奥側の部屋へ抜けていくと、
畳の上に膝を付いた志賀野さんが「ミズキ君、あのね」と眼鏡をはずし、
目をしばたたかせて右手で顔の表を上から下へと拭った。
それが志賀野特有のはにかみだと母はミズキに教えていない。
大人の恥じらう仕草など、子供は察しなくても良いと思っての事。

「おじさんねぇ、もう身体も大きくて大人なんだけど、
 膝枕して欲しいんだ。いいかな?」
「はい、今日はよろしくお願いします。
 お布団引きますか?」
「おっ、凄く礼儀正しいなミズキ君は。
 布団は大丈夫、畳の上に転がるから」
「じゃあすいません、先に寝転がって貰って良いですか」

膝枕には作法がある。

膝枕とは甘える。
人体の最大急所の頭部を相手に任せる。
相手に自分の『時』を委ねる。

自分から頭を置きに行く事を想像しやしないか。
相手の膝に自分の頭を置きに行って、
肉の厚みを頭で覚える。

だが勇気のいる事だ。
照れ臭さもある。

島本家の仕事では初対面の相手もかなり相手取り、
その全員が図々しく頭を預けてくるとも限らない。
おずおずと、あの、いいんですか?と頭を中々置かず、
得も言えぬ時間だけが積もる事も考えられる。

だから膝枕は『迎えに行く』。

大人の巨体が目の前で寝転がるのは迫力がある。
見ているのはまだ小学生だ、体格差が凄まじい。
大人の身体の各所が畳に降りる音を聞き終え、
仰向けになった志賀野さんの後頭部に、

「失礼します」

とミズキの手が滑り込んだ。

頭の下に手が来ると人は反射で頭を持ち上げる。
そこにミズキのまだ小さい膝が確かめるように納まる。

「うん、やっぱり似てるね」
「何がですか?」
「君のお母さんが膝枕してくれる仕草に。
 やっぱり親子だからかな」
「そうかも知れませんね」

膝枕は迎えに行く。待っていては不作法だ。
その言葉を箸を持つより前にミズキは教え込まれていた。
ある時はやってもらい、ある時は自分がやる側に。
家族と練習した作法が、自然にするりと流れ出た。

「……おじさんねぇ」
「はい」
「お兄ちゃんがいるんだけどね」
「はい」

膝枕の作法その二。
枕側からはなるべく喋りかけない。
枕は聞くだけ、寝かすだけ。

「犬を飼い始めたのよ、家で。
 まだおじさんがミズキ君より小さい頃」
「はい」
「兄貴がね、その犬をまぁ可愛がったのよ。
 小さい体の犬でね、そんなに大きく育たないの。」
「可愛いですね」
「そう、それでそれでコロもね」
「犬の名前ですか?」
「そうそう、コロって言う名前だったんだけど、
 コロも兄貴が座ってると足の上に行って座るの、ちょこんて。
 で兄貴もよくきたなーって撫でてさ。」
「はい。」
「それでね……どうしたと思う?」
「え?」
「ふふっ、おじさんがね、何かしたの。
 何したと思う?」
「……お兄さんみたいにコロちゃんを可愛がったんですか?」
「ふふっ、違うんだなぁ。
 あのねぇ、笑っちゃうよ?」

しかし既に笑っているのは志賀野の方だった。
ミズキは判らない、といった様子で笑顔で首をかしげて見せた。

「おじさんがね、兄貴が座っている所に頭のっけたの」
「膝枕って事ですか?」
「そうそう、兄貴の胡坐に膝枕しにいったの。
 そしたら兄貴が白い目で見てさ、なにしてんだお前?って」

ミズキが一瞬戸惑う。
こんな時は笑って良いのだろうか。
それとも堪えるべきなのだろうか。
母もおばあちゃんも教えてくれなかったぞ。

考えるミズキの頭を差し置いて腹筋がしゃしゃり出た。
無意識にミズキの口から笑いが噴き出た。

「笑っちゃうだろ?」
「いや、すみません」
「良いの良いの笑い話なんだから、笑っちゃってよ」
「そ、それでどうしたんですか?」
「払いのけられてさ、その後にコロが来て座るの、兄貴の足に」
「ふっ……」
「それでコロの事は撫でるんだよ、お前は可愛いね~って。
 俺、もう悔しくてさ。」
「………っ……。」
「大丈夫大丈夫、笑って大丈夫だから」
「いえ……それで?」
「それで……おじさんねぇ、それがずっと忘れられなくてねぇ。
 兄貴は割と良い兄貴だったのよ、おじさんにとって。
 お菓子は分けてくれたしゲームも取り合いしなかったし、
 でも唯一その時の経験がねぇ……。
 男が男に膝枕ってのも、もしかしたらおかしかったかも知れないけど、
 いやぁ……おじさん、相当ショックでね。」

その言葉が引き金の様だった。
ミズキの手の平が操り人形のように自然と浮き、
それが泡に触る落ち葉のように志賀野の頭に添えられた。

「もうそれ以来一度もしようとしないよね、膝枕。兄貴に。
 また払いのけられるのが怖くてさぁ……。
 でもね、その兄貴がこの前死んじゃったの。
 すい臓がんって言う病気でね。」
「はい……」
「思い出しちゃったねぇ……膝枕の事。
 それをリョウコさん、あ、お母さんに言ったらね。
 ミズキ君が今小学五年生で、あの時の兄貴と同じ年だって」
「そうなんですね」

もうミズキの手は志賀野の頭の上を動いていた。

「大人ってねぇ……不思議なもんでねえ……。
 ふとした瞬間に過去の忘れ物を取りに帰りたくなるのよ。」
「はい」
「五十年位ずっと忘れてたフリしてたんだけどね。
 他にも色んな良い事あって、もうどうでもいいやと思ったりしたんだけど。」
「……忘れ物、取りに戻れました?」
「……半分くらいかな」
「そうですか……」

ミズキの手が少しずつ速度を緩め、
髪の毛の一本一本を確かめるように志賀野の頭を撫で続けた。

「リョウコさんありがとう、もう良いわ」
「あれ、まだ時間より早いですけど」
「うん、もうこれでね、今回は十分過ぎた。
 ありがとうな、ミズキ君。」
「いえ、こちらこそ有難う御座いました」

志賀野から母に渡される報酬を茶色の封筒が目隠しする。
その中身がどれほどのものなのか、
お前が知るにはまだ早いよ。
そう言いたげな速さで母はカバンに封筒をしまった。

早いものだった。
おばあちゃんが嫌いと言った新幹線にまた乗っている。
ただし、今度は帰り道。

「ミズキ、どうだった」
「何が?」
「アンタこの仕事、好き?」
「えー……判んない」
「……そうだよね、まだ何も判んないよね。
 ところでアンタ、志賀野さんの頭、撫でたの?」
「言わない。」
「ん、その通り。正解。」

膝枕の作法。
枕は聞いた事を外に持ち出してはならない。

枕はただ言葉を受け止めるだけ。

人は枕に言葉を埋め、しまう。
心の内から、出せるだけ。
大切なものまで混じって埋めて、
埋められた枕は漏らしちゃいけない。
聞いた事も、した事も、何もかも。
それが膝枕屋。重ねた歴史は二百年。

「……志賀野さんもアンタに気を使ってくれたのかしらね。
 時間よりも早く上げてくれて。
 今度はこっちがサービス付けなきゃ」
「違うよ」
「ん?」
「違う。違うとしか言えないけど、違うよ。」
「……そう。」

志賀野はミズキが思うよりも早く頭を上げた。

「もしあの時兄貴にして貰ってたら、
 兄貴の足が痺れるだろうなって、
 これくらいでおじさんも止めてるから、きっと」

その言葉が志賀野家の兄弟仲の良さを垣間見せ、
ミズキもまた察するに十分だった。

「母さん」
「ん?」
「今日は皆が無口になるのが判った気がする」
「あはは、そう?」
「でもばあちゃんは何であんなによく喋るの?」
「母さんはもうほぼ引退してるようなもんだから。
 今まで我慢してた反動でしょ。家の中では。」
「母さんもばあちゃんみたいになったら喋るの?」
「えー?
 さぁ、どうだろうね。」

名古屋を出た新幹線が暫く二人の自由を奪う。

島本家の家系は膝枕屋。
代々続いて二百年。

始まりは古くから、もう何時かは判らない。
ただ多くの秘密を聞き重ね、
言えぬ言わぬを繰り返す。
偉い方の話も聞いて、貧乏人にも膝を貸し、
色とりどりの秘密が染みて、
枕になりて二百年。

言えぬ秘密が多過ぎて、
二百年より多くは重い、しょいきれぬ。

ゆえにいつも二百年。
どれだけ経っても二百年。

島本家は膝枕屋。
代々続いて、二百年。

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