新しいビットマップ_イメージ_-_コピー

コイン。硬貨の事。
『二択』の物事を決める時に使うと良い。
表と裏にそれぞれ賭けて、
あとは宙に放るだけ。

物事は思い通りに行く事と行かない事の二つある。
もし、人間に起る物事の良し悪しが神か仏の博打だった場合、
この時代の二択は何を使っていたのだろうか。
豪華に小判でも放っていたのだろうか、神達は。

少なくとも事態は千代の思い通りには進んでいない。

千代がすみれの身体を棒で殴った時にあった手応え。
お化けと呼んでいたからてっきり当たらないと思っていたが、
手応えがあるなら退治する事も出来る筈。

後は皆で袋叩きにする流れになると思っていたが、
村の連中は思ったより臆病で誰一人森の中へと入って来ない。

千代は思わず舌打ちした。

しかし思い通りにいってないのはすみれも同じだった。

村の連中を挑発して山の中に誘い込み、
死角を利用してコカして木とかに頭ぶつけて気絶させ、
全員駄目にした後に五十八を助けようと思っていたのに、
連中が思ったより臆病でこの娘っ子一人しか森の中に入って来ない。

すみれもほぼ同じ時に舌打ちをした。

お互い構っていられない。
もう追って、追われている。

千代の方が不利だった。
すみれは沼の中に身体を隠し、
沼口をすぼめて動き回り、
その上森の中なのでとにかく目で追ってられない。

千代は足を止める他無かった。
相手がどこに逃げ込んだのか判らない以上、
無闇に動き回ってもただ疲れが溜まるだけ。
棒を両手で構えた千代は腰を低く落とし、
耳も張って一旦守りの態勢へと入った。

耳を澄ますと如何に村の連中が臆病かがよく判る。
後続の足音が一つだって聞こえてきやしない。

アタシだって怖いんだよ。
でもあの水溜まり女を放っておいたら五十八が。
現に今朝だって見ただろあの顔色の悪さ。
あの女と会ってるせいで生気を吸われてんだよ。
なのにどうしてお前も会ってるんだ五十八。
そんなにあの女に惚れてるってのか。

五十八のバカ、
あの女を退治したら絶対に頬を引っ叩くからな。

心にもやもやが充満している千代だったが耳は良かった。
後ろで幽かに鳴ったカサっという音を聞き逃さずに振り返り、
鳴ったかと思う場所に棒を勢いよく突っ込んだ。

しかし手応えが無かった。
すみれの罠だったのだ。
すみれが放った石の音だった。

しまったと思うよりも早く千代の足が取られる。
ズデンとひっくり返った時にはもう遅かった、
沼から身体を大きくせり出したすみれが千代に殴り掛かり、
それからはもう滅茶苦茶だった。

千代もすみれに殴り掛かり、
髪をひっぱり合い、
もつれ転げ、
地面にはお互いの髪の毛がまばらに落ちる。

「てめぇっ……」

千代がすみれの左頬を拳で打った。

「お化けの癖に五十八に色目使ってんじゃねぇ!」
「……っ」

よろけたすみれだが左手で地面に身を受けると、
唾を一つ吐き捨てて千代を睨みつけた。

「色目……?色目を使うどころか五十八の口を吸うてやったぞ」
「なに!?」
「それにこの胸であいつの顔を抱いてやった。
 上着を脱いでな、この肌で、直接よ。
 それで何をしたと思う?五十八が。
 私の身体のほくろを数えよった。
 私の見えない所まで数えてくれてな。
 幾つ数えられたかお前にも教えてやろうか?」
「黙れ!」

怒りに任せて千代が蹴りにかかる。
すみれは沼ごと身体を引いて、
空を切った千代の足から草履が飛んで行った。

「おい、お前も五十八の事を好いておるんだろ」

惚れた腫れたは得意じゃない、
そういう人生を千代は送ってきた。
しょうがない事だ、誰にでも得手不得手はある。
しかしこの時に於いては具合が悪い、
一瞬身体が固まった千代に対しすみれがそれを見逃さず、
また足を刈ったすみれが千代の身体を押し倒した。

「好きなんだろ?なぁ好きなんだろ!
 じゃあどうして五十八を好きだと言わなかった!?
 言っても相手にされなかったのか!?」
「うるさいっ…言った事が無いだけだっ」
「じゃあ引っ込んでな!
 世間は声を上げた者の勝ちなんだよ!黙ってりゃ負けなんだ!
 ずっと私は黙ってばかりだったよ、
 でも五十八には思い切った、好きだと言った!恋仲になった!
 今お前がしてるのは恋路の邪魔だよ、すっこみな!」
「化物が一丁前に恋仲なんて吹いてるんじゃねぇ!
 アタシだってなぁ……!」
「……ふん!知ってるかい?五十八は私みたいな顔が好みなんだと。
 アンタみたいな顔じゃなく、私の顔がね!」

けれど五十八は外見だけで人を選ぶような男ではない。
それはすみれも判っていたし、千代も判っていた。
一緒に笑い合った分だけすみれも判ってる、千代もそうだ。

けれどその言葉が千代の怒りの火を煽った。

確かに地形の不利は千代にあった。
だが腕力の不利はすみれにあった。
伊達に男に混じって畑仕事をやってない。

組み伏せていた筈の千代の腕の筋が隆々としまり、
持っている棒を体の間に挟んでぐいぐいとすみれを押し返し始めた。

このクソ女、まるで男みたいな力だ。
すみれがそう思っているうちに体勢は逆転し、
上に居た筈のすみれはあれよと言う間に千代の下になった。

「アタシだってねぇ…!なんでアンタなんかが…!」

棒を掴んでいた千代の両手が危ない場所をがっしり掴む。
すみれの首だ。確かな手応えがある。
感触も温度も気持ちが悪い。
でもこの首は絞めれば絞まる。
千代は今、初めて本気で他人の首を絞めている。

すみれの両手が千代の両手を引き離そうとかかるが、
怒りが筋を激励したか、首にめり込むばかりで離れない。

すみれが死ぬかどうかは判らない。
だがこうせずにはいられない。

「死ねっ………!」

心の何処に潜んでいたのか、
初めての出番を仰せつかった『殺意』は千代に加減を忘れさせ、
重なりあった自らの爪が折れるかと思う程に力を込めさせた。
もはや『慈悲』も『優しさ』も千代の心の中に無い。
ただ目の前でパクパクと鯉の様に動くすみれの唇が憎かった。
この口が、五十八のそれと重なったのかと思うと。
殺してやる、このまま。

「くっ………」

という声とも言えない呻きを最後に、
すみれの手が地面に落ちた。
それを見届けた千代だが暫く首を絞める力が緩まず、
ようやく手を首から抜いた時には幽かだが震えが来ていた。

森の中、
もう動かないすみれの上に馬乗りになった耳に虫の音だけが聞こえる。
激しく興奮していた反動か、
首から手を離した千代の意識が薄れてそのまま仰向けに倒れた。

本堂の中の五十八は気が気でなかった。
戸の隙間からわずかに見えるので、
すみれが現れた所までは雰囲気もあり判ったが、
それから先が良く判らない。

躊躇していた村の者のうち数人が森に入った所まで判ったが、
その後しばらく静かになったかと思うとまたざわめきが起った。

千代、千代と声がする。
戸に身体を押し付けてみると男二人に担がれる千代が見える。
ぐったりしている千代の身体は自ら動く気配が無い。
境内の石畳の上に寝かされた千代の周りを数人が取り囲み、
その中の話声が幽かに五十八の耳元に届いた。

「枯れていた」

と。
すみれの事で頭が一杯の五十八にはそれがすぐ沼の事だと判った。
さるぐつわをされているので声を上げる事は出来ない。
縛られた身体しか動く術がない五十八は扉に何度も体当たりした。

「おうおう五十八、もう終わったぞ」

そう言われたのは和尚が扉を開けに来た時だった。
千代を探しに行った男達が言うには千代の近くに大きな穴があったという。
触ってみると少し湿っていた事から、
お化けが入っていたあの水溜まりの名残だろう、
千代があの化け物を退治したんじゃろうと聞かされた。

縄を解かれた五十八は一目散に森の中に飛び込んだ。
千代とすみれが抜けていった方向だ。
どこだ、どこだすみれ、嘘じゃろう。退治されたなんて。

そこここを掻き分け探していると、
確かに一つ、人が一人入れそうな程の穴がぽつんとある。
触ってみると湿っている。

「すみれ すみれ、どこじゃ、いるんじゃろ」

すみれ、すみれぇ、どこにいるんじゃ。
おったら返事をしてくれ。
終いには大声で名前を呼びもしたが返事の一つも帰って来ない。

そんな。すみれ。嘘じゃろ。どうして。

とぼとぼと五十八が境内の方へと戻ると、
ちょうど千代が目を覚ました所だった。

どうした、一体何があった。
村の連中が上体だけ起こした千代に問いかけたが、
当の千代は呆けているのかぼうっとして返事をしようとしない。

「みんなも落ち着け。
 千代、判るか、和尚じゃ」
「……和尚さま」
「そうじゃ、千代、自分の事は判るか?」
「わたし……?」
「そうそう、森の中で何があった?」
「……もみくちゃになって……」
「うん」
「首を……」

その時の動きを再現するのだろう、
千代の手がゆっくり持ち上がって、
何かを掴むように宙に手の平を形作った。

「こう、絞めました」
「退治したのか?」
「はい、しっかりと」

囲っている一同から漏れたため息は安堵の表れ。
そうか、じゃああの枯れた穴はお化けの名残か。
ともあれ良かった良かった、これで一安心よ。
本当本当、千代ちゃん大手柄だねぇ。
そう沸き立つ一同から離れた所に五十八は居た。
それで良かったのかも知れない。
おかげで強く握り込んだ拳のきしむ音に誰も気づく事が無かった。

どんな日でも夕方はやってくる。
それまで横になっていた千代はむっくりと起き上がった。

家に戻った千代の身体を父親が悲しがった。
お前、ここにもここにも痣が沢山あるじゃないか。
そう言われた千代はするすると着物を全て脱ぐと、
身体のあちこちにある痣があらわになる。

「なんてこった、こんなに」

父親は更に声をあげて悲しんだが、
千代はじいっと自分の身体を見渡すと、

「まぁ、相当殴り合ったから、仕方ないよ」

と極めて冷静に返した。

父心は過保護だ。
いいからお前は寝てろ、休め。
半ば強引に娘を寝かすと、枕を転がし掛け着もかけてやった。

その休みが功を奏したと思ったのだろう、
父親はすっくと起きた千代を見て喜んだ。

「ちょっと散歩に行ってくる」

という千代を心配したが、

「身体を動かした方がいいから、鈍っちゃう」

と言われ、
うんうんそうだな、お前の言う通りだ、と千代を出した。

ああ、茜色。
男達は畑仕事から引き上げて好きな所へ散っている。
すれ違う村の者からは「千代、お手柄だったな」と声をかけられ、
千代はそれに微笑んで手を振った。

二つ地蔵の前をてくてく、
村の外れへとてくてく、てくてく。
のっぱらの中まで歩いて行くと、
五十八の背中が見えた。

背中はきっと心の写しになっている。
心の影が背中に写って気持ちの色が判っちゃう。
五十八は膝を抱えて丸く蹲り、
かつていつもすみれと会っていた場所に座り込んでいた。

たし、たし、と足音を鳴らし千代が近寄り、
五十八の前で同じように腰を下ろした。

「いそはち」

千代がそう話しかけた。
ゆっくりと五十八も顔をあげた。
千代の赤く照らされた顔がにっこり笑って、

「やっぱりここに居た」

と、
その声はまるで大気のよう。
五十八の耳を優しく撫でるように届いたが、
だが五十八の心の内は全くの逆だった。

正面の千代を突き飛ばす様に五十八は掴みかかった。
千代の身体は悲鳴をあげる暇もない。
そのまま千代の首を五十八は力一杯両手で締めにかかった。

「こうやって  こうやってすみれをやったのかっ!」

五十八も他人の首を絞めるのは初めてだった。
ましてや殺意を込めて絞めるなど。

びっくりした千代の身体はパチパチと瞬きをすると口を開け、
しかし声は出ないのだ、石でも割れるかと思う程の五十八の力、
溜まらず千代の口から舌が出る。

やめて、と言えないので両手がパンパンと五十八の手を叩いた。
しかし五十八の力は緩むそぶりが無い。

すると千代の両手は自分の服をはだき、
自分の乳房をあらわにさせた。

それがどうしたと五十八は千代の顔をじっと睨んでいる。
その千代の瞳がくりくりと変な動きをし始めた。
ある一方に向かって、チラ、チラ、と動く。

あまりに何度も動くもので五十八もその方向へ目をやってみると、
千代の両手が人差し指を立て、体の一部を指し示していた。

胸の上、鎖骨の下。
そこに横並びのほくろが二つある。
はだけた胸を見渡すと計六つ、
頬にも二つ。

頬に二つ、頬に二つ。

千代の顔は知っている。
がきの頃から見飽きた顔だ。
こんな所にほくろはなかった。

五十八の手が緩むと、かはっ、と千代の身体がせき込んだ。
見ると首に三つほくろが見えて、
腕を取ってみると、七つ、ほくろが。

「はぁ……はぁ……う、海の」

取られた腕にすがる様に千代が身をしなだれかかり、

「海の見える場所で、詩を」

と零した声は、
うんしょうんしょと五十八の身体に登り、耳に入り、
事の全てを悟らせた。

「全く……けほ、同じ日に二度も首を絞められるとは思わなんだ」
「おまえ すみ  んぐ」

言いかけた所で千代の手が五十八の口を遮った。

「千代。今は千代じゃ」

優しい動きだった。首を絞められていたとは思えない。
ゆっくりとした動きで五十八の口から手を放すと、
もう一度、途切れた言葉を言い直す。

「海の見える場所で、詩を詠んでくれるか」
「……詠む、なんどでも、詠むほどの頭もないが」
「ふふ、ああ、良かった……」
「なんと……信じられん、おまえ本当に」
「顔はお前様の好みじゃなくなっちまった、すまんの」
「いや……いや……!そこにいるのがお前というだけで…。
 でもどうして」
「うーん、詳しくは判らんが、
 きっとこの娘が『殺した』からじゃないかのう」

今まで沼は殺してきた。
事故であれ、故意であれ。
沼の中に落ちた者を、沼が殺して代わってきた。

けれども、
千代は沼を殺した。
沼に入っていたすみれを。

「約束じゃよ?お前様。ちゃんと詩を詠んでくれよ?」
「ああ、詠む詠む、もういらんと言うても詠んでやるわ」
「なんと、そこまではいらん、困るのう」
「ええ、酷い事をいう」
「ふふっ、あはは」
「へへっ」
「はははは」

このように伝わる。

昔むかしある所に 沼に住む女あり
この女 化物の類で
ある男の生気を吸い 呪い殺そうとするも
相手の男と恋に落ちる

男も虜になり 更に生気を吸われるが
男に惚れていた村の別の女がこれを良しとせず
男を寺に閉じ込め 火炙りにすると知らせを出す

沼の化け物 男恋しさに寺にくるが
勇敢な村の女がこれに挑み
果ては恋路の邪魔をする女が退治され

男は退治した勇敢な女と夫婦になり
仲睦まじく暮らし 子宝にも恵まれたとのこと

果ては恋路の邪魔をする女が退治された

とのこと


いまはむかしのものがたり

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