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もう聞けないこの声を

砂漠には砂、
海に水。
行きつけの店には美味い酒。

『場所』を因数分解してみると、
無いと存在が破綻する要素が見つかる。

結婚には愛、
別れに哀愁、
待ち合わせに店にはシューベルト。

20世紀初期のイギリスの作家、
ルカ・テイラーは人間の感情は七種だと言った。
喜び、
嫌悪、
驚き、
悲しみ、
怒り、
恐れ、
そして最後にシューベルト。


日曜の昼過ぎ、
PASMOに食わせた交通費二千円、
妻と一緒に電車に乗って、
知らない人の家に行こうとしている。

行き先の家には妻の友人夫婦が住んでいる。
奥さんの方が妻の大学時代の友人で、
旦那さんと会うのは妻も友人達の結婚式以来。
「家に行こう」と提案したのは妻で、
俺はそれに「いいよ」と返した。
妻のバッグの中には、
不思議な有線イヤホンが一つ入っている。

有線イヤホン自体は珍しくもない。
ブルートゥースが巷で流行る近年も、
有線でしか再現出来ない良さを知る人達が買い求める。

もし、
今これを読んでいるアナタの近くにイヤホンがあるなら、
ジャック部分を差し口からちょっと引き抜いてみて欲しい。
キラキラ光る金属部分に黒い線が横に二本、
もしくは三本入って無いだろうか。

その黒い線はジャック部分の電極の『仕切り』。
黒い線が二本ならジャックは三極に分けられ、
三本なら四極の製品という事になる。
あまり見ないかもしれないが二極のものもある。

だが『一極』製品は日本市場に出回ってない。
恐らく利用価値が無いからだろう。

だがあくまで市場に出回ってないだけで存在はする。
妻のバッグに入っているイヤホンがそれだ。

この一極イヤホンを手に入れたのは先週の土曜日。
妻ではなく、俺の手元に転がり込んできた。

人は十人十色にヘンテコな習慣を持つ事は御承知の通り。
俺の場合は満月の次の土曜日に必ず行きつけの店に行く。
やけに凝り性な店主がやってる地下バーで、
行けば当然酒を飲むが主目的は酒じゃない。
海外を彷徨う友人がたまにその店に帰ってきて、
日付は決まって満月の次の土曜日。
だが日本に帰る際に連絡一つも寄越さない。
そんな滅法分の悪い待ち合わせを毎月やってるんだが、
先週の土曜日は俺の勝ちだった。

待ち合わせの相手は大学時代の友人で、
帰国の旅に変な物を土産で持ってきてくれる。
トランプ、メガネ、ビーター、スプーン。
そして今回、奴がテーブルに出したのがイヤホンだった。

「イヤホン?初めて電化製品持ってきたな」
「ドイツで見つけた。
 挿す所見てみ、キンキラの。」
「なにこれ、極が分かれてないじゃん。
 耳に付けるのはLRちゃんと分かれてんのに、
 何で三極じゃないの?」
「必要ないからじゃないか」
「LRに音振るなら最低でも二極必要だろ」
「そりゃ機械に繋ぐ場合のハナシだろ」
「……これ、何に繋ぐの?」
「人間。」

待ち合わせの店にはシューベルトがかかっている。
大学生の頃から通っているが、
何回来てもシューベルト。
いつ飲みに来てもシューベルト。
ある時に他の客がマスターに、

「こんな辛気臭い曲じゃなくて、
 もっと他の曲かけてよマスター」

と言っているのを見たが、
その時マスターは、

「じゃあ他の店行けや」

とそれまで聞いた事も無いような乱暴な口調で言い返していた。
これは余程シューベルトを愛しているのだろうなと思ったが、
話を聞くと好きな作家がシューベルト好きなんだそうな。

「これ、口に咥えて。」

と言いながら大学時代の友人がジャック部分を差し出してきた。

「え、これ口に?」
「そう」
「いや、口はちょっと」
「じゃあ手をグーにして」

言われて拳を作ってやると、
人差し指が巻いているど真ん中にジャックを挿された。

「クイズタイムだ」

そう言いながら友人がイヤホンを耳につける。

「昨日の晩御飯何食べた?
 おっと、口に出すなよ。
 頭の中で言ってみろ。
 お、唐揚げ?」
「……うそだろ?」
「もう一回いっとくか?
 晩飯くらいじゃマグレ当たりもあるからな。
 昨日嫁さんが履いてたパンツ何色だった?」
「やめろやめろ!ぶん殴るぞ!」

蜂を払うようにジャックを宙に放つと、
カン、コンと寂しげな音を立ててテーブルに転がる。
どこからどう見てもただのミニステジャック。
だが、人間用のイヤホンだと。

「……見えたか!?」
「映像は見えない、
 ただ声が聞こえるだけ。
 やっぱり皮膚だとノイズが酷いな。
 これ、一番良いのは粘膜部分なんだ。
 原理としては人間の『穴』に挿し込んで、
 ジャックのほぼ全体に接触すると相手の心が聞こえる。
 でも乾いた皮膚部分だとノイズが酷くて、
 粘膜、手っ取り早いのは口だな。
 そういう部位だとクリアに聞こえる。
 ちなみにヘソに挿すのはお勧めしない。
 下手すりゃ腹を壊すからな。」

面白いだろ。やるよ、嫁さんと遊んでくれ。
飽きたらいつも通りお前の好きにしていい。
そう言って手渡された不思議な一極イヤホンは、
土曜の夜に俺の所に転がり込んできた。

この友人は毎回変な物を土産に持ってくる。
トランプもメガネもビーターもスプーンも普通ではない。
色が変わり、熱くなり、音が消え、味を記憶したりする。
最後の味を記憶ってのはスプーンの話だ。
最後に食べた物の味をスプーンが再現する。
記憶させた味が肉じゃがならプリンを喰っても、

いや、この話は割とどうでもいい。
とにかく全部家の『土産箱』の中に丁重に保管してある。
だって、有用な使い道が無いもんだから。
持つ者の気分で色が変わるトランプなんてどうするの。
こっちの考えが筒抜けでババ抜きも出来やしない。

でもこのイヤホンは面白そうだ。

家に帰るなり、妻を呼んだ。
これ、これを口に咥えて。
そう言いながら差し出したジャックを妻もチラと見る。

「えーなにー?
 また長野さんから変なの貰って来たのー?」

妻も慣れたもんだ。
眉を曲げて尋ねてくる。

「今度は何よ」
「いいから咥えて」
「えー?  ん」
「えー、今から貴方の頭の中を読み取ります、
 これは愛の力です。
 今日貴方が一番嬉しかった事は何ですか。
 ……鮨?え?御鮨食べに行ったの?
 俺が長野と会ってる間に?」
「わーすごい、これで判るの?」
「ねぇ一人で鮨行ったの?ねぇ?」
「我慢できなかった」
「ねぇ鮨」
「わぁーかったから!今度一緒いこ!いくから!」
「ねぇちょっと」
「それにしてもコレすご――あ!」
「え?」

珍しい妻の感情は幾つかあるが、
こんなに『閃いた!』という表情はなかなか見ない。
あ!という閃きの声から十分後、
妻は件の友人夫婦に連絡を取った。

随分と遅い時間だったし、
日曜になるまで数時間も残ってなかった。
それでも相手夫婦は、予定を了承し、
妻は俺にも来るように言って、
俺はその提案に乗った。

妻と結婚して後、
結婚以前より他の夫婦が気にかかる。
いつもどんな会話をしているのか。
喧嘩した際はどうやって仲直りしているのか。
小遣いの割り振りはどう取り決めていて、
子作りはどう考えているのか。
どんな家に住んでいるのか、というのも、
興味としてはある。

あとは、
夫婦の片方が病気をした時はどうするのかも。

今日の雲はこぞってグループデートにでも行ったか、
空は晴天、雲一つない日本晴れ。
日差しが出迎えてくれた奥さんの目に飛び込む、
奥さんは眩しそうに眼を細める。
それでも嬉しそうに張り上げた声に共鳴し、
うちの妻も甲高い声を出して、
玄関には即席の女声二重奏。
観客が俺だけなのは忍びないと思ってか、
玄関の奥から旦那さんも顔を出して会釈をくれて、
こちらもコクリと会釈を返すは大人の礼儀。

玄関から中に通されると、
部屋の奥から聞き覚えのある曲が聞こえてくる。
あ、シューベルトだ。
そう思わず口にすると

「凄い、よく判りましたね」

と奥さん。
ええ、行きつけの店でよく流れてるんです、と、
少し気恥しく、小声で返事をした。

四人が座るだけの椅子はあった。
しかし誰かが座るよりも早く、
妻がイヤホンを取り出した。

妻から奥さんへ渡るイヤホン。
きっと旦那さんも待っていた。
旦那さんがイヤホンを持つ奥さんに近づくと、
無言のまま頷く回数、コクコクと二回。

イヤホンを挟んで男が一人、女が一人。
女が耳にイヤピースを入れ、
男はジャックを口に食む。
二人が目を合わせて、
今度は女の方が無言でコクコクと頷いた。

しかし、違う。
コクコクと、二回だけではない。
何度も何度も頷いて、
手は口の前に当てられて、
それでも頷くのが止まらない。
それを男はじっと見ていた。
女は口に手を当てたまま頷き続けていた。
そうだ、彼女は泣いていた。

色々な事が便利になっていく世の中が、
時たま恐ろしく感じる事がある。
思い通りにならない事や不便な事を、
すぐに放り出してしまいそうにならないか。

妻の友人達が結婚して四年目、
旦那さんを『咽頭がん』という不幸が襲った。
手術の結果、命に別状は無いものの、
それまで出せた声を失った。
奥さんも、もう聞き慣れた声を生で聴く事は出来ない。

咽頭がんで声帯部を切除しても全く喋れない事は無い。
食道発声、電気喉頭、シャント発声法。
これらの方法だと誤解無く聞ける程の会話は出来る。

でも結婚式で「愛します」と言った、
あの時と同じ声はもう出ない。

喧嘩をした時に詰まる様に言った、
あの「ごめんね」と同じ声はもう出ない。

旦那さんは元の声を失ってからシューベルトをかけるようになった。
幾つかの曲に決めてかけ、
それが旦那の気持ちを表していると奥さんが気付いたのは、
そんなに遅い事ではなかった。

「ねぇ好きって言って」と言えなかっただろう。
喧嘩をしても「謝って」と言えなかっただろう。
「おやすみ」声をかける事すら恐れた時も、
あったかも知れない。

ああ、初めての事だった。
長野からの土産を誰かにあげるのは。
夕方にお別れの挨拶を済ませて乗り込んだ東京メトロ。
お前から貰ったイヤホン、妻の友達にあげたんだ。
そう言ったらアイツはどんな事を言うだろう。
ええ?お前にあげた物だろう、とケチをつけるかな。
それともただ「そっか」と一言で終わるだけかな。
いや、アイツの事だ。
きっと「どんな相手にあげたんだ?」って聞くな。
なにせ、アイツは人間が大好きだから。

「初めて良い物貰ったんじゃない」

俺がそんな事を思っていると、
妻がそんな事を言った。

「今までアナタが長野さんに貰ってくる物、
 どれもどう使ったら良いのか判らない物ばっかりだったでしょ。
 トランプとか、スプーンとか。
 最初はあのイヤホンも、またガラクタ貰って来たなと思ったけど」
「いや、あれは凄い物だったろ。
 だって心の声が聞けるなんて神様じゃないとできない事だろ。」
「人間は口で喋れるでしょ。
 必要な事は喋ろうと思えば喋れるの。
 必要ない事まで喋らずに心で思うだけなのは何でと思う?
 それはその方が良いからよ。
 なのに強引にあのイヤホンで聞こうとするなんて下らない。
 言って良い事悪い事、
 そのバランスが大切なのよ、判る?」
「……じゃああのイヤホン、
 あげない方が良かったんじゃないの?」
「あれは違うでしょ、
 あの二人はお互いの心の中を不作法に覗きたい訳じゃない。
 ただもう一度、聞けない声を聞きたいだけよ。
 きっとあのイヤホンの、本当に正しい使い方よ。
 なんて言ってた?長野さん。
 あのイヤホン、本当は何の目的で作られたとか。」
「いや、ただドイツで貰ったとしか」
「なーによ、そういう事ちゃんと聞いとかなくちゃ」
「あーもー怒らないで、ごめんて。
 今日はこのまま鮨行こ、鮨。」
「昨日も鮨食べたよ」
「二日食べても鮨に罪は無いし、
 昨日鮨食べたのは君だけでしょ。
 えっ、まさか昨日の今日で鮨飽きたの?」
「どうかな、当ててみ?当たったら鮨ね」
「はぁー、うそでしょ?
 今からでもあのイヤホン返して貰おうかな」


妻の友人の旧姓は篠畑(しのはた)。今は近藤。
下の名前はみゆきで、
結婚後の名字の方が語呂が良いと笑って話してくれた。
そりゃあ名付けた親御さんのセンスが無いって事か?
なんて、そんな事を思ったが、
『しのはたみゆき』、
いや、存外悪い響きじゃない。

語呂が良いと感じるのは、
きっと愛する相手と同じ名字だから。

旦那さんが口にジャックを咥えた時、
奥さんは何にも言ってなかった。
一体旦那さんは最初に何て言ったんだと思う?
奥さんが泣くような言葉だからきっと「好きだよ」とかだと思うけど。
俺がそう言うと妻は一言、

「僕の声、聞こえる?」

と言った。
面食らって、え?と俺が言うと、

「長らく声を聞けてないとそれだけで泣いちゃうと思うよ。
 私もきっとそう。
 だからって変に試したら駄目だよ。
 わざと三年位監禁されたりしたら殴りに行くからね。」

監禁されている前提なのに殴りに来ると言う妻が、
俺の横で美味しそうに好物の炙りサーモンを頬張る。

でもね、
君が俺の声を聞けなくなる前に、
俺が君の声を聞けなくなりたい、
そう言おうとしたけども、
何故だかそれを聞いた妻が泣いてしまうように思えて、
俺もまた、好物のカンパチを頬張った。

今日はどの曲が流れるだろうか、
あの家のシューベルトは。

お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。