新しいビットマップ_イメージ_-_コピー

酷い勢いの雨がスルリと上がった。
酷い勢い故にスルリと上がるものなのか。

上がった雨が雲をも連れて逃げ去った。
嘘のような雨の後に嘘のような日本晴れ。
日差しにいち早く気が付いたのは鶏達で、
調子を確かめるように一鳴きすると、
次にはコケコッコー!と大声を上げた。

まだ早朝も出掛かり、
村の人間は一人残らず夢の中だったが、
五十八の目がぱちりと開いた。

独り寝床から抜け出し窓を開けてみるが、
右も左も水溜まり、道の上はびっちゃびちゃ。

だが悪路なんて構っちゃいない。
そのまま家の外まで出て二つ地蔵を通り過ぎ、
のっぱらの中をずいずい分け入る。


するとそこには変わらず沼がぽつんと五十八を待っていた。

「おい、おいおい」

パンパン、ついでにパン。

「なんじゃ、叩くのは二回までと言ったろう」

のっそりと姿を現した女に五十八は息を吐いた。

「昨日はすまなんだ」
「何が」
「いや、会いに来んで」
「ふっ……別に明日も会おうなんて約束もしてないだろうもん。
 それにあの雨だろう、流石に無理と私も判っていたよ」
「そ、そうか……。あのな」
「うん」
「実はお前さんの事を妹に話した」
「なにっ?」
「いや、直ぐに誤魔化したんじゃが、すまん、許してくれ」
「ど、どこまで話した」
「お前さんが言っちゃあいかんと言った事全部、
 その、なんだ、お前さんの事を話してしまえば、えーと、
 見目の悪い醜女で見るだけで金縛り、
 死んでも忘れ難い恐ろしさで一目見れば悪夢に出てな、」
「お、なんじゃ、ちゃんと全部覚えとったんか」
「え、うん」
「偉いな」
「へへ、そうか?
 はっ、いやそんな事はどうでもいい。
 それでお前さんが呪い殺しに来るちゅうて」
「うんうん」
「でも、お前さん来んかったな」
「……もしかして、私が来ると思って話したのか?」
「いかにもそうじゃ」
「いかにもって……ふふっ、あはは!」

沼がバシャバシャと波立った。
女はこれまでとはまた違った笑い方で腹を抱え、
それを五十八は頭を掻きながら見るしかない。

「あーはっはっは……のう、聞いて良いか?」
「お、おう」
「お前、本当に私の事を美人だと思っとるんか?」
「だからいつもそう言っておる」
「ふっ……じゃあ何か、私に惚れてるのか?」
「……まぁそうじゃの……。」
「……ばかめ」
「え?」
「お前の名前は?」
「えっ?」
「名前よ、名前。なんという。聞きたい。」
「五十八。ごじゅうはちと書いて、五十八。」
「いそはちか。判った、これからそう呼ぶ。」
「じゃあ、オラも呼びたい。お前さんの名前を教えてくれ。」
「名前か……何が良い?」
「いや、こっちが聞いておる。」
「五十八の好きな名前で呼んでくれ」
「そんな、お前さんにも名前があるじゃろ」
「いや、もう昔の名前は良い。」
「そんなこと」
「私はここから山を五個、いや、六個だったか?
 まぁ何個でもいい、幾つか越えた所の村に住んでたが、
 どうにもこの顔を気に喰わんと言う奴が多い所でな。
 いつも眠そうな目で人の話を聞いとるのかと馬鹿にされ。
 小さい頃からいつも仲間外れにされておった。
 姉者が二人いたがどちらも目がパッチリしてて、
 目が座りまくっておる私は本当の姉妹かといつもからかわれておった。
 それである日の事よ。
 みながいる場所で手伝いなどしてもいつも何かを言われるから、
 誰もいない所へと思って山に落ち枝を拾いに行こうと思った。
 父さまは籠(かご)をしょわせてくれてな。
 しかしそれがいかんかった。
 入った山の中でずぼ、と足を取られて、
 なんじゃと思うのも束の間、
 そのまま体ごと沼にぼちゃんと落ちてしまってな。
 いやそれで焦った焦った、
 何が焦ったってしょってた籠が引っ掛かったんじゃ。
 うまい具合に固まってしもうて、息が苦しい。
 そこで更にびっくりした。
 沼の闇の中から女が現れたのよ。
 それで私をどうにかしようと手を伸ばしてきたが、
 身体をぐいぐいと押すのよ。
 こっちも必死だが相手も必死な顔をしておった。
 どうやら沼から私を出そうとしてくれてたらしいが、
 籠がどうにも邪魔で浮き上がらん。
 それでその女が一言な、
 「ああ、すまん」という声を最後に私は気を失った。
 気が付けば沼の中、苦しくも無い。
 光のある方へ泳いでみると、そこは私が沼にはまった場所で、
 体は沼に浸かっておった。
 出ようとしてみたが出れず、
 中に誰かいるかと探してみても誰もいない。
 この沼はきっとな、一人しか入れん。
 一人入ったら先の一人は出て行く。
 その先が地獄か極楽かは知らんが……。
 前の女もきっとこの沼に入って長かったのだろう、
 ああ、すまん、などと申して……。
 まぁそれでな、沼に落ちてから幾日経ったかも判らんで、
 山を下りて家に戻ろうとすると途中で話声が聞こえた。
 私の事を話しておってな、
 あいつ、いつも馬鹿にされてるのが嫌で何処かへ逃げたな、と、
 そう話しておるのを私は影からこっそり聞いていた。
 そのまま一旦山に戻って夜を見計らい家に行くとな、
 皆の話声が聞こえてきた。父さまの声でな、
 あの娘が決めた事だ、行きたい場所なら行かせてやろう、
 姉二人とは見劣りする顔だったのは苦しかったのかもしれん、
 わしらは騒がず、そっと行った先での幸を願おう、と……。
 判るか?
 私はな、親からも諦められたのよ。」

いつもは沼で笑い声が溢れていたが、
今朝は随分と慎ましい。
女の声だけが淡々と重なり、
五十八はじっと聞いていた。

「きっとな、夢を見ておったのよ。
 これまでは夢、ぜんぶ夢。
 この目が気にいらんと皆から馬鹿にされ、
 家に戻らなくても親に探されもせず、
 そう、全部夢、みんな夢。
 目が覚めた今は随分と気楽なもんよ。
 行こうと思えばどこへでも行けるし、
 雨でも晴れでも気にする事は無い。
 私にとっては今が現(うつつ)、
 だからな、夢で呼ばれていた名前なんてもう忘れた。
 目が覚める時に、忘れてもうた。
 だからな五十八、お前がこの現の名前を私にくれんか」
「わしでええんか」
「お前、本当に私に惚れとるんか?」
「うん、だからそう言うておる。」
「ふふ…ならくれ、名前を付けてくれ。
 惚れられた男に名前を貰うなんて、
 現の女達を全員ひっくり返しても、きっとおらんじゃろ。
 な、五十八。」
「   すみれ」
「ん?」
「すみれが良い。綺麗だ。」
「花の名前か……ふん、お前思ってたより気障(きざ)だな」
「き、気に入らんかったか?」
「呼んでみ」
「お?」
「すみれって、呼んでみ」
「すみれ」
「――うん、悪くない」
「!そ、そうか」

幾ら早うに五十八が家を抜けたとはいえ、
時間が経てば陽がようよう高く上る。
ほら、もうすぐ仕事をせにゃいかんのじゃないか。
すみれはそう言葉で五十八を急かすが、
五十八の方は去りがたく、なかなか足を動かさない。

「もう、仕事終わりにまた来い、待ってる」
「!おう」

「待ってる」なんて、初めてだ。
また来いって事だろう、なぁそうだろ?
いつもしっし、とか、さっさと帰れ、とか。
つっけんどんな事しか言わなかった、言ってくれなかった。

「また来るからな!」
「うるさいばか、(ここにいるのが)バレる」
「ははっ!まだ皆寝こけてるわ!じゃあな!」

いつも来て良いのか実は心配だったんじゃ。
本当は迷惑がっとるんじゃないかと心配だった。
しかし今は全ては夢の霧の如くなり。
心が躍って口も吊り上がって仕方ない。

跳ねそうな勢いで去る五十八の背中をすみれは笑って見送った。
あんなにはしゃぎおって。こっちまで笑ってしまう。
さてさて、随分朝の早くに叩き起こされたもんよ、
こちとら失敬して二度寝とかこつけるか。

と、すみれが身体を沼に潜らせようとずぶずぶやると、
かさこそ、と近くで草が揺れた。
五十八の奴か?またしつこく顔でも見たいのか、
などと可愛い事を思い沼に入る身体を止めて草陰の相手が来るのを待った。

すると。

「もうやめろ」

現れたのは仁王立ちする千代だった。

千代の家は五十八の家の斜め前。
五十八が家から出るまでは気付かなんだが、
ばしゃりと水溜まりを蹴る音で目が覚めて、
女の勘がきりりと唸って服をひっつかみ後をつけた。

「五十八と会うな、ばけもんめっ」
「―――っ」
「話は聞いていたんだからな!」
「い、いや、待て」
「すみれっ」

男に付けられた名前を呼ばれて女の顔はボッと赤くなった、
火が出てもおかしくない位だった。
生きてる間にも感じた事が無い恥ずかしさで、
もう何も言えなくなった。

そこで千代が勢いづく。

「どこにも行けるし雨も晴れも気にしないって言ったけど、
 じゃあおまんまはどうすんのさっ、何を喰うのさ!
 生き物の生気を喰らうんじゃないのかい、
 五十八の命を吸ってるんじゃないのかいッ!」
「   ぁ  」
「いつも会ってたんだろう?じゃあ気付く筈だろう!
 五十八の頬がだんだんこけて、
 動きも段々鈍くなっていってるのがさっ!
 こっちはガキの頃から立小便する姿まで見てるんだ、
 鍬を振るう具合を見れば身体の良し悪しなんて一目瞭然なんだよ!」
「う  」
「五十八に気に入られてるからって恋人ぶりやがって、
 そうやってあいつを呪い殺すつもりかい!」
「や、ちが」
「これ以上あいつに憑りつこうってんならね、
 お天道様が許してもこの千代様が許さないからね、絶対に!」

すみれはそれどころじゃなく気付かなかったが、
千代の足は幽かに震えていた。
だが腕まくりをした。
精一杯の脅しで、強がりでもあった。

「この村から出て行きな、
 さもないと他の皆を呼んできて叩き殺すよ!」

はたまた死霊は殺せるのか。
そんな事は大した問題じゃない、
出来る出来ないで物事を考えていない。
とにかく千代は我慢がならなかったし頭に血が上っていた。
目の前の女が憎かった。

五十八からすみれと名前を貰ったこの女が。憎かった。

「さっさと消えなー!!」

逃げる必要はあったのか。
相手は生きてる、こっちは死んでる。
生き死にが交錯するほどこの世は精巧に作られたのか。

だがすみれはとにかく心が痛んだ。
千代が向けたこれ以上ない憎悪に耐え切れなかった。

座った眼を笑われた過去を思い出した。

話を聞いてるかとなじられた過去を思い出した。

お前ブスだなと指を指された過去を思い出した。

死んでなお村の者に悪く言われた過去を思い出した。

親が自分の事を探しにも来ずに、
家で姉達と変わらず飯を喰っている姿を見て、
ぼたぼた涙を流した過去を思い出した。

哀しみは五重奏、
隙間無くすみれを取り囲んで責め立てる。

耐えられなかった。
過去は夢じゃなかった。

草を掻き分けるようにして、
すみれが潜った沼がガサゴソと遠ざかる。

後に残ったのは肩で息をする千代だけだった。

遠くで鶏の鳴き声がする。
やがて男達が仕事を始めるだろう。

朝が始まる。

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