新しいビットマップ_イメージ_-_コピー

朝の畑に鍬を担いだ男達が出始め、
土を耕す音が鳴るのを合図とし、
家の外のカメの水を一口飲むフリで千代が様子を伺った。
五十八の畑である。

しかし姿が見えない。
五十八がいない。
今日は寝坊か。
手の甲で口元を拭った千代が周りを見渡すと、
それはもう良い天気であった。

ふと五十八の家の方へ首が向いた。
すると五十八の母親が丁度家から出る所だった。
手には桶、背中に家族の着物、
これから洗濯に向かうのだろう。

はて、ちょっと待て。
おっかさんはもう仕事に行くのに、
その息子の五十八は寝たままか?

千代はもう一度畑の方へと目をやった。
五十八の姿はやはり何処にも見えない。

千代の勘がピリっと辛く疼いた。

どうもこの感じは覚えがある。
昔に皆でかくれんぼをした時の胸騒ぎににている。
あの時は近所のみっちゃんが足を滑らせて田んぼの中にはまってた。

ほんの少し駆け足になった心の臓の打ち方で思わず足も速くなる。
ちょっと出るね、そう家の中に言い放つと千代は速足になった。

「おはようございまぁす」

声高らかに千代が挨拶をしたのは五十八の家。
おお、千代ちゃんお早う、どうしたい。
そうもてなしたのは五十八の妹で、
弟と父親はもう畑に出ていた。

「いや、畑に五十八の姿が んっ?」

ヤジロベエの様に千代が身体を揺らして家の中を伺うと、
そこには寝転がったままの五十八の背中が見える。

「あそこに転がってるのは五十八に見えるけど、
 どうしたんだい、寝坊?」

妹にそう尋ねると、
兄ちゃんは今日具合が悪いとのよし。

千代の勘がピリリっとくる。
今日は調子が良いのだろうか。

ちょっとお邪魔するね。
そう言って家に入った千代が五十八の横に行きぐいと肩を掴むと、
五十八はやけに元気の無い顔をしている。
薄く開いた口から「なんじゃ、千代か」という言葉だけが聞けた。

五十八、夢の中にいるのかお前は。
今にも閉じそうな目蓋から力の無さが見て取れる。

「お前のおっかあが洗濯に出てるのに姿も見えないんでな、
 どうしたと思ってきたが、ねぼすけか?」
「いや、今日はちょっと休みじゃ」
「風邪か」

と思って千代の小さい掌が五十八の額に当たるとお互いの熱を知らせ合う。
風邪なら熱が出て良いものを、
まるで道端の石を触る様な冷たさが五十八の額にはあった。

「なんだこりゃ、水風呂にでも浸ってきたの」
「いや、ちょっと……寝かせといてくれ」
「昨日はなに喰ったの」
「家族と同じものしか喰いやせん、もういいから」
「……昨日しっかり鍬を振ってた元気はどうした」
「昨日のうちに売切れ御免じゃ」

もう構うな。
そう言いたげに反対方向へと寝がえりを打ちそうな五十八の肩を、
千代は逃がさんと言わんばかりに手でひっくり返した。
肩が当たった弾みで音が鳴る程の勢い、なかなかのものだ。
五十八の方は迷惑だと眉間に皺を寄せてみせ、
それを覗く様に仰向けの五十八に千代の身体が覆いかぶさった。

「なんじゃ、もう」
「……」

朝とは言え家の中、屋根や壁によって光は遮られ、
それでも跳ね返って突き進む猛者達が五十八の顔を浮き立たせる。

肉が薄い。

肉なんて厚い場所と薄い場所がある、それは千代も判っている。
だがこの頬の肉よ。
ぎっしり肉が付く筈の頬が、
昨日の昼間はあんなにしっかりと付いていた筈の頬の肉が、
こんなにも薄いのはおかしいにも程がある。

「   すみれか」

もし五十八が背を向けていたなら、
顔の変化が悟られなかったのかも知れない。
だが身体の位置が悪かった。
お互い至近距離で向かい合うこの状況では、
「すみれ」という名を聞いて広がる目蓋を千代に晒す他無かった。

「千代お前……!」
「まだ会ってたのか……!」

お互い何を絞り出したのか。
声にそれぞれの感情がまみれ、
宿敵にでも会ったような二人の声色にそばにいた妹は一瞬背が凍った。

形勢は千代の方が有利だった。
覆いかぶさる体勢で上を取っていた事もあるが、
五十八にはもう千代の身体を払いのけるだけの力が残っていなかった。

千代は五十八を押さえつけ、
近くの手ぬぐいでなんとか縛り上げる。

「花ちゃん、おっとお達を呼んできて!」

と妹に声を大にして指示を出し、
畑に出ていた五十八の父親と弟、
それに数人のやじうまが家の入った時には、
漬物石の様にうつぶせの五十八の上に胡坐をかいていた。

「こりゃあ、一体どうしたこっちゃ、千代ちゃん」

五十八の父親が目を丸くして千代に尋ねた。
無理もない。
昔から仲良くしていた娘が朝も早くから自分の息子を縛り上げているのだ。

「こいつ、あやかしに憑りつかれてる!」
「えっ、あやかし?」

寝耳に水である。
この村ではあやかしなんておとぎ話でしか聞かない。
しかも今は朝。いかにも、

「暗闇が住処でござい」

と言い出しそうな話題を朝に聞くとは思わなんだ。
そんな心の気持ちが顔に出ている面々を見て、
千代の口は更に開いた。

「あやかしだか幽霊判んないんだけどようっ、
 こいつ、変な女に憑りつかれてんだ!」
「変な女なら今まさに五十八の上でどかっと座ってるが」
「あたしの事じゃないよっ!」

茶々を飛ばされ千代が怒鳴り声を飛ばす、
それを聞いた近所の犬の興奮のあまりに鳴き声返す。

「あたし見たんだ、こいつがコソコソ村はずれの野っぱらで、
 水溜まりから体半分出す女と会って話していたのを!」
「水溜まりからからだ?」
「しかも怒鳴りつけたらその水溜まり、動きやがったんだ!」
「千代、お前お化けに怒鳴ったのか?」
「おっかねぇ女だなお前」
「くっ……そんな事はどうでもいいんだよ!」

俯せの五十八の目の前に千代の腕がダンっと落ちた。

「水溜まりが動くか!?
 しかもその女、水溜まりの中に潜りやがったんだ!
 その水溜まりが動く、ガサガサと草むらの中へ!
 そんな奴この村にいるか!?居ないだろ!」

いるかそんな奴?
いや、居ない居ない、聞いた事も無い。
水溜まりが動くのか?
家の戸の前で様子を伺っていた村の衆が互いの顔を見ながら話し合う。
人だかりと千代の声が呼び水に畑仕事をしていた他の面々や、
家の中に居た女や子供達も五十八の家の周りに集まってきた。

「その女と五十八、睦言を交わしてやがった。
 憑りつかれてんだよ、
 今日だってこんなにやつれてる、
 働いてる男達は見ただろ、昨日はしっかりと五十八は働いてた!」

言われてみれば確かにな。
一緒に飯を喰ってる時も顔色は良かったぞ。
んだんだ。
口々に言い合う村人達。
今か、畳み掛けるのは今か、と奥歯を噛む千代。

「このまま五十八を放っておくときっと呪い殺される。
 そうしたら次は誰だ?
 呪い殺されるのはお前か香六?
 それともお前か、五郎兵衛、清吉、お佳代!」

仏様が見ていたら成る程、と思っただろう。
ヨソ様の事ならまだしも自分の事となったら焦るが道理。
顔を見合わせていた村人達もそれはイカンと思い始め、

「いったいどうする」

と千代に尋ねていた。

その頃のすみれはというと、
陽が昇るうちは山の中に引き籠っていた。
それで暇潰しでそこいらを散歩し、
夜になり気が向けば忙しく動く。
五十八と会う約束をした日は夕暮れ時から落ち着かなくなる。

だが今朝は違った。
山の一目の付かぬような所で沼の中に潜り切り、
夢の中で休んでいたら、
おや、なにやら聞こえてくる。
山の下の村の方から、
しかも聞き覚えのある名前を誰ぞが大声で話してる。

いそはち、いそはち、と聞こえるではないか。

何が起きたか知らないが五十八に何かがあったのか。
沼から目を出しガササと沼を見晴らしの良い場所まで動かすと、
すみれは寝起きの目を二度もこすった。
眼下の村では五十八が縛り上げられた挙句、
村の男衆達に担ぎ上げられてどこかへ運ばれるではないか。

「…っ…ええ!?」

まだ夢でも見てるのだろうか。
そう思わずにはいられない光景にすみれは思わず声を上げた。

「なんっ……なんで……ええ!?」

思わず腰まで身体をせり出し、
眉間に皺を寄せて覗き見る。

それにしても声、だ。
いや、歌声だった。
五十八を担いでいる男達のみならず、
その周りのやじ馬達も同じ歌を歌っていた。

いーそはち ひーそかな おーうせの相手
みーずから でーてくる おーばけの女
いーそはち なーんども おーうせを重ね
あーわれ  しーまいにーは くーわもふーれずー

(五十八密かな逢瀬の相手
 水から出てくるお化けの女
 五十八何度も逢瀬を重ね
 哀れ終いには鍬も振れず)

ぱんぱんぱん、ぱぱんが、ぱん。
歌と歌の間に手拍子も挟まれ、
村人達はまるで祭の様相を呈している。

祭で人は狂気を孕む。
いつもと違う雰囲気で、
いつもと違う事をして、
気分も欲もあらぬ方へと向かいがち。

山から見ていたすみれはその光景が恐ろしく思えた。

これはもしやすると、
五十八は殺されてしまうのではないか。

一気に青ざめたすみれは沼の中に潜り、
そのまま山の下へと向かって沼を滑らせた。

「おうおう、どうしたお前達、こんな朝もはようから」

驚いたのは寺の和尚様である。

村人の一人が縛り上げられ、
他の皆がそれを担いで歌いながら寺に運んできたのだ。
びっくりするなと言う方が無理がある。

寺に居る他二人の坊主も雑巾がけの途中で様子を見に来た。
柱の影から頭を縦に二つ並べて覗き込み、
手にした雑巾からは幽かに雫がしたたっていた。

「和尚様、こいつ憑りつかれてるんだよ!」

千代は和尚様に口早に事を説明した。
それを聞いた和尚の方は思わず首をかしげてしまう。
それもそうだ、この村ではお化けはもとより、
妖怪が出たなんて話も聞いた事がない。
全ては御伽噺の中、酒のつまみのネタばかり。
それが、

「本当に見たのか?」

と言わざるを得ない事だと言えよう。

「あたしが嘘吐いてるってのかいっ!」

五十八を縛り、村の皆に指示を出し、
ここまで五十八を連れてきた千代は大分興奮していた。

「おちつけ、おちつけ!
 お前が嘘を吐いてるとは言ってないだろ」
「これが嘘だったとしてあたしに何の得があんのさ!」
「うんうん、そうだ、確かにそうだ、お前に得は無い。
 だから落ち着け、落ち着け。」

両手を前に出して千代を落ち着かせた和尚様は、
今度は可哀そうにギュウギュウに縛られた五十八の所に来た。

「五十八や、今の千代の話は本当か?」
「………」
「違うとは言わないんだな」

五十八が寺に連れて来られる前、

「お化けなんかとは会っていない、
 今日は具合が悪いだけじゃ」

と言い張っていたが、

「じゃあどの女と会っていたんだよ!

と千代が相手探しを始めてしまった。
村の女達は墓場寸前から乳飲み子まで集められ、

「お前は五十八と逢引きしてたか!?」

といった具合に順々に千代に詰め寄られる。
結果、一人残らずそんな事はしていないと証言した。

この村は町からは離れている。
それに違う村から娘が通うには距離があり過ぎる。
一体誰と会っていた、すみれじゃないのか、あやかしじゃないのか。
そう問われた時に五十八は言葉を返す事が出来なかった。
問い詰めたのは他でもない千代で、
その目は真剣と言うよりもまるで怒っているようだった。

その一部始終を見ていた者達の口添えもあって、
遂に和尚も納得はした。

だが、お化けか妖かしらんがどうしたものか。
寺の和尚は念仏を唱える事は出来ても妖怪退治はした事が無い。

ある村人がこう言った。

「全身に念仏を書くのはどうじゃろう」
「それで耳だけ書き忘れるのか?」
「そうそう、耳無し芳一みたいに」
「あほう、ふざけてる場合じゃないっ」

またある村人がこう言った。

「五十八に他に女が出来たと言いふらすのはどうじゃ」
「んん?」
「お化けさんと五十八は恋仲なんじゃろ?
 それで他の女と五十八が出来てるとなれば諦めるんじゃないか」
「そうなったら、次の相手はお前がするのか?」
「えっ」
「それに恋がこじれた女は怖いぞぉ」
「ええっ」

声高に宣言したのは千代だった。

「ちがうちがう、こうする!
 五十八を火炙りにする!!」

お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。