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その好きをくださいな

好きじゃない相手を好きになりたい。

仕事場の厳しい上司、
結婚相手の姑、
そういう相手ではなく。

恋愛的な意味で。

このような話を聞いてどう思われるだろうか。
念の為もう一回言ってくれないかと、
そう声に出す方もいるだろう。

好きじゃない相手に恋をしたい。
好きじゃない相手を愛したい。

簡素に判りやすく言うとこういう事らしい。
人間が欲深い生き物とは言え、
これは欲深さが暴走して頭がどうにかなっちまってるのではないか。
そう思ってしまう程の大変な事柄だと思うのだが、
世の中ひっくり返すと実際にこうのたまう人が居ると言う。
お気の毒な事だ。

しかし私も似たような事を思う。
つい最近の事だ。

誰かに自分を好きになってくれないか。

そう思ったのだ。
いや、批難の声をかけるのは少々待って頂きたい。
自分の好意をコントロールするのと、
誰かの自分への好意をコントロールするのは全く別だと、
そう喉から出かかっているんでしょう。

判っているんです。
でも、結局は両方不毛な事だとは思いませんか。
落ち着いた所で私の話の続きを述べさせて頂きたいのですが、
つい先日、彼女に別れを告げられ五年の交際に幕が下りました。

彼女の気持ちは完全に冷めきっており、
私が花だろうがマンションだろうが、
もしくは関東一円をくれてやると言っても戻って来そうにありません。
私はまだ彼女に気持ちが残っていたので苦しさに悶え、
先程のような事をつい思ってしまったのです。
彼女がまた私の事を愛してくれないか、などと。

五年と言う歳月の重みは素晴らしく、
私は連日彼女への絶望感にのたうち回り、
遂には何故こんなに苦しんでるのかと考え始めました。

なるほど、答えは単純明快、
私がまだ彼女の事を好いているからに違いありません。
私が彼女の事を好きじゃ無くなればこんなに苦しむ事は無いんです。

そもそも恋愛における『始まり』と『終わり』は勝手が過ぎるのです。
あの人の事が好き、そう誰かが思って接近し始め、
相手にも同様の感情が生まれるように四苦八苦します。
同時にヨーイドン!で双方向の恋愛が始まる事などないのです。

終わりも同じように、
どちらかが冷め始めて耐えきれなくなった時、
交際相手に「ごめんもう無理」と伝えて終わりを迎えますが、
往々にして終わりを切り出される方は終わりの準備が出来ていないのです。

恋愛は戦国時代の謀略の如し。
同盟を結んでいた相手を裏切ろうとする際に、
「もうそろそろ裏切りますよ!」と声をかける馬鹿はいません。
相手に判らないように下準備をまんべんなく施し、
万全の時期を見計らって相手を一気に喰らうのです。

交際相手に、

「そろそろアタシ、
 アンタと別れようと思うんだけどさぁ~」

なんてリプトンでも飲みながら言われた人はこの世にいますか。

とどのつまり、
別れを切り出される方は武田に裏切られた今川家の如く、
精神が衰弱して心を潰すしかないのですが、
身体まで死んでしまっては元も子もありません。
どうにか生き残る道を探すしかないのです。

そこで専門的な知識を持っている方々に助言を仰ぎました。
インターネットという知識人も非知識人も集う社交の場、
どうしたら一体振られた彼女の事を忘れられるのでしょうか。

アクション映画を沢山見るといいよ!とか、
男なら風俗行って抜いて忘れろ!とか、
運動しろ!筋肉はお前を裏切らない!とか、
なんともお優しい意見が乱舞する電脳空間をくぐってみるも、
なにやらどうにもピンと来ない。
なんかこう、もっと、手早く気軽に彼女を忘れる事は出来ないだろうか。
そろそろ胃に穴が開きそうで医療のお世話にはなりたくない。

そんな時に目に付いたのが

「好きな気持ち引き取ります
 好きな気持ち与えます」

という商売文句だった。

苦悶の原因を取り払ってくれるのか。
一体どんなのだ。
苦しみと興味がマウスのクリックを加速させる。

開いた先のインターネットには『会員制』という門が待ちかまえていた。
しかも、登録料が三千円。お高い。
サイトには『安藤触媒』という化学会社のようなネームが構える。
説明書きを読んでみると

「一回の施術、一万二千円」

とある。
要するに締めて一万五千円。
お高いではないか。
非常にお高い。

登録料を払わないと施術者の連絡先は得られなくて、
しかも連絡してから準備が整うまでに時間がかかる事もあるらしい。

ただこのまま胃を壊したら十中八九医療のお世話に、
いや、絶対に医療のお世話になって胃カメラとか飲む未来が来てしまう。
そうなれば時間もお金も、
えーとあと胃カメラってウナギに似てるらしいから、
それからおいしくウナギを食べられない身体になってしまうかも知れない。

これまで煙草も吸わず、酒も嗜まない人生だった。
ギャンブルも風俗もやった事が無い。
今、唯一女で苦しんでいる。
なら、ちょっとの失敗くらい足を浸らせても良いだろう。
これが何かのオカルト宗教団体の入り口だったとてスグサマ逃げ出せば済む事だ。
登録料三千円、安い授業料だと思って使ってみよう。

ネットでは恐ろしい程金が動く。
レジで実際に金を握らないせいか。
ネットで三千円をポンと放り込んだが、
ただ0と1が動くだけの世界では手応えが薄い。
なんだ、こんなもんか。
そう思っている間に連絡先が送られてきた。
電話番号だった。

「もしもし、安藤触媒です。」

説明を一から十まで。
こういう訳で彼女を好きな気持ちを無くしたいのですが。
すると電話口の相手が意外な言葉を言う。

「良かったです、ドナーが足りてなかったんですよ。」

飛び出すのはまるで臓器提供の様な単語。
もしくは献血でよく見る看板文句か。
私はAB型じゃない。

電話口で相手の声が弾むのが判る。
まるで契約を取って来た同僚がオフィスに返って来た時の様では無いか。
はい、では予定は何時が空いてますか、
何日と何日ですね、はい、はい、
では追って施術日の連絡を致しますのでメールを御待ち下さい。
ご連絡有難う御座いました、安藤触媒でした。

かような流麗な受け答えであったゆえ、
拙者、思わずスルスルと事を進めてしまったのでござる。

施術代は日本円で一万二千円。
福沢諭吉一名、野口英世二名と言う豪華メンバー。
この御三方(うち二人は同一人物だけど)に御同行願い、
施術をするからと案内されたカラオケボックスへと電車で向かう。
下車したのは随分と五月蠅い街だった。

「どうも初めまして安藤です。
 では簡単な説明をさせて頂きます」

部屋は204号室。
カラオケはガッチャ。
マイクは二本、女が二人、男が一人。
てっきり施術は一対一で怪しげな催眠術でもされるかと思いきや、
俺の他にもう一人同時に施術を受ける女がいるらしい。
あなたも誰かを好きじゃなくなりたいんですか。

「これから行う施術ですけど」

誰も歌い始めないカラオケの中、
説明を始める安藤触媒の安藤さんはとても若い女だった。
思い込みの類だが四十を超えたオバちゃんが両手に指輪をわんさと付けて、
なんか水晶玉でも取り出すのかと思っていたがどうだこれは。
どこかの大学のキャンパスを歩いてるお嬢さんみたいではないか。

「こちらの男性が誰かを好きじゃなくなりたい、
 そしてこちらの女性が誰かを好きになりたいという方で」

こちらの男性、こちらの女性。
名前は出さない。
配慮と言う名の個人情報保護。

「今から男性の好きと言う気持ちを女性に移し替えます。」

いや、ちょっと待て。

ちょっと待って、ちょっと待て。

女性も同じ事を思ったのが顔で判る。

好きと言う気持ちを移し替えるって。

そもそも女性も同じく誰かを好きになりたいってんじゃないのか。

感情は水じゃない。
砂でも無いし岩でもない、
邪魔だからあっち行ってとどかせるもんじゃない、
だからこの世のあまねく人間は苦労してるんだ。
それを、入れ替える?

「あの   」

一万五千円はもう既に渡している。
それは目の前の女性も同じ事であとは施術を行うだけ。
しかしこれは度肝を抜かれた、感情を入れ替えるだなんて、

「そんな事が出来るんですか」
「正確に言うと私を触媒にしてエネルギー転嫁します。
 化学で触媒反応ってご存知ですかね。
 全く反応が起こらない状態の二物体間に、
 触媒を放り込むとあっと言う間に反応が進むって現象です。
 今回に於いては私、安藤がお二人の触媒になって、
 この男性の好き、という気持ちをこの女性に移動させるんです。」
「………それ、大丈夫なんですか?」
「突飛な説明をしているのは重々承知ですが、大丈夫、とは」
「……あの……えと」

何をどう説明したら良いのか。
そもそも抱いた不安を説明するほどの価値がこの場にあるのか。
だが人間は言葉を口にして状況の平均化を図る生き物。
言わねば何も進まない。

「俺は、彼女に振られて」
「あっ それ言っちゃっていいんですか」
「ええ、大丈夫です。
 それでその彼女の事が忘れられなくて、
 もう胃とか丸コゲみたいな状態なくらい辛くてですね、
 だから、彼女の事を忘れたくて、
 で、その気持ちを移し替えるという事は、
 そちらの女性も誰かを好きになりたいって事ですか?
 ピアノが好きになりたいとか、カエルが好きになりたいとかいう事じゃなく。
 それとも好きな気持ちなら何にでも変換できるんですか?」
「あの、落ち着いて、落ち着いて下さい。
 問題はありません、私が判ってますから、大丈夫です。」

興奮は自分じゃ気付けない。
宵がいつ夜に変わったのか気付かないのといっしょ。
安藤さんが両手を前に出してどうどうと押さえてくる。
そんな中、

「今度結婚するんです」

と女性が言い始めるではないか。
あんたもしゃべるんかい。
まるでそう言いたげな顔で安藤さんが女性を見た。

「二年付き合ってた相手です。
 その相手が結婚してくれて言うから今度するんですけど、
 でも流石に相手を好きでもないのに結婚するのはどうかと悩んでて。
 それで今回相手を好きになりたくてここに来ました。
 だから人を好きになるんで、きっと大丈夫ですよ」
「いや、え?結婚するのに好きじゃないって」
「だから不味いなとおもってここに来ました。」

被施術者がペラペラと喋るのは都合が悪いのか、
それともこういう事自体が初めてなのか。
安藤さんが開いた手をまるで「降参です」と言っているかのように開きっぱなしに。

「――二年付き合ってたんですよね?」
「はい、二年一緒に居ました」
「――え?」
「何かおかしいですかね」
「……どうして結婚するんですか?」
「相手が結婚して欲しいと、だから。」
「……え?
 えっ、ごめんなさい、安藤さんごめんなさいこの二人で会話しちゃって。
 でもちょっと一つだけ聞きたくて。
 どうして?どうして結婚するんですか?
 だって、別にあなたは相手の事好きじゃないんでしょ?
 二年付き合ってたってのも驚きですけど、
 どうして一緒に居られるんですか?」
「あの、これ以上は」
「いいです安藤さん。
 彼が私の事を金銭的に補助してくれるんです。
 私、物書きをやってるんですけど収入が細くて一人じゃ生きていけなくて、
 ある時から彼の援助が始り交際を申し込まれ、
 交際を断ったら援助を切られる可能性があったので交際し、
 今度は結婚を申し込まれたので受け入れました。
 断ったら援助を切られる可能性があるので」
「――それ、どうなの?」
「友人にも同じ事を言われました。
 だから色々悩んだ挙句ここに来たんです。」
「……俺の知り合いにも物書きいるけど……。
 えっ、あなたは恋愛系の物語とか書かないの」
「人が人を殺す物語しか書かないもので。」
「あっ そうすか……」

安藤さんが場の雰囲気を伺うように「あの」と切り出した。
そのまま女性に「良かったんでしょうか」と尋ねる。
女性は淡々としたものだった。
私と受け答えをしている時もまるで人形にでも話しているようで、
安藤さんに対しても冷めていた。
ただ一言、

「この男性も、安藤さんも、
 結局ここで私とすれ違って行くだけの人間同士でしょ。
 私の何を知られても構いません。
 とにかく安藤さんの私が誰かを好きになる原理は判りました。
 それが本当かどうかをこれから試しましょう。
 こう見えても私ちょっとドキドキしてるんです」

能面の様な表情でそんな事を言われても困る。
女性の表情筋には神経が通っていないのか眉一つ動かない。
安藤さんも女性の言動と表情のギャップに戸惑っているのか、
すこし物怖じした様子でようやく、

「では、お二方、両手を」

とそれぞれに右と左の手を伸ばした。
この手を掴んで気持ちの転嫁をするんだな。
そう思って安藤さんの手を握った。

「いいんですか」
「え?」
「その人を好きじゃなくなるんですよ、いいんですか」
「ちょ、芝さん」
「えっ」
「あっ、名前言っちゃった」
「大丈夫です安藤さん、構いません。
 私は芝と言います。芝智子です。
 そもそも有料でも感情を頂くんですから名前を名乗らないのは失礼だと思ってました。
 もし宜しければ名前を教えて頂けませんか?」
「俺ですか。土門です。」
「土門さん、いいんですか。
 折角好きになったんでしょう。
 それには時間もかかったんじゃないですか。
 色んな思い出もあるんじゃないんですか。
 それを手放しても、いいんですか。
 誰かを好きになる事はその程度の価値しかないんですか。
 私、何かの本で読んだ事がありますよ。
 誰かを好きになると言う事は人間にとって最も気高い行為だと。」
「芝さんも本当に好きになって良いんですか。
 その人の事、好きになっても良いんですか?
 好きになるって言う事は良い事、楽しい事だけじゃないんですよ、
 場合によっては内臓がひっくり返る程苦しい時だってある、
 綺麗も汚いも関係なく起こるのが好きって事なんですよ、
 その人との間にそんなグチャグチャな感情、やり取りする覚悟はあるんですか?」
「――それでも、
 私が物を書いて生きていくためには、
 こうするしかないんです。」
「そんなの、良い物語を書いてヒットさせりゃ良い話だ」
「気安く言わないで!!
 あなた今すぐ総理大臣になれるの!?
 オリンピックで金メダルをとれるの!?
 物書きは自分が書いた本が大ヒットするんて夢の様な話だって皆分かってるわ、
 それでも皆そう思わなきゃこんな呪いにかかった様な事しないの!!
 いつか自分が生んだ物語に光が当たるって、
 そう信じて泥水でも飲む覚悟で皆生きてんのよ!
 アンタにその何が判るの!!」
「ストップ!!」

ストップ、ちょっとストップ。そこまで。
切り込んだ安藤さんの声の鋭さ、黙り込んだ二人の気まずさ。
もうこれ以上の意見の交換は危ういと見た安藤さんが、
強引に両手をそれぞれに伸ばしてきた。

「施術を始めます。
 だんせ……もういいか、土門さんは別れた彼女の事を、
 芝さんは結婚される彼氏さんの事を心の中で思い出して下さい。
 出来るだけ強く思い出して下さい。
 施術の最中、握ってる手の温度が熱くなったり冷たくなったりしますけども、
 それは錯覚です。
 燃えたり凍ったりする事は絶対ありません。
 判りましたか。
 それでは二人とも心の中に相手の事を思って下さい。
 良いですか。
 それじゃ、

 いきます」

カラオケ屋を出る時に振り返って感心した。
最初はなんで施術をするのにカラオケなんだと思いもしたが、
なるほど、だからカラオケか。
施術は誰かを好きになりたい人と、
誰を好きじゃなくなりたい人が必要で、
手を握って直接転嫁をする分至近距離になる。
そうなると我々も人間だ、相手の事を知りたくて会話が始める事もあろう。
だが会話の相手は好きになりたい人とそうじゃない人、
気持ちが正反対なら口論に発展する事も自然の成り行き、
熱が上がって声も上がり、
その点一番都合が良いのがカラオケ、か。

「土門さん」
「はい?」
「宜しければ下の名前も教えてくれませんか。
 私が将来恋愛小説を書いた時、
 主人公の名前で使わせて貰いたいんです」
「そんな、恥ずかしいから土門だけでいいですよ」
「是非、下の名前を」
「芝さんってなんか押しが強いですよね……。
 きっと使いにくい名前ですよ?」
「なんていうんですか?」
「龍生。です。龍に生きるで、りゅうせい」
「わぁ、凄くカッコいい名前」
「ガキの頃はよく名前負けしてるってからかわれました」
「そんなこと、きっとないです。
 絶対使いますから。
 土門龍生、日本人では土門さんしかいないでしょうね。」
「楽しみにしてます。毎年芥川賞のニュース見ますよ」
「芥川か……どうかなぁ~~」
「頑張って下さいよ期待してます」

一番最後にカラオケ屋から出てきた安藤に会釈をし、
それぞれの帰路についた時間はまだ明るいもので、
これから来る夜の出番も随分と待ちが入るだろう。

けど今は何を待つにも気が楽だ、
何をするにも気負いしない。
ようやく別れたあの日から背負った呪いの様な感情を捨て去れた。
それが本当に良い事かと問われたが、
痛みの余韻を残す体内の胃が「これでいい」と言っている。
胃がねじ切れては生きてはいけない。

感情を移し替えた彼女もこれでいい。
彼女は彼女でそうしないと生きれないと言った。
なら、これでいい。

人生、生きるに越した事は無い。

たとえ誰を好きでなくなっても、

誰を好きになるとしても。

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誰かを好きになりたい女性、「芝」にはモデルがいます。
彼女は物書きで結婚した相手がいたのですが、
結婚の動機が「相手がお金持ちだから」。
当時彼女は夫との結婚生活が上手くいってないと言い、
私は思わず「結婚はそうやってするもんじゃない」と言いました。
数年経った今、その自分の言葉も正しいのかどうか。
だって世の中には色んな夫婦があると思い知らされるばかりで。
願わくば彼女の今の結婚性活に幸多からんことを。

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