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不貞の手紙 ①
しりとり。
それを教えられた時、
私は兄の横に居た。
教えてくれたのは年上のお姉さんだった。
名前はもう覚えていない。
私がお姉さんにしりとりってなあに?と聞くと、
言葉遊びよ、と教えられた。
言葉の『お尻』を取って、次の言葉の『頭』にするの。
ゴリラ、だったらお尻の『ら』をとって、
ラッパ、って次の言葉の頭につけるのよ。
そう説明された時、
私の身体はお尻の穴から脳味噌まで電気のようなものが走った。
コンコルドが音速で抜けていくような一瞬だったら良かったが、
身体の大きな獣が踏みしだいていくような重厚さがあり、
気のせいだと知らぬふりをする事はさせてくれなかった。
後から聞けば、兄も同じような感覚だったらしい。
言葉のお尻を取る。
言葉のお尻を。
それがしりとり。
初めてのしりとりは教えてくれたそのお姉さんを交え、
兄と共に三人で一時間ほど続けてしまった。
しかし終わりの合図はやってくる。
「ごめんね、お姉さんもう行かなきゃ」
と別れの言葉は素っ気ないもので、
お姉さんは私達兄妹を残して去ってしまった。
最後の言葉、「おかゆ」という三文字だけが私達の間に残された。
その日、家に帰るまでの道筋、
私と兄は「おかゆ」の続きをどちらからともなく求めた。
ひたすら言葉を繋ぎ続け、
帰宅後の晩御飯の最中ですら続けるものだから、
「食べながら喋るのは止めなさい」
と母に言われてしまったのだが、性懲りも無くまだ続け、
お風呂の中でも、布団に入ってからも、
子供は夢の世界へ連れて行かれる頃合いだというのにまだ続けた。
それで私はやってしまった。
ぶちゅう、と、
兄にキスをした。
まだ性というものが判らない年だった、
親もきっとそう思っていただろう。
二人きりの部屋で兄と私の布団をくっ付けていたのだから。
その時に冷静だったのは兄の方で、
やめろ、と身体をよじってそっぽを向いた。
拒まれた事が幼心に意外だった私は、
「なんで?」と聞くとキスは駄目だろと言う兄。
「いいじゃん、しりとりはしたのに」と私が言うと、
しりとりは良いから、キスは駄目、と言った。
「ゆりかもめ。」
兄が布団の中で回転し一旦反対側に向けた身体をこちらに戻した。
布団の中の短い別れ、土産の言葉はゆりかもめ。
頭の中で土産を頬張った私はすかさず、
「めんたいこ!」
と返した。
その日は何時までしりとりをしたのか判らない。
それから年月は随分経った。
私と兄は年子で、一学年離れている。
二人揃って高校生を送っているある日、
「こうしんりょう」
と私が言うと、
「もうこういうのはやめよう」
と真面目な顔で兄が言うではないか。
なんの事だかさっぱり判らず私が、
「何言ってんの、うだよ」
と言うと、
「彼女が出来たから、もう俺はしない」
なんて恐ろしい事を兄は言う。
その兄の目は冷ややかだった。
こちらも頭に血が上った。
別にキスをしている訳じゃないし、
パンツを見せてる訳でもないじゃない、
私達がしてるのはしりとりだ。
それと彼女と何の関係があるの。
詰め寄る様に暴言のような語気で兄に言葉を吐くと、
「俺達のしりとりはただのしりとりじゃないだろ」
と遂に兄が言った。
確かに、私達のしりとりはただのしりとりじゃない。
他の人がしりとりで感じ得ない喜びを私達は知っている。
なら、尚の事しようよ、彼女が出来たからなんだっての。
「こうしんりょう!」
駄々みたいだったが、実際駄々だった。
いいから続きを言えと言わんばかりの激しい語気で、
私は「う」の先を兄に求めた。
しかし兄は、
「やっぱり兄妹でこんな事しちゃ駄目だったんだよ」
とだけ言い、
まるで無視をするかのように私の横を通り過ぎて、
自分の部屋へと籠ってしまった。
だがその兄の部屋に鍵はついていなかった。
「こうしんりょう!!」
私は兄の部屋のドアを乱暴に開け放ち、
ドアノブが壁に当たる音以上に大きな声で続きを求めた。
でも兄の大きな背中が見えるだけで、
「う」の続きは聞こえてこない。
五月蠅いわよ何やってんのと母親の声が階下から割り込む。
頑として「う」の先を続けようとしない兄の背中は黙ったままで、
その背中から目線を外した私は下唇を噛みながら自分の部屋へ籠った。
兄が「う」を継いでくれない以上、
私は孤独なしりとりに耽るしかない。
通学途中の電車の中、
聞く気が起きない授業の最中、
お風呂で頭を洗う時。
「あ」から「を」までの四十五音、
濁音含めて七十音、拗音含めて百三音。
この世の言葉を全て網羅する勢いでしりとりしたが、
一人でするしりとりは温もりが無い。狭い。
精神的に充足しない、
ただ虚しさだけが負債の如く積もるだけ、
こんなの、寂しさが余計際立つだけじゃないの。
やっぱり一人でしてもしりとりは面白くない。
やっぱり相手を見つけよう、兄以外の相手を。
まるで喉がカラカラの状態で水の出る蛇口を探しているかのよう。
あなたはどう?それともあなた?ええい、アンタならどうよ。
蛇口をひねる代わりに、相手の頭をひねらせる。
しりとりは言葉遊び、すればするだけ知識を探る。
「久しぶりにすると楽しいね。」
蛇口は水を吐くが、人間は感想を吐く。
私が頭をひねらせた相手は軒並み笑ってそう言った。
でも違う。
私がしたいしりとりじゃない。
確かにしりとりはした、
言葉のおしりをあたまに付けて幾つも言葉を繋いでいった。
けれど他の誰としりとりをしても駄目だった。
兄とじゃ無ければ駄目だった。
他の皆はただ言葉を継いでいくだけで、
その言葉のやりとりの中、
誰にも言えないような感覚を秘めている訳じゃないのは、
相手の目を見ればすぐに判る。
兄の目は違った。
ともにお尻から脳味噌まで電流が走った仲だ。
兄はしりとりをする時に必ず私の目を見て、
私も兄の目の奥を見つめ、
しりとりをして覚える『あの感覚』を互いに確認していた。
でも兄はもう「う」から先を返してくれない。
兄と続きに続いたしりとりは十年以上。
すっかり頭は毒されて、
兄がもうしりとりをしてくれない悲しさで、
泣きたくも無いのに涙が出しゃばる。
なによ、そんなに恋人ってのが大切なのかよ。
じゃあ私だって作ってやるわよ、恋人を。
一念発起、
学年で一番モテて、
実際彼氏もいる神田さんの所へ足を向ける。
クラスが違うので少々厄介だった。
我が校の『他のクラスには入っては駄目』という暗黙の掟が邪魔をする。
どうにか他の人に話をとりついで貰い、
廊下に神田さんを連れ出した。
「私、恋人を作ろうと思ってるんだけど、
どうしたらいいだろうか」
それを聞いたモテ女はフグのような顔をして吹き出した。
恐らく笑うのを堪えてくれたのだろうが要らぬ気遣い、
私はとにかく真剣である事を説明すると神田さんも雰囲気が変わった。
「好きな人はいるの?」
「いや、それが判らない」
「じゃあ止めた方が良いよ」
好きでもない相手と付き合うなんて罰ゲームでしょ、普通に考えて。
そう言う神田さんの目の奥を見つめたが、
どうやら本気でそう思っているようだ。
いや、でもちょっと私は本気なの、
事情があって早急に彼氏を一体用意しなくちゃいけなくて。
神田さんもお人よしだった。
恐らく価値観の違いから私の言う言葉はどれも奇妙だっただろうに、
それでも耳を傾け頭を捻ってくれた。
「やっぱりやめた方が良いよ。
恋人ってそうやって作る物じゃないよ」
どうやら、本当に望みがないようだ。
まるで言い方が失敗した料理を咎める先生のようではないか。
カレーはそうやって作るもんじゃないよ。
お前は料理に向いてない、といった口調で。
お前は恋愛に向いてない、といった具合に。
私はそこから懇々とモテ女に恋愛とは何かを諭された。
しかし話の途中でチャイムが鳴ったので授業が始まってしまう。
これまでか、と自らの奇行を神田さんの顔から読み取り、
最早相談には乗ってくれないだろうなと思っていたが、
「次の休み時間に渡り廊下にアタシいるから」
と言われ、
まだ話を続けてくれる彼女の優しさに呆気となった。
クラスに戻り、教科書を開き、
ああ、初めてよ、こんなに時計を睨むのは。
一分、二分、三分。
ああくそ、60秒で五分進む世の中だったら良いのに。
期待と焦燥でカリカリしながら終わりのチャイムを聞くと飛び出し、
渡り廊下へ誰よりも早く陣取った。
迎えるは学年きってのモテ女、神田由紀。
さあ教えてくれ、恋愛とはなんなのか。
「あ、いたいた」
約束通りの登場に昂ぶりを抑えられなかったが、
神田さんによる綿密な事情聴取により、
熱はいつしか冷えていった。自分でも気づかぬ静かさだった。
その日の帰宅後、
母の美味しい夕飯を食べ終えて、
兄と二人でテレビを見ている時に私は呟いた。
「こうしんりょう」
いと小さき声にて、兄にそう言った。
求めているのかいないのか、良く判らない程の声だった。
兄にはきっと聞こえただろうが、「う」の続きは返って来ない。
やっぱり、兄は私としりとりをしてくれない。
言葉のやりとりの狭間で迸るあの形容しがたい感覚を共有してくれない。
まだ幼かったあの日、
私は感情の昂ぶりをキスという形で兄にぶつけたが、
あれはきっと私の精神が幼かったせいだからだ。
様々な感情がまだ上手く独立しないまま癒着し合ってて、
しりとりで得られる『激しさ』が幼き性的興奮に接触してしまったのだろう。
だが成長した今、
感情の国境線は整然と引かれ、
自分でも冷静に考える事が出来る。
キスじゃこのしりとりを賄えない。
だから私もあれ以来、兄にキスをした事は無い。
だって足りないのだから。
それは兄も判っている筈なのに。
だから「彼女が出来た」と言って拒絶された事は、
裏切りと悲しさと不可解さが綯交ぜになったような苦しさだった。
「 アタシ、今は恋愛するべきじゃないって言われた」
ああ、まるで当てつけのようではあるが、
兄に言いたくて仕方ないアタシの口が、
後先を考えずにそう零す。
「 だれに」
「うちの学年のモテ女」
「なんで」
「アタシが相談したの」
「なんて」
「どうしたら彼氏が出来るか」
「なんで」
「……しりとりやめるほどの事なの、恋人って。
それが知りたかった。けど駄目だって。
今の私の考え方は恋愛するのに不向きって言われた」
「 あのな」
「なに」
「いつまでもしりとりする訳にはいかないだろ」
「なんで」
「今は一緒にいるけど、
そのうち大学とか就職とかで離れる時がくるからさ、
そうしたらどうする、ラインとかで連絡しあうのか」
「そうだよ、すればいいじゃん」
「できなくなる」
「なんでよ!?」
「出来なくなる日がきっとくる。
続けようとしても、俺だけじゃない、お前も忙しくなって、
なかなか返って来ない『続き』に怒って、駄目になる。
続きが欲しくてたまらないだろ。
俺だってそうなんだから。
でもこんなの今だけだ、
こんなに自由に続けられなくなった時、
どれだけ辛くなるって、考えた事、あるのか?」
その兄の言葉は、
暗に「俺はある」、と言っているようなもので。
私は聞きながら胸が苦しくなった。
「 うみがめ」
「 えっ?」
でも、
兄の口から、「う」の先が。
「うみがめ。
でも、俺が悪かった。
いきなりゼロにするってのは、流石に乱暴だった。
俺も今冷静に考えて、反省している。」
「め?め!?」
「それでな、」
「めぐろ!!」
「ちょっと俺の話聞け」
「ろ!お兄ちゃん、ろ!」
「おい聞けって。
いきなりゼロは無理だから、
徐々に回数減らす事から始めよう。
言葉を返すのは一日に二回まで。」
「ええ!?そんだけ!?」
「俺とお前の為だ、俺達はちょっとしりとりに人生を使い過ぎた。」
「何言ってんのお兄ちゃん」
「いいから話を聞けよ。
俺達いっつもしりとりしかしてこなかったろ。
おかげで俺もお前も、恋愛の事なんてろくすっぽ判ってない。
相談に乗ってくれたって言うそのモテ女さんの表情も大体想像出来る。」
「ここ、唇の下に黒子があるの」
「そういう話をしてるんじゃ……。」
しりとりだったから、誰も注意をしてくれなかった。
セックスだったら、誰か咎めてくれただろうに。
人間という生き物は子供が悪い事をしていると大人が怒る。
なんで、大人達は私達のしりとりを咎めてくれなかったのだろうか。
今、こんなにも苦しんでいるというのに。
結局、私と兄しか理解できない世界なんだ。
私達で決着をつけるしかない。
お楽しみ頂けたでしょうか。もし貴方の貴重な資産からサポートを頂けるならもっと沢山のオハナシが作れるようになります。