疑問が与えた情報保障の新たな世界
9月中旬、とある親愛なる先輩から誘われた。
「武蔵野大学で、聴覚障害に関する集まりがあるよ。参加してみない?」
その集まりの名前は、聴覚フェスティバルという。
しかし、その時はインターン中で、とてもインターン終了後のことを考えられる状況になかったので、保留とした。つまり、行く気は10%程度だった。
そして迎えた9月23日。僕は武蔵野大学にいた。あれ?行く気あったの?
行く気になった理由は…「楽しそうだから」というものだった。
聴覚フェスティバルにて、参加したプログラムは以下の2つ。
中村馨章さんの音がもたらした知覚とアートの変化についての講演
両耳難聴の若者を対象にしたピアサロン
音声で世界が変わることもある
中村さんの講演を聞いて、「音声が聞こえるだけで、そんなに世界が変わるんだな」と思った。
僕は、大学生になってから補聴器を装着していない。高校生時代までは装着していた。しかし、音の判別がほとんど出来なかった。ほとんどがノイズのように聞こえていた。「それだったら、補聴器を付けている意味ある?」と疑問を感じて、今に至る。
だから、音声が聞こえることで見えている世界に色が付いた、世界が変わったという話は、僕にとって新鮮だった。
そして、「難聴者の中には、音声の方が世界が豊かになる人もいるんだな」という気付きを得られた。
その気付きが疑問に変わるのに、時間はかからなかった。
疑問が与えた情報保障の新たな世界とは
午後は、両耳難聴の若者を対象にしたピアサロンに参加した。
両耳難聴だからといって、手話や文字など目に見える視覚情報だけが唯一のコミュニケーション手段というわけではない。当然、音声を主にコミュニケーション手段として用いている人もいる。
今回参加したピアサロンにも、音声を主にコミュニケーションしている人がいらっしゃった。
ここで、僕のもとに疑問が降ってきた。
「音声情報を扱うことが多い難聴者は音声でのコミュニケーションに慣れており、長文を読むのに抵抗がある人が多いのでは?」
僕が知っていてよく見かける情報保障は、音声からの文字通訳や手話通訳などである。それらの情報保障は 音声→視覚情報 というものである。しかし、その視覚情報を受け取るのが難しいのであれば、それは情報保障にならない。
中村さんの講演で「音声で世界が豊かになる」という話があった。音声で世界が豊かになれる人もいるならば、音声での情報保障もしっかり考えるべきでは?
そのような疑問が突然降ってきたので、「音声と文字、どちらを使いたいですか?」という質問をした。
すると、想像以上に盛り上がってくれました。感謝です。
どちらか1つだけ選ぶなら音声がよい、という意見を出してくれた人の話の中では、
話している人と文字を両方見るのは、視線移動が多くて疲れる。
普段、音声を使うことに慣れているから。
というように、音声を使うことに肯定的意見もあれば、
英語の授業では、発音を聞き取れなくて教科書にある文字を見る。
リスニング時、通常では聞き取れないので音量を大きくしている。
話すスピードが早くて追いつけないこともある。
といった困っていることもあった。
ここから、僕はこう確信した。
音声を主にコミュニケーション手段として取っているから、情報保障はなくていい、足りなくてもいい、というわけではない。
例えば、英語のリスニングの時は音量を大きくしているという話があった。しかし、日常生活の中で常に音量を調整できるわけではない。もし、音量を自由に調整出来ないことで情報に漏れがあるとしたら、その状況に情報保障が必要であると言える。
スピード調整も同じことが言える。自由にスピードを調整することも情報保障として必要である。
普段、視覚情報での情報保障を受けている僕にとって、音声情報での情報保障という考え方は新しかった。世界が広がった。
「ピアサロンに参加した皆様、僕の世界を広げてくれてありがとう!!」と感謝して、この記事を締めくくります。最後までお読みいただきありがとうございました。
余談
ピアサロンでの議論概要を舞台に立って発表するとは聞いてなくて、発表直前までソワソワしていました。
無事発表できました。
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