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我が家の犬猫物語 2024

「初代クロッキーの話」1980―1991


 当時勤めていたパリブランド店の顧客に小説から飛び出したような若いご婦人がいた。ずば抜けて可愛いかった。十代半ばに代々の医師を夫に持つ事が既定だった天真爛漫の美魔女、O原夫人。そのままドラマの人生を謳歌してらっしゃって愛人は若い絵描き、一時は不倫逃避行が発覚し空港搭乗タラップから連れ戻された事がある。可愛いがっていた十代の一人娘の心は常にその両親からは遠く、達観を決めていた様子は不思議だった。一方 O原夫人はその奔放な性格と強い感受性がたたってクスリ中毒にもどっぷり。最後は若くして自死という謎の結末を迎えた。
 その憧れの O原夫人が飼っていたのが『ブラッキー』、それで我が家の初代は『クロッキー』になった。

(1979)昭和54年、国分寺丘の上の借家は最初の我が家になった。翌年に『クロッキー』はその平屋で初めて飼い始めたメスの子犬となった。立川のどこからかもらい受けた可愛いくて大当たりの犬だった。
 子犬の頃にクロッキーを連れて渋谷へは何度も出掛けた。抱っこの街ですれ違う度に誰もが「可愛い!」と振り返る。耳が大きくてふかふかのコアラの毛並み、クリっとしたお目眼、「こんな可愛いいなら俺も飼いたい!」ある有名俳優のすれ違いざまの称賛も頂いた。

 翌年、(1981)昭和55年7月長男 S一郎誕生。枕元にはクロッキーがいた。
 年齢と共にクロッキーの耳は少し垂れ下がり産毛はすっかり毛足が長くなった。それでも眼差しと笑顔はピカイチだった。日中の縁側暮らしから夜間の室内暮らし、やがては終日室内犬になっていた。家人はそれからずっと犬小屋暮らしに慣らされ、犬の毛は布団埃との区別はなくなっていた。
「お手」と「お座り」はすぐに覚えたがトイレの躾には長い時間が掛かった。が、粗相をしても叱らない事を心掛けた。食のおねだりに唸る鼻声が面白く「チョーダイナー」と言わせてからご褒美のおやつを与えた。寂しがり屋でちょっと弱虫。神経質な面もあったクロッキー、歯向かう素振りも普段は無いのに避妊手術の麻酔の抜け際ではガブリとやられた事がある。「なんか臭い」と小声で言うようなものならたちまち聞き取ってブルブルと震え出し、お尻がスカンクになる。腸内不調の通院時には車の座席にスプラッシュ。保育園迎えでは置き去りのパニックで車の狭い窓を擦り広げて脱走を企てた。籠った部屋の襖や障子の桟はいつもバリバリ、太い柱も細くなる。共働き飼い主のせいでいつも独りのストレスを抱えていたようだった。
(1983)昭和57年2月2日長女K子誕生。クロッキーのそばで二人が育った。

「お隣りのボクサー達の話」

 大家K嶋家にイタリアンチャンピオン系譜のボクサー犬が来た。アテナというメス犬、その壮漢さには似合わず実に優しい性格だった。
 数年後、種付けの成果で四匹のボクサーが生まれた。
 庭先の小屋の床に小さな命がアテナのお腹に張り付いていた。アルマン茶雌、アレックス茶雄、イリス白雌、アジ茶雌。アレックスはすぐに養子に出され、三匹が母アテナと暮らした。
 四匹の散歩は壮観、綱を操るのも体力が要る。アテナは大人しく、アルマンはやんちゃ、イリスは賢くアジはチョット間抜けさが可愛いかった。アテナはハーモニカに合わせてよく歌っていた。イリスとアジは何度か我が家で合宿をさせた。
 成犬になり活発になってK嶋家裏庭にはフェンスで囲った大きなハウスが出来た。この三匹の食事の量と勢いはハンパでは無くすさまじい。時々K嶋家の留守にアテナとこの犬達の大量の給餌と食後の散歩を手伝った。犬小屋フェンスを解錠するといつも短かな三つのしっぽがプロペラのように回りはじめる。

 我が家の前の駐車場ではK嶋家主人がよくバーベキュー等々を主催し、両家族全員集合で名シェフの味を楽しんだ。犬達も仲良く全頭集まり、肉類は太い骨までもが残らなかった。

 数年後、ある日、アルマンが金網を乗り越えようとして鎖が絡まり死んだ。アテナは老衰でこの世を去っていた。

 2000年代に入るとK嶋家にはボクサー犬に代わって白いラブラドール犬が就職した。『ラヴィ』はでっかくて太っ腹で人懐こい性格、対面するといつもとても喜んでくれた。ご主人はよく一輪車でラヴィのリードを引いてあちこちの公園で走り回っていて一輪車の怪人と評されていた。ラブの系譜は今も続いている。

 そう、仔犬時代のラヴィはホントに可愛くて、まさに走り回れるぬいぐるみだった。今でも道でラブ犬に出会うと必ず撫でまわしててししまう。

「色男クマの話」

 丘の上の一軒家、ある日玄関先の樫の木の下に陣取ってしまったむくむくの真っ黒な子犬、足元に纏わりついて不思議にすぐ懐いてしまった。そのまま我が家の養子にとは思ったが大家さんの顔色をはばかり断念、数日間「迷子のクマ」の看板を掲げた。そしてその数日にしてご近所のM本家に引き取られた。
 以来、M本ご主人の散歩の友となったのだが、脱走癖がついてしまった。成犬になると付近を徘徊してはナンパを繰り返していたようだ。
(1990)平成2年春、M本家のお向かいで飼っていたランドリエというフランス語ネームのメス犬を孕ませ4匹のおやじになってしまった。後日我が家もその保護者責任の四分の一を請負い一匹の雌を迎えた。大家さんも転居を控えた我が家にはその近所和解に賛成意見を示した。それは我が家の二代目「クリップ」になった。
 母ランドリエはそんな折り、紐がついたまま森元家の外扉の桟に頭が挟まり抜けなくなった。ご近所総出で木枠を広げた途端にパニックとなって逃げ去りそのまま行方知らずになった。
 父クマの脱走癖は相変わらずでテリトリーは広くなる一方、おそらくは範囲数キロ四方までに及んでいて帰宅までは数週間も要した。何度か散歩道で確保してM本家まで連れ帰った事もある。
 そしてある日、とうとう車に轢かれ片足を失った。クマは後日ドッグランクラブの初期ロゴのモデルにもなった。三本足のクマ徘徊はその後も続いた。数奇な運命を好んで享受しているようだった。

 我が家は子供の成長を考えてクリップの生まれた年の夏に丘の下二階家に引っ越した。

「二代目クリップの話」1990―2004


 色男のクマを父に持つクリップは子犬の時から撫でてもらうのが大好きな犬だった。成長するクリップはだんだんとクロッキーと毛並みが似てきて、まるで親子のよう。相性も良く二匹とももちろん毎日の散歩を楽しんでいた。鉄道学園跡地には良く忍び込んで自由に遊ばせた。子供たちもこの姉妹達と自然に優しく接していた。
 食いしん坊は父譲り、生協の煮干し一袋を食器棚の下から盗み食いして腹パンパン。肉ならば骨までバリバリと食べた。それで時々食傷していた。ドジな一面もあり鼻が蜂に刺され顔がまん丸に膨らんだ事もある。
 二匹を連れてのピクニックは子供たちにはとても楽しく休日までいつも待ち遠しかったみたいだ。小金井公園の丘では三輪車の紐に引っ張られたクリップがパニックに陥り走り回って笑いを取ったり、ショッピング待ちの車の助手席窓にはクリップの鼻マークでいつも汚れていたり。どこに行っても家族のそばから片時も離れずにいた甘えん坊であった。特にカミさんにはベッタリの犬だった。

「三代目クランチの話」 1991―2008 


 クロッキーとクリップのいる丘の下一軒家に新たなメンバーが加わった。(1991)平成3年、小学3年K子の同級生たちが鉄道学園跡地で拾ってきた黒い雌の子犬を持って来た。すでに二匹の犬のいる我が家だけが唯一の貰い手候補と考えたようだ。

 飼いい始めからさっそく靴やサンダルをかみ始めたので名前が『クランチ』になった。クランチも優しい雌犬だった。先住犬を常に立てて過ごしていた。三匹が争う事は無かった。セラピー犬として施設訪問した経験もある。
 鉄道学園跡地でよく鎖を解き放して遊ばせたが、クランチは子犬時代の習性からかたまに糞を咥えていて体中の臭い消しシャワーが散歩時一連の技となった。洗い易い短毛なのが「毛が香妙」というべきだろう。

「四代目コロの話」1990―2018


 丘の下の一軒家、初代クロッキーは。(1991)平成3年のある寒い日、急に具合が悪くなり病院へ運ばれ入院し、数日後に急逝した。老化原因の内臓疾患によるものと医師は言ったが、まだ11歳、ガスストーブの不適切な換気によるガス中毒だとずっと思っている。責任を感じている。クロッキーの葬儀は府中の慈恵院で行い、遺骨は後に「ジョッキー」と共に鉄道学園跡地の桜の木の下に埋葬した。

(1992)平成4年のある日、世話に手を焼いていた小平警察の刑事さんから2歳成犬の雌柴犬が嫁いで来た。最初は刑事の「コロンボ」と名付けたがやがて短く「コロ」になった。
                   
 コロはマル暴刑事の極道慣らしが厳しかったせいで来た日からテッポウの猛者、でも数ヶ月かけようやく懐き、クリップ、クランチ、コロ、三匹束ねた散歩も楽になっていた。
 近所のY辺さんの白茶ブチ雄犬「ターシャ」とは最初から相性良く、ある日我が家の玄関先でとうとう出来てしまった。コロだけ避妊を施していなかった。
 そして(1997)平成9年、冬のある日の夜、座敷のこたつの横で次々に羊膜に包まれた子犬たちを産んだ。四匹目は朝方に生まれた。一匹目の子犬は雌、前脚にダンスの白手袋をしているみたいで『タンゴ』と名付け我が家五代目となった。生まれてから初めて外に連れ出した時、最後に生まれた小柄な白い一匹『ジョッキー』は坂道を下りてきたじいさんの自転車に轢かれて死んでしまった。外に出した事が大いに悔やまれた。タンゴ以外の二匹はその後それぞれ養子に出された。

                       出産以来コロの性格は大反転、攻撃性が失せ極めて温和になり噛み癖も消えた。本能の母性だけが顕在化した。ただ、クリップとだけの仲は完全な改善は見られない、やや大きいクリップを長と認めるも時々本能的に一番席を脅かしていた。争いを避けるためクリップはいつも距離を保っていたが偶発の接近遭遇は避けられなかった。

                       クロッキーとジョッキー、二匹が眠る桜の木は公園が整備されてからも同じ場所で毎年花を咲かせている。

                      

「五代目タンゴの話」1997―2014


 タンゴは家族誰からも愛された。ただ我が家犬集団となってドッグランの他のグループと遭遇した場合にはタンゴだけが吠えまくり威嚇を繰り返し群れ独特の遺伝的天性を発揮する。タンゴ以外の犬たちはリードを離す事も許され一員として迎い入れられる。タンゴは離されて杭に繋がれた。

 ただタンゴ単独での行動時には不思議な事に全く別の借り猫、極めて大人しく振舞うのだ。


 鉄道学園跡地に都道を挟み南北に跨る武蔵国分寺公園が2002年に完成、工事前までは侵入し放し飼いも可能な散歩コースだったがそれ以後整備された犬散歩の名所となった。
 そんなある日、夫婦と三匹の散歩の途中でタンゴはリードが外れ一瞬迷子となった。二人で探し回るあいだタンゴは相当のパニックになっていた。
 家内の呼び掛けで反対側の公園にいたタンゴが都道を横切った時、大きな音が聞こえた。タンゴが車に跳ねられたようだった。二人が慌てて近寄ると横たわるタンゴの尾は揺れていた。それからどうしたか良く思い出せないが、抱えて家に戻り一晩なだめ、車に乗せて翌日動物病院に運び込んだのだろう。検査の結果、腰の骨が砕けていた。

 医師の勧めで農大付属病院を紹介され名医の執刀を受ける事になった。二週間ほどの入院手術により大腿骨にはチタンが埋め込まれた。退院後、すぐに以前の元気が戻った。 

 タンゴにチタンは相性が良く、一度も不具合無く生涯を共にした。

 ピンと立った耳、柴毛に長い白い鼻先、真っ黒な眼に黒鼻、生まれてずっとの白手袋。そのタンゴのそっくりさんがオーストラリアにいた。

『DINGO』豪州の天然記念物のその「ディンゴ」とタンゴは瓜二つ。何度かクイーンズランドの動物園まで観に行った事もある。白手袋まで一緒の犬もいて時空を超えた血の繋がりを思惟した。

(2004)平成16年6月6日朝、廊下を玄関に向かい歩いていたクリップはばったりと倒れそのまま帰らぬ犬となった。家族に看病の世話も掛けず前兆無く他界した。再び慈恵院で荼毘に臥し遺骨は持ち帰った。

 以後我が家は家族の色々な問題に立ち向かい続け、一方、残る犬達は安穏な暮らしが続いた。

 我が家は国分寺丘の下家主からの性急な退去要求で(2005)平成17年冬に急遽狭山市の一軒家に二度目の引っ越しを果たした。
 その引っ越しの二、三日前からやつれた猫が懐き始めたが世話を受け入れる余裕は無く、Y辺さんに後の世話や治療等を委ねた。かつてのクマとの出合いの経験も想いに重なったからだ。


 狭山に暮らし始め、犬達は皆健康的に過ごした。散歩コースも多彩にあった。視界遮るものが無い広い畑の風景はよく通ったゴルフコースや海釣り船の海原にも似て飼主の視力回復の役にも立つ。おまけにどこでもウンションが犬にとっては気楽な道だ、ウンは拾いションは大地に浸みて行く。
 キャベツの道、里芋の道、竹薮通り、落ち葉だまり、銀杏並木、上り道下り坂、バス通り、いろいろ田園風景があった。

 狭山には樹木が多め、豊富な自然があった。家の周辺ではタヌキとバッタリ顔を合わせた事もある。タンゴは散歩中、家の前の排水溝で良く匂いを嗅いで何かを探している事がよくあった。ある日数件先の庭先で数人が集まり網を排水路に仕掛けている最中に出会う。近所の天井裏に巣食ってしまった輩の大捜索模様。機を得てすかさずタンゴが追い立て役を志願したよう、三件先から鼻を溝につけ前脚で獲物を追い立てとうとう網に追い込んだ。そしてついにハクビシンが網に収まった。捕獲されたハクビシンは動物保護法にも守られつつ赤坂の森に放たれた。

 タンゴは一躍界隈の時の犬になった。


「六代目コタン(猫)の話」ま2006―


(2006)平成18年、狭山のある日、K子が子猫の鳴き声に気付き庭の周囲をしばらく捜索した結果、庭の物置の下あたりから子猫を回収してしまった。もちろん猫の警戒心はすぐには解けない。しばらく家の中から逃げ出さないようにした。子猫にはタンゴの子分資格を与え『コタン』と名付けた。部屋の天井には渡り廊下も備えてやった。時々扉の隙間から脱走しては付近を探しその都度確保した。コタンは三匹の先住犬と仲良く暮らし始めた。それからは我が子も孫たちも我が家に来たがる重要な動機になった。

         
 犬の寿命は次々にやって来る。
 クランチの左まわりがだんだんきつくなりやがて寝たきりの世話が続きやがて2008年6月6日他界した。
 内臓の病気を重ねていたコロも左まわりと徘徊が始まり庭のツツジに絡んだ時にはその泣き叫ぶ声は110番通報のパトカーも招いた。が、やがて寝たきりになったしまった。しばらくしてコロも他界した。(2010)平成22年10月2日だった。埼玉県某所の怪しげな霊園を訪ねてしまい、大道芸人が扮したような俄か坊主の読経に送られ灰になったが遺骨は無事我が家に帰還した。   

 こうして我が家のペットは犬猫各一になった。


 借家暮らしから終の住処を、と再び転居先を模索、時には安さを求めるあまり事故物件まで触手を広げたのだが、結局数百メートル先のマンション七階が最終候補に残り、初めてのコンクリート暮らしを体験する事となった。転居前、庭先に白黒の子猫が寄るようになり、数日の餌付けで室内閉じ込めに成功し『クロマル』と名付けた。数週間では膝に乗るまでクロマルも懐いたが、庭への出入りが犬も猫も自由だったためか、(2012)平成24年8月7日玄関門扉の前に轢死遺体となって置かれてしまう、最悪の結果を招いた。毛呂山の霊園にて荼毘に臥し遺骨は我が家に帰った。次の転居先ではペットの飼育制限があり最大二匹であった。クロマルはそれを気にかけ天命を受けたのではなかったろうか。 

 いつも玄関先には『ドラマ』と『不思議な暗示』があった。

                     

「七代目クロの話」 2002―2016―2020


(2012)平成24年秋にマンションには老夫婦とタンゴとコタンが住み始めた。
 コタンは住み始めから定期的に家出を繰り返した。自由だった昔のいい気分が忘れられなかったのか七階ベランダの手摺りを自在に伝わり階段を降りて外へ飛び出しそして旅を楽しみ始めた。最初は早めに気付き近隣で御用。二度目以降は主に旧住まいを目指していた模様。その都度尋ね猫のポスターを貼り回り、最長逃亡期間は概ね一ヵ月であった。最後の捕獲時はやはり前の家のそば、その時はげっそりとコケていた。 

 タンゴはマンション通路の歩行に際しては抱く必要があるため、乳母車を使っての外出が必要 転居後2年目頃からは老化が進行し体調は悪化していった。部屋にはマットの上にいつもペットシートを敷き詰めた。秋頃には歩行も難しくなり冬には寝たきり、そして年末に年越しを果たせずカミさんが長く愛したタンゴは(2014)平成26年12月14日他界した。 狭山湖湖畔で荼毘に臥し遺骨」は我が家に帰った。

 タンゴを失って翌年、爺が散歩の伴侶を求め団体を介して高齢の保護犬を譲り受けた。黒のイングリッシュ・ポインター、また雌犬。悩まず『クロ』と命名。即日懐いてくれて、吠える事も無い我が家伝統のおとなし犬となった。館内移動に際しては折り畳みの台車を利用した。

            
 その後5年間ほど良き友でいてくれたがその夏頃から老化により背骨が変形、後脚の機能を失って補助車輪を用意した。そのクロも先代達の最期を見習い冬の寝たきりから始まり(2020)令和2年12月4日に他界した。川越市の葬祭場で荼毘に臥し遺骨は我が家に帰った。


(2024)令和6年6月、クリップ、クランチ、コロ、タンゴ、クロ、クロマル、六つの遺骨は九州S一郎邸の庭に埋葬され上にはオガタマの苗木が植えられる。
         E N D



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