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あん時のエポック①小平


[営団の家]



 小平町にあった昔の我が家は一帯を西営団と称していた。住居表示は全部野中新田四八三番地。畑を挟んだ先は東営団と呼ばれていた。二地区は戦後の復興期よりずっと前に作られた平屋の住宅営団の団地で西営団は概ね二世帯が住む(簓子下見板張りの)長屋の群する集落であった。終戦後個人への払下げが進み、ほぼ十坪の和式3Kで父母兄ボクの暮らしが始まった。

 我が家の続き隣りには、最初、手だけで柱が登れる大学の先生が独り暮らしていたが、後に高校の校長先生小沢さん一家四人が住み始めた。皆優しい顔立ちの一家で長男は少し病弱だった。

 台所が接する側の隣りは開成高校の東北弁数学先生伊東さん一家四人が暮らしていた。その長男はボクと同じ歳の泣き虫、しんいちくん、しんちゃん、お父さんが呼ぶと「おーい、すぃんつー」。同じあおば幼稚園のメイトだったがよく東営団のグループや西営団のがきにいじめられ家に帰っていた。

 東営団のグループは一人の幼い子供を王子に例え祭り上げ一番の集団を形成しまとまりがあったが西営団グループは単に個の塊であった。南の原っぱでその東西が出くわすといつも東軍に押し出されていた。

 伊東先生の続き隣家も校長先生上原夫妻が暮らしていたが周りとの接触はあまりなく、向かいの家も中学校勤務後口さん一家四人が暮らしていた。何故か先生だらけの一角だった。

 垣根の南には三味線ツンテンドンが聴こえる日舞教室一家四人、その続き家には西森さんのあと平凡出版社勤務毛利さん一家が移住、二人の女の子がいた。我が家にも良く遊びに来るようになった。姉かおりちゃんは我が弟と同じ歳、妹アヤちゃんは子供ながらに「ベッピンさん」と思っていた。奥さんは「お話しじょーず」な記憶がある。ご主人からボクの誕生日にいただいた平凡のポケット科学便覧は後々まで我が数少ない座右の銘となった。

 やがて毛利一家はまた数年後小金井に転居した。

(そのまた数年後に中央線の向かい席にいた親子にばったり出会い挨拶を交わした、ベッピンさんは映画のようなベッピンさんになっていた。)

 毛利さんち西側にお住まいだった高尾さんちは井の頭高台の『スゲー』家に引越したあと、電電公社にお勤めの南洋顔ご主人加藤さんと奥さん。奥さんは美人、話しかけられるたび頬が紅潮してしまった。加藤さんが見せてくれたテレタイプ、エリザベス女王が即位した時にアルファベット印字された女王の横顔、また「スゲー」と感動した。

 その続き隣りには顔の鼻が高い高山さん一家、よく我が家の茶飲み会に現れては警察実話を披露してくれた。首吊りの話、一酸化炭素中毒の死体はピンク、交通事故、みんな怖ーいお話しだった。

 日舞教室平田さんの隣りには古物商を営む田中さんち一家六人、次男通称デブさん和男くんは同じ歳、その兄貴明男くんは我が西軍の正義漢リーダーで仲間を仕切っていた。

 その続き隣りは斎藤おばあちゃんの駄菓子屋さん、くじ付き大相撲甘納豆とインディアンガムの当たり場所をいつか覚え、新品が店頭に並ぶと五円玉を掴んで当たり買いに走った。おばあちゃんの怪訝そうな顔を見てからはそれをやめた。夏には花火が並び、中でも色とりどりの癇癪玉とベーゴマは近所ガキどもの流行りになった。丸メン角メンチビメン、メンコも豊富な品揃えがあった。

 次の時代、東営団にあるお茶屋兼駄菓子屋さんにはまる。

 おまけ付きグリコに始まり極め付きは紅梅キャラメル、それに付く巨人軍カードだった。水原茂、与那嶺要、別所毅彦、藤田達朗、南村侑宏、チューインガムの宮本敏雄、初代一本足の千葉茂。なかなか出ない川上哲治赤バット。スタルヒンや沢村栄治の記憶もある。

 森永ミルクキャラメルの包装紙の懸賞にも応募した。エンゼルマークが八つ欠けずに揃えば当たり、これもなかなか出ない口だった。送られてきた賞品が何だったかは忘れた。

 伊東家との間、狭い空き地にある時井戸が掘られ手押しポンプの炊事場ができた。さらに数年後、その井戸にはその手掘りをした浪江さんの工事で日立のモーターが取り付けられ二軒の台所に繋がった。タンクの水位が下がるとウィンドッコンウィンドッコンと唸り始め大きなベルトの動力車輪が回り始める。

 伊東家の庭の井戸のそばにはしんちゃんち自慢の木があった。子供の背丈ほどのポポの木、夏の終わり頃、緑色の大きな卵の実がなった。伊東家の食卓分の収穫だけで一度もしんちゃんの約束は果たせていない。我が家の実がなる木はグニャリ丈夫なイチジクの木、ただしパサパサで美味しい記憶が無い。

 うちの父は炭鉱会社勤めだったので外壁に石炭窯の木桶風呂場小屋も増築され水道が結ばれた。

 その風呂場が出来る前は西営団の有志が出資してできた広場と集会所、それに隣接した銭湯があるだけであった。子供の頃、「浴場裏にはお化けが出るぞ」とか「お風呂にウンコが浮かんでいたぞ」とか聞かされたせいで銭湯が大嫌いであった。我が家の風呂場ができてからは母親の「早くお風呂に入んなさい」の小言のせいで家風呂も嫌いになった。生涯、風呂好きにも温泉好きにもなれなかった原点がある。

 その銭湯歴史で好きだった事もある。父の手配でボイラー用の石炭板が日通の大型トラックで運ばれてくる。黄色いボンネットトラックから銭湯横に積み上げられた。幼稚園でまともに描けたのは横から見たその黄色の車体だった。また、たまに大量の廃材が運ばれてきて広場はみ出しの山が出来る。短く裁断されるまでの間、危険な登山が楽しめた。 

 風呂場の後期歴史にもワクワクがあった。

(後の時代、我が家が増築され風呂場も風呂桶も改装された時期、ご近所の若いきれいなお姉さんがうちの風呂を借りに良く来ていた。その時だけは遠慮の二階ひきこもり。少年ながらその姿を幾度も想像してしまう「穴でも開けよか」の自分を幾度諌めた事だろうか。今でもその脳内映像記憶が、残る。)

 水道は風呂場まで、便所はしばらくいわゆるPOTTONであった。出前式の汲み取り式で桶を二つ担いだお爺さんが木の柄杓で掬って行く、足元が覚束ない歩みがとても心配だった。リヤカーに乗せられ近所の畑の肥溜めにたどり着く。そこに貯蔵され肥やしになっていた。だからそれ以来葉物野菜は良く洗っても煮ても漬物になってもなかなか食べられなかった。

 風が吹く凧上げの日、畑を歩き周るとなお赤くなった臭い東京新聞が散らばっていて、顔を背けても眼が読んでしまう。弁当の包み紙は白い朝日新聞でほんとに良かった。

 秋の日の愉しみは栗拾い、営団南に接する畠の奥、弟を取り上げた助産婦さんちの南裏が林ペイさんちの放置された栗の木林、ガキ一団は竹竿を持ち込み、鉄条網をそっとくぐり抜け、弾けた毬を狙って叩く。落ちてる実落ちた実は拾い、落ちた毬は足で挟んで捻り出す。林ペイさんに見つかる前に作業を終え、原っぱに出てリーダー指導の公平山分け会が始まりポケットが膨らむ。木になる野菜に肥は使われない、だからボクの口は喜んだ。

 冬場一面が雪景色に埋もれた日、雪合戦に夢中になった一人の少年がその助産婦さんち裏手の肥溜めに落ちた。田中の和男くんだった。

 汲み取りの業務はやがて役場のバキュームカーが引き継いだ。鼻をつまんで身震いして怖いもの見たさ臭いモン嗅ぎたさで毎回業務は観察していたが「もしバキュームが逆噴射したら」の惨劇は時々夢に出た。

 あの時代、ゴミ収集など無い時代、家から出た生ゴミは各家庭の庭に埋められ堆肥にしていた。プラスチックなどまだ流通前夜、セロハンや紙なども混ざる事がなく理想的自然循環が実現していた。生活排水は家の前のドブに流され苔に染まり独特臭を放っていた。水中にはピンク色の糸ミミズがうじゃうじゃ、だから色形が似ていると感じた物が食べられなかった。太い親分ミミズも結構居て、赤糸が入るソーメンは好きだったがうどんがどうも苦手だった。

 伊東家との間の空き地では当時の流行り物はほとんど試した。メンコ、釘刺し、ベーゴマ、ビー玉、鞍馬天狗頭巾、カシノキから棒を吊るした剣豪武蔵、フラフープ、ホッピング、ダッコちゃん、雪の日の竹馬、空き缶ぽっくり。やがてそれらは見捨てられ、三越自転車に代替わりした。

 伊東先生の本が詰まった三畳書斎ではしんちゃんとアカデミックな遊びをした。小倉百人一首、国立公園カルタ、漢字の双六、地球儀、遊びで頭が良くなるいわゆる教育玩具のはしりだった。そこには時々浪人東大受験生も訪れていた、伊東先生が塾長。ボクの三つ上いとこも後に小六で伊東先生の指導を受け、その翌年に開成中学生になった。娯楽系は我が家の十八番。狭い押し入れを塞いだ野球盤、投球盤、籠球盤、コリントゲーム、軍事将棋、のちのち人生ゲームに麻雀牌。チャールズイームズのグラフィックモジュール、イームズカードという名品も、一枚一枚、その裏表、飽きる事無く心は騒いだ、今も残っていれば高値がつく。

 広場に出れば三角ベースゴムボール、自転車練習、木登り木渡り。一度樫の木から落ちて大怪我した事もある。広場には防火用水があり友達は一度落ちた。やがて鉄条網のバリアが張られ後に暗渠となった。 

 広場の夏は多彩なイベントが行われてた。盆踊り、自治会総出で紅白飾りの舞台が作られ拡声器の東京音頭が流れた。「月があ出た出ーた」三池炭鉱の唄は父にも繋がる親しさがあった。秋のまつり、大人用は黒塗り角柱が四本井桁に組まれその上に白木の神座、そり返る銅屋根を被り金色ブリキの鶏の嘴に稲穂が結び付けられた。子供用は二本丸太に化粧まわしの酒樽。おじさんたちは皆匠自慢だ。藁の捻り方はボクも覚えた。日本酒が入り若衆は片肌脱ぎ競って太鼓を打ち鳴らす、角野燃料店さんが一番の張り切り屋、伝票に書く文字は崩れて全く読めないが手に持ち替えたバチは正確無比を響かせた。

 役場の支援で夜の映画会も行われた。白黒画面の幕をいつも空いている裏側から楽しんだ。黒澤明の『こころ』のブランコも裏側から観た記憶が残る。

 定期的に紙芝居屋さんもやって来た。『九尾の狐』の後は二度目の駄菓子の販売があり、とんちクイズがある、ボクは黒子に徹し子供たちに正解を伝えていた。小賢しいボクは紙芝居屋さんから出禁を言い渡されていた。

 重い大砲もやって来て、持ち込みのお米を大筒に込め熱くなったらドカン、筒先の網で捕まえてお米ポップコーンが完成する。代金を払いお鍋で持ち帰る。ボクは食べない、でも観ている。

 お魚屋さんもやって来た。注文を受けてその場で手際良く捌く。頭にねじり鉢巻黒ハッピ、日本酒化粧廻し、正統魚屋さんスタイル。小柄で痩せて日焼けしたおじさん、ドスの効いた声だった。

 移動図書館も献血バスも、田無警察デカアメ車パトカーも、ウーウーカンカン消防車もやって来た。来なかったのは霊柩車。東の角から我が家の前の停留所に路線バスが来たのは夢の中だった。いろんな文化がやって来ていた。

 保健所が狂犬病の予防接種にやって来た時はあちこちから集まった犬たちをずっと眺めていた。母が言うには、昔、玄関先で番犬を飼い始めた数日後にその犬があまりにも靴やサンダルを噛み散らかしたのでお役御免に、引き取られて行く時、ボクはずーっと大喚きで泣きじゃくったそうだ。そのあたりの記憶がさっぱり無いが、代わりに与えてくれた茶色の猿の縫いぐるみはその後何年もボクの寝床の友になった。近所には飼い犬がいない、でも、増築後の台所に楠本家茶のポチが訪れるようになりおやつの煮干しをたんまりあげた。唯一ボクの犬友になった。

 改築された台所の勝手口脇には木製冷蔵庫も置かれ夏場は毎週氷屋さんの一貫二貫が配達される。氷室と冷蔵室、密閉ハンドルが付いた二つの扉は頑丈に分厚く心地よい、開けやすくて閉めやすい、毎日開けない日は無かった。

 我が家のテレビは早い時代にやって来た。ブラウン管は時々その眼を細めてたり右や左に流れたり、その都度調整を必要とした。寿命が来た真空管は良く交換された。走査線の写りは決してクリアとは言えなかったが栃錦の尻の絆創膏は良く見えていた。

 玄関には黒電話も早めに引かれた。後口さんへの取り次ぎは一番多かった。住居表示はその後変わったが、電話番号は今も変わっていない。

 (その数年後、真向かい公園の角に公衆電話ボックスが出来て取り次ぎは少なくなった。そのボックスは良く集会所裏山田医院のご養子中学生、スリムなベッピンさんが利用していた。おそらく家電話では話しづらい内容なのかまた義母の厳しい躾けだからなのか、考えた。それからは、出会いの機会が無いだろか、お付き合い思案が頭を駆け巡った。)

 近所にはしんちゃんデブさんの他にも沢山の小学校同級生たちがいた。西営団西に小川くん、市川くん、島村くん、清水くん、長瀬くん、高野さん、清水さん、中平さん、その南に時実さん、小松さん。西営団北に赤塚さん、同じく自衛隊に大谷くん、竹田津さん、西営団東に関戸くん、粕谷くん、深沢くん、石倉くん、島田さん。東営団に稲見くん、小杉くん、中村くん、牧野くん、岩城くん、大久保くん、高橋くん、西田くん、小池くん、奥住さん、小坂部さん、梅野さん、須知くん、塩野くん、大友さん、福田さん、島野さん、唐沢くん、ニ瀬くん、竹元くん。団塊の小学生たち皆それぞれに個性があった。

[小学校桜咲く]


 小学校は玉川上水を挟んだ先、校庭の真ん中を暗渠の小川が斜めに横切っていて校庭に乾いた線を描き、川下の林には昔の養蚕で植えられた山桑の木が並び夏前にみんなの手を染めていた。子供の間では『ドドメの実』と呼ばれていた。

 校門のすぐ前が五日市街道、立川基地の進駐軍の車が良く通る。フォード、三穴ビュイック、アメリカ矢羽のシボレー、デカいオールズモビル、デラックスクライスラーとキャデラック、尻尾には一様に空飛ぶ羽根コンセプトが飾られていた。レアなマーキュリーとスチュードベイカーなども通った。エンブレムやロゴは今でも心が弾む。六年間外車はビュンビュン行き交っていたが誰も跳ねられた事は無い。

 その五日市街道の脇に玉川上水が、流れている。今でこそ水流は僅かだが当時は濁流が走っていた。赤土の壁面は深く内側に抉られており流された人の行き着く不出の土棺と教えられていた。身投げし枝にかろうじて掴まっていた女性を勇者石田先生がロープを身体に巻いて引き上げたのを出来立ての小桜橋から目撃した事がある。カナヅチのボクにとって玉川上水は三途より現実的な地獄の川、ずーっと夢に現れていた。その時の石田先生は後に片桐先生と結婚した。シセイが天に通じたのはこの事だ。

 この通学路の喜平橋から茜屋橋まで川に沿った両側の小径は今も百年の桜名所である。

 六年間学年四組体勢、クラス約40人。一年目厳しいガラ声南口みどり先生。二年目担任は片桐弥生先生。

 ある日校庭ですっ転び膝を擦りむいた。ボクは片桐先生に用務員室まで連れて行かれ、バケツの水で泥を優しく落としてくれたのだが、恥ずかしさで「いいです平気です」とか、お礼も言えずに手当てを終始拒んでいた。

 初めて優しく触れてくれた細い白い透き通る手と素足、あれは初のセクシュアルショックだったと歳長じてから考えた。それは生涯の嗜好傾向を決定付けた原点だったんだと、ファーストショック、それが女性下着や靴の匂いなどでは無かった事は幸運だったとそう思う。

 片桐先生はいつも「優しい心」を教えていた。クラス会でクラス一番の優しい生徒を選ぶ事になった。ボクは「消しゴムを拾ってくれたから」という他愛の無い理由で小川くんに推挙されご褒美の盾を授与されてしまった。ボクの信念ではそんな理由で一番になるのはおこがましいが先生の気持ちも無にしたくない、結局机下にしまい込み持ち帰ろうとはしなかった。チョコレートなら割ってみんなで食べたろう。見かねた推挙人の小川くんは結局代わりに持ち帰ってくれた。

 その時のそんなボクの優しさ、その反面イジワルさ、人の気持ちの考えなさ、もあった。独りよがりと知ったかぶりは周りの気分をうんと悪くしていたはずだ。

 三年担任は関口先生、彼にはニキビ顔を揶揄『がんもどき先生』とのあだ名を考案し、音楽の先生を集団でシカトして不協和音で泣かすと『泣きボクロ先生』の異名を与えた。大人を傷付けてきた憎い悪ガキであった。

 ある日大好きな映画会が物象教室で開催された。

 鰐淵晴子『のんちゃん雲に乗る』、クラス一同木の床に膝を抱えての視聴。ストーリーは良くあるお話の類いだったが奔放に踊るシーンなどは皆釘付け凝視、そこだけが少年脳裏には焼き付いていた。

 暗幕が開かれ室内が明るくなってみんなのおのおのの感想がガヤガヤ語られた。隣りの小川くんがひそひそ声で『オチンコが立つ不思議』の第一声が語られると、男子有志は同じひそひそ声で相槌を打っていた、筋書き無縁の影の実感を共有した。男子の連帯感はその時あたりから強まっていった。

 小川くんの家に遊びに行った時、小川くんの
兄貴からチンコ崩しのプロレス技をを掛けられた。両足首を掴まれ足を押し込め揺る技、最初が笑え後が泣ける、男と男が分かる技、歳の差を涙が染みて感じたものだった。

 増える団塊人口に対応し校舎は入学の前から増築されていた。低学年を擁する旧校舎の北側に高学年を擁する新校舎、その二つの建て物を結び渡り廊下がある。渡り廊下は繋がり屋根を頂き、途切れる壁とコンクリート敷床路線、その上に踏むとカタカタ鳴る杉の簀子が渡された構造。

 これが低学年と高学年を仕切る結界の役目を果たしていて、三年生から四年生になるとお姉さんお兄さんになった気分、際西の押し出しエリアに入った六年生は羽ばたきの気分が大いに味わえる。高学年用校舎は高学年になりようやくその存在が実感できた。それ以前、校庭に集まる時以外建物内部が意識の中で消えていた。渡り廊下のその結界は西遊記の切り立った崖の途中路の様にも感じた。この仕掛けは上位中高レベルにも共通し存在するものだ。

 四年生、クラス対抗野球が企画され、組毎に選手が互選された。ボクの組でポジション決めに際し「ショートショウちゃん」の易い一斉掛け声により固辞するボクの内野手出場があっさり決まってしまった。

 勝つ目的ならば「選手はより適材適所を」大人な訴えは届かず、翌日の試合を迎えた。前半の守りで早速ボクのショートゴロトンネル、直ちに選手交代を要求し、もっと上手い粕谷くんに変わってもらい、やっと荷がおりた。その頃から視力低下だけは進行していた。いつもの悪ガキにもどれてほっとした。ボクは選手向きでは無い、監督ならやれるかもしれない、トンネルも三振も無い。身体が華奢だが木村伊之助の軍配裁きができる、人を見る眼と先を見る眼はある。

 もともと運動会嫌い、徒競走が特に嫌い、ピストルの「バン」で近づく自分の番待ちが嫌い、ビリでも走り終わるとほっとする。対抗戦の点数看板は好き、味方が敵に勝るのは好き、お昼の海苔巻きと玉子焼きが好き。鉄棒は苦手、逆上がりはできない、みんなかできちゃう鉄棒空中飛び、よせばいいのにトライして、飛距離10センチ、手から鉄棒が離れてほぼ真下に背中から落下、呼吸を失った。跳び箱は乗り箱、マットの逆立ちは腕力が頭の重力に劣り、ドッジボールは顔で受ける。我が家では一番のドンくさであった。

 夏休みには小学校教育要領に則り早起きNHKラジオ体操で学校にほぼ毎平日召集される。出席者にはスタンプカードに判が付く。ボクらには気の遠くなるような毎朝が続いた。なんちゅう事無いラジオ第一体操を聴かさせれもう耳についた。保護者には安心便利な指導でも子供たちにはけっこう迷惑な仕掛け、嵩張る未完の宿題に加えての苦業を味合わう事とあいなった。これとは別にハエ集めコンテストなども企画された。捕獲したハエの数に応じてスタンプやら他のほうびが学校と役場から与えられたが、頑張る猛者もいて数を競った。豚を飼ってる農家の生徒はさぞかし獲りまくりだな、と思ったがその応募はまるで無かったようだ。そりゃそうだ。で、一度きりの企画だった。

 四年の全体集会の校庭でボクら悪ガキ連が率先して騒いでいた時、怖いおばちゃん南口先生が突然キレた。二人のクラス委員の手を掴みビンタを喰らわせたのだ。 

「お前たちなんで統率できない!」ガラ声が周りに轟いた。

 軍隊方式じゃないんだから、騒いだのは我らなのに、みんなの前で二人が生贄にされた、実に腑に落ちない処刑だった。先生方、誰一人の仲裁もなくただ傍観し先を進めるだけだった。

 スポーツ万能星沢くん、真面目くん稲見くん、二人のその後にきっと大きな影響を与えたんだろう。

 五年六年の担任はスーパーカブのカッコイイ湊正之先生、威厳もあって生徒たちは皆従順だった。

 秋の修学旅行はいつも赤白の立川バス。ボンネットタイプでは無い新型の鼻ペチャバス。ボクら悪ガキ連はいつもゴリ押しで一段高い後部座席を陣取った。都内見学に向かう道、みかんの香りがリュックから溢れる車内。楽しくはしゃぐ悪ガキ連。端のボクが立ちあがろうと何かに手をかけた、その時、カッポン、細縁メガネ小林校長先生の頭の上の赤いカバーが外れ、そして車内に非常ベルが鳴り響いた。ガイドさんが直ぐに来て蓋を戻し平穏が蘇ったのだが、その一瞬からずっとボクの肝っ玉は潰れ、無口な転校生に変貌した。楽しの気分はすっかり消滅、もう見学学習どころじゃあ無い。唯一気休めは帰りの車内のマイク回しであった。耳だけ構えていればそれで良かったから悪夢が忘れられる。そんな時、吉田くんと中山くんデュオがいつものオハコを披露する。

 吉田くんが歌い始めると決まってみんなが静かになる。「ごじゅうごにんのその中でー、坊や一人が、手をあげたー」戦争孤児の唄だった。

 吉田くんと中山くんは回田地区という所に暮らしていた。以前は朝鮮人部落と称されていた地区、何度か訪ねた事があるがその時ばかりは我が家が少し豪華に思えた。各学年には回田地区の生徒が何人かいて、運動会ではいつも上位の常連だった記憶がある。今で言う、ヘイト、差別的な言葉や態度とはあまり出会った事が無い、クラスの気持ちも一様に公平だったと思う。クラスには学習が遅いもう一人の小川くんと田村くんもいたが誰からも酷いからかいは無かった。自衛隊組もたくさんいたが政治的な批判は話題にも上らなかった。

 須知くんの家は悪ガキ連の生活世界とは異なっていた。森の中の一軒家は敷地の広いお屋敷ハウスだ。古い木造ながらリビングがあり、応接室があり、キッチンがあり、彼の勉強部屋があり、ベランダにチェアとテーブルがあった。悪ガキ連がおじゃまするとおやつにはいつも分厚いアルミ皿のクッキーと紅茶が味わえた。須知くんの興味は科学。勉強部屋にはそれなりのお道具が揃っていた。天体望遠鏡、顕微鏡、図鑑、昆虫標本。「スゲー」みんなの眼がむき出していた。須知くんのお父さんは軍人さんだったみたいだ。お母さんは悪ガキ連の母ちゃんたちとは境界を隔てていて、いつも背筋がピンと伸びていた綺麗なお母さん、まるで皇族のご身内みたいだったよう、当然ですが須知くん、砕けた荒い言葉はいっさい使いません、我がクラスの皇太子なんですから。

 中村くんはいつでもクラス一番のおじさん、発する声の背後にはいつもご先祖様たちがいた。その中村くんに全校初のNHKテレビ出演依頼がきた。中村くんはエンジン飛行機模型のエキスパート、彼の部屋は芳しい燃料臭を放つ数台のエンジンとカラフルな模型だらけの部屋だった。

 その生放送をみんなは固唾をのんでNHKのチャンネルを見張っていた。

 人気番組危険信号の木島則夫アナが中村くんに呼びかけるとカメラがパーン、「中村くんが映ったあ!」

 そして、固まった。

 中村おじさんロボットのエンジンが止まった。

 言葉を失った目玉だけがカメラをしばらく捉えていた。生放送だから瞬時の事実は脚色なく全国に流されていた。ベテラン木島アナが中村くんをリモートでカバーし中村くんの対応がギクシャクながらようやく始まり飛行機の話題がスタートした、彼の日常を知るボクらにはバカ受けだった。

 塩野くんちの直ぐ脇には西武多摩湖線の線路があってよく二人で五寸釘を磁石化した。一度、国分寺行きの黄色い電車から警笛を鳴らされ、咄嗟に逃げた記憶がある。著しい犯罪行為はしなかったと信じているが、塩野くんのお父さんが大工さんという事もあり興味にそそられ、雨の日悪ガキ連、国分寺寄りの建築中の二階家を冒険し、木の匂いが芳しい白木の柱や何故かバッテンの筋交い、その構造を初めて目で確かめてみた。頭で畳も敷いてもみた。その時、「こらー!」の声で皆一斉に飛び降り一目散で逃げた。ボクの手のひらには木片が突き刺さっていた。その手を押さえて家に帰りつき、オキシフル消毒とグルグル包帯、数日間染み出す血と腫れの我慢が続いた 

 伊東先生の趣味は鮎釣り、夏休みしんちゃんとボクを連れて秋川に出かけた。お父さんは自前の長竿で友釣り、子供には小さな竹竿に石の裏の川虫を付け先生がピストン釣りを伝授した。やがて少年たちはそれに飽きてパンツを履き替え水遊び、しんちゃんは先生伝授の『のし』でスイスイ、引き替えボクは岩伝わり、その時、一瞬手が滑って岩が離れ、子供たちの目と鼻の先で深みに嵌った。バシャバシャ、暴れて水も飲んだら岸を掴んでいた。ああ、沈まず良かった。

 我が家も夏休みにはレクリエーションがあった。兄とボクとの眠れぬ前夜が明けた日の楽しみは会社慰安のバスの旅。車内、お弁当とお菓子と父の仲間たちのやり取りには鮮明な記憶が今もあるが、どこへ行ったかの記憶はさっぱりと無い。日の出桟橋からたちばな丸で行く会社の伊豆ツアー、初めて乗った大型船、行き先の記憶はやはり無い、きっとぼは緊張感で凍っていたからなのだろう。別の日の江ノ島、海の色の濁りは下水の匂いがついていて、青い海は遠い想像世界のものだった。父とハゼの海釣りに出かけた時の印象に今も残るのがオワイ舟と小便用竹筒、持ち帰る釣れたハゼもなんか石油臭く、天ぷらでも薬の味がした。船宿の河岸にはゴミと芥が群れ川底視界は手の深さまで。その時以来、海苔とワカメとアサリが嫌いになった。いつか綺麗になるだろか、そんな時代に海がいた。

 短い夏休みはすぐに終わりまた普段が始まる。当時高学年以外学習塾もお稽古教室も少ない、放課後の行動はおのおの自由な時を過ごした。

 市川くんは速球のピッチャーに、小川くんの自転車にはギアが付き、ガリ勉長瀬くんはより早口に、時実さんの読書量が増え、大久保くんは科学の道を目指し、竹元くんの絵の才能はなお際立ち、小池くんはずーっと苦手だった注射をようやく克服し、石倉くんの毛筆達筆はいっそう石倉流に、いつもリレー選手の島村くんは韋駄天の顔に、ピアノやバイオリンの名手は生まれなかったがみんなの個性はさらに進化していった。

 六年生の春、クラスの『裸の王様』劇の脚本コンクールがあり最終審査ニ作品の一としてボクが残った。その時のもう一編の作品には「参りました」の傑出アイデアがありボクのパロディ尽くしの遥か上、かなりの票がボクに集まってはいたが潔く自作を辞退、対抗の明智さん作品を推して決着した。明智さんの作品には裸の王様が『テレビ』を通じて実態がバレるという筋立て、ボクは「メディア』の挿入がすぐれていたとの理由を延べ推挙した。正当だかなんか小賢しいガキの意見に反論は無かった。

 この明智さんに対しては「申し訳ない」罪滅ぼしを含む理由もあった。

 前年のクラス休憩時間中、同級生の秀才やっさん、安村くんのクレームを受けた塩野くんが、椅子の背の明智さんのランドセルに足を掛けた時、ボクが塩野くんの肩を押した。その連鎖ベクトルが明智さんの赤いランドセルの肩掛け金具を破壊した。

 被疑者三人の保護者は翌日学校から呼び出しを食らったのだが、どうやら事故扱いの結論となった様子、お咎めも母親の非難も周りの白い目も何も無し。それで余計に心に汚点が残存していた。そんな事もあり汚点の上塗りを回避したつもりもあったのだった。 

 俳句作りの授業もあった。自分の名前の一文字を入れるという課題だった。ボクは自分の名前に加えて席が隣接する二人の名前、石倉くんと塩野くんを入れ文字った。『くらやみで さとうとしおを、まちがえた』、みんなが笑ってくれた。俳句作りの基本もクソのボクの生涯傑作だった。

 六年生の流行りは野球ルールのドッジボール。 一度も給食の恩恵に授からなかった我らが世代、お昼の手持ち弁当を食べ終えると直ちにグラウンド確保に先遣が向かう。

 陣取りが叶うと直ぐメンバー集合し試合スタート、期待星沢選手の一撃はいつも校舎西壁をぶち当てる塁打になっていた。ボクの貧弱シュートでさえ敵失得点をする実に公平全員なゲームだった。

 玉川上水に平行し灌漑用水が流れていた。バス通りから離れた農家には水車小屋があり現役の回転も見えた。何年か後にその農家跡地には武道道場と宿舎ができた。その中に大柄な転校生鈴木くんも住んでいて悪ガキ連の道場見学もかなった。道場の書生と思しき坊主頭の明大生たちからは武道の無料の誘いも受けた。貧弱な少年たちの心も少し動いた。しばらく話を交わし大学の学問の話に及ぶと彼らと小学生の会話が噛み合わなくなり、結局その誘いを受ける事はなかった。正門入り口には紫紺地に白い桜マークの大きな旗がたなびき、のぼりと看板には「桜魂塾』と大きく書かれていた。

 クラス会では流行りのジェスチャーゲームが行われた。職業当ての対抗戦、後半両チームがネタ不足に陥った。相手の演者はクラス成績トップの時実さん、そこでボクがいじわるな出題をした。口しか動かさず他に特徴の無い職業、アナウンサー。時実さん一生懸命口パクしてくれたが時間切れアウト、ボクらのチームの勝ちで攻守交代。すると演者大谷くんに出題問題でこちらがアウト。正解がトニー谷というので大クレーム発出、職業じゃない固有名詞はアウトだ。もちろん時実さんは分かっていて無言、結局は湊先生レフェリーの引き分け宣言で幕は引けた。ゲームの争いは許せる諍い、理論的には、んーん、裁判所だな。

 六年になり初めてクラス委員になった。

 ある日廊下での移動で先に行く隣り組生徒Sくんを少しいさめた。その事が原因で妬みを買いSくんは親分格Kくんに訴えた。そして下校時の側道、待ち伏せの二人からずっとパンチを貰い続け泣きじゃくった。目撃したおばさんのありがたい掛け声でそれは止んだ。並列していた同級生たちは後難を恐れて遠くに退いていた。以前にもKくんにはイジメられうずくまっても蹴られて泣かされた事があり、それ以来彼に逆らうような事を避けてきたが、以前にもまして「このやろう、このやろう」と連呼する執拗な攻撃だった。

 翌る日、誰かからの通報があったのだろうか、二人が教室から出され教員室に連れて行かれたようだった。

 繰り返し暴言を吐き攻撃の手を休めなかったK君の家は母子家庭で裕福ではなかった。それに比べ他の同級生たちはそれなりに裕福であり、そんな事も彼に屈折した気持ちを増殖させていたのだろう、キレた時の彼のほくろのある青白い顔、その眼は確かに『座っていた』。穿った見方を加えるなら彼自信もそんな威圧を受けた経験があるのじゃないだろうか、家庭内での仕打ちなんかもある、そして必然的に自動的にその仕打ちの連鎖が起きる。内在させ切れず堪え切れずに自らが切れてそれが外に放出されてしまう、病理というものだ。

 その時受けた心の傷はのち何十年も癒えてはいかない。ただ、進学で彼らと同じ中学だけには絶対に行きたくない、その一心から、ひたすら模試の勉強に集中、兄と同じ私立中学校に無事合格し呪縛が去った。その事件の底にあった怖れがバネになってくれた事でもある。

 最後の卒業文集にはボクの玉川上水のスケッチが表紙になった、万感の思い、でもある。見開きの表紙には赤塚さんのぶどうの絵が載った。

『一粒も落ちるな、一房のぶどう』


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