知識を身につけることと理を追究すること。

大学生に向けててFBに投稿した記事の転載。

一緒に勉強しましょ!ってメッセージです。

-------以下本文-------

知識は必要だ。

しかし知識と理は違うのだ。

ここの認識をしているかどうかが、教わることを期待して物事を見ないでいるか、学ぶことを前提に物事を見ているかの違いに出てくる。

なんでも教えてもらおうとする限り、どんなに頑張る!と気合を入れても、自分の一歩は踏み出せない。

なぜなら、未来は未知ゆえに、教わった既存知識だけでは何をすればいいのかわからないからだ。

先人が蓄積してきた知識やこれまで起こった事実は、それそのものを知っていることに価値があるのではなく、如何に視線を変えて他の状況に当てはめて考えられるかという部分にこそ価値がある。

それを可能にするために理論が構築されている。

原価計算の技法をいかに知ろうが、それがなぜ何のために成立したのかを考えないと、変わりゆく状況にフィットするかはわからない。
製造業の仕組みがそのまま、IT業界に当てはまるのか?
もしかしたら当てはまらないかもしれない。でも、当てはまらないからといって、製造業で蓄積された知見がすべて塵と化すと考えるのはあまりに乱暴だろう。

先人はそうならないように、理論構築を目指してきているはず。

抽象度を上げて物事の理を見出していけるか、知識を転用していくか、知的な人生ってのはそんなもんじゃないかな。

そもそも大学では、いや、人は理を求めながら生きたほうが幸せなんじゃないだろうか。

表面的な経験にばかり拘ると、振り返ったときに、世界が変わっていて自分ら何をやってきたんだろうと愕然とすること請け合いだ。

でも本当はそんなことはないはず。過ぎ去った経験は抽象度を上げて理論的に考えてみれば、きっと糧が残っているはず。

理を求めてみよう。

ってFBに書いたら、同僚の先生から

学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。

ですねと。

孔子すごい。逆に2500年前から同じような問題を抱えているのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?