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開かれた道のどこかで(2009)

2007年のモーターサイクル北米大陸横断。その一場面をアメリカ詩の父と呼ばれるウォルト・ホイットマンの作品と重ねながら綴った2009年の文章をここに転記します。自分の精神の軸を再確認するために。

開かれた道のどこかで/Somewhere on the Open Road

薄く広がる雲が沈んでいく陽を遮り、次第に満ちてきた夕闇のなかで、GPSの小さなモニターは西にUlyssesという町があることを示していた。遮る物のない空間の上をメキシコ湾からの南風が絶えず吹き続け、バイクは帆を立てた小舟のように傾いた姿勢のまま進んでいく——カンザスの大平原は確かに海のようでもあったが、町の名を何度か反芻するうち静かな安堵が脳裏に灯ったのは、思わぬ土地で同じく旅のさなかにある「オデュッセウス」(*1)を見つけたからかも知れない。あるいはそれは、一日を終え宿へと向かうという「人の営み」に対するごく単純な感懐だったろうか。

Still here I carry my old delicious burdens;
I carry them, men and women — I carry them with me wherever I go;
I swear it is impossible for me to get rid of them;
I am fill’d with them, and I will fill them in return.
-- 'Song of the Open Road,' 1, ll. 11 - 14. (Whitman 105)

「I'm dead(俺はもう死んでるんだよ)」。ユリシーズのガソリンスタンドでたまたま一緒になったアートは、テキサス南部で購入したばかりだというホンダのツアラーを傍らにそう言った。雲の下にいったん顔を出した太陽がとうとう沈んでいった後で、青く染まっていく空気にメタリックブルーの車体は溶けてしまいそうに見えた。心臓病の発覚で仕事を引退させられた彼は、残りの時間をこの相棒と(後部座席に妻を乗せ)過ごすつもりだという。

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ニューヨークを発ってからもうすぐ二週間、「彼らが俺を満たしていて、だから自分もそれに応えるんだ」という態度はすでに一着のジャケットのように身体に馴染み、だがアートに応えるために自分ができるのは、自らも道をゆく者であるという姿を彼に示すことくらいだった。夜が明けたらさらに西へ、州境を越えてトリニダードの町を目指す。だが見渡す限りの平坦な景色からは、この先にロッキー山系の山々が待っているとはとても考えられない。

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ロング・アイランド出身、ブルックリン育ちのウォルター・ホイトッマン・ジュニアが中西部の果てにあたるこの地域を初めて訪れたのは、脳卒中に倒れ、また母親を亡くしてから六年後、六十歳の時のことだったという。

Afoot and light-hearted, I take to the open road,
Healthy, free, the world before me,
The long brown path before me, leading wherever I choose.
-- 'Song of the Open Road,' 1, ll. 1 - 3. (Whitman 105)

その時、コロラドへの路線が開通したばかりのカンザス・パシフィック鉄道に乗った詩人はもはや「地に足をつけ」てはいなかったが、「軽やかな心」は病みあがりの体内に、かつてニュー・オリンズへ旅した頃(*2)と同じように湧き上がってきたのだろう。デンバーに逗留した際の感覚を「あの土地の空気が持っている何かだろうか、うまく言い表すことのできないものにぶつかって、すっかり満たされた気持ちになってしまった」と後に語った彼は、自分自身について冗談交じりに「魂は西部人のそれなのだと思う」とさえ言っている(Traubel 135)。「開かれた道」を歌った「魂」を、いわば四半世紀近く遅れてようやく、身体は故郷に連れ帰ったのだ。

The Soul travels;
The body does not travel as much as the soul;
The body has just as great a work as the soul, and parts away at last for the journeys of the soul.
-- 'Song of the Open Road,' 14, ll. 1 - 3. (Whitman 113)

モーテルの部屋の中、昼のあいだに蓄えられた熱気を巨大なエア・コンディショナーが雨の降るような音を立てて冷却しているその反対側で、小さな机の上ではラップトップが明日の経路を映し出していた。あらゆる地理的制約を一跨ぎにしてしまう情報のネットワークには、モーターサイクリストたちが報告を寄せた「線」のデータベースもいくつか存在している。点と点のあいだの移動を限りなくゼロに近づけようとする合理性の病を逃れて、彼らは道それ自体を肯定し、轍を共有する。各々が持つ地図にはそれを元にマーカーが引かれ、だがもちろん、「魂」が先に走り出すのは、手元ではなく窓の外に眼をやった時でしかない。ホイットマンの子である彼らの中に、「お下
がり」の行路をそのまま踏襲することをよしとする者は稀だろう。道は無数にあり、良い道もまた一つきりではない。誰かの残した標は、懼れることなくそこから逸脱していくための起点に他ならない。

Stop this day and night with me, and you shall possess the origin of all poems;
You shall possess the good of the earth and sun — (there are millions of suns left;)
You shall no longer take things at second or third hand, nor look through the eyes of the dead,
nor feed on the spectres in books;
You shall not look through my eyes either, nor take things from me;
-- 'Song of Myself,' 2, ll. 20 - 24. (Whitman 17)

翌日の午後、コロラドに入ってからも依然として続く平原の広がりの中に、一つ二つ、嵐の雲が雨脚を垂らしてゆっくりと動くのが見えた。自分が今その上を走っているルート160は少し先で二度折れてまた西へ向くはずだが、それが時おり細い稲妻を走らせるあの雨雲のどれかにぶつかることになるのか、もっと近づくまでは判ってこない。こうして遠景に雨雲を眺めるように、人は同じ道をゆく誰かを知り、あるいは知らないままに生きるのだろうか。現在の自分を満たしている「彼ら」と、これから自分が満たすことができるかも知れない「彼ら」との差異——その狭間を渡り、「良きもの」を運んでいくということ——。

Henceforce I ask not good-fortune — I myself am good-fortune;
Strong and content, I travel the open road.
-- 'Song of the Open Road,' 1, l. 5. (Whitman 105)

あと二日も進めば、ウォルトやアート、オデュッセウスの影も届かなくなるだろう。目の前に迫ってきた嵐はどうやら避けられそうもない。

*1: カンザス州西部の町(行政区分ではCityとされている)ユリシーズの名は南北戦争における北軍の将軍であったユリシーズ・グラントに由来するもので、ホメロスによって歌われたオデュッセウスと直接に結び付くものではない。
*2: 1948年、ホイットマンは海路、鉄道、馬車、蒸気船などを乗り継いでニュー・オリンズへ行き、Daily Crescent紙の編集に携わった後、ミシシッピ河を五大湖まで遡ってナイアガラ経由でニューヨークへと戻った。Leaves of Grass(『草の葉』)に見られる旅のイメージに直接の素材を提供しているのは主にこの経験だと考えられる。

参考資料

Traubel, Horace. With Walt Whitman in Camden. Ed. Sculley Bradley. Vol. 4. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1953.

Whitman, Walt. The illustrated Leaves of Grass. Ed. Howard Chapnick. New York: Madison Square Press / Grosset & Dunlap, 1971.

"Revising Himself: Walt Whitman and Leaves of Grass." Library of Congress. <http://www.loc.gov/exhibits/whitman/poetofthenation.html#0037>

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