人権概念とイデア論

 先日とあるイタリア人YouTuberの動画を見ていると、プラトンのイデア論に関して、次のような解説をしていた。

例えば、目の前にリンゴが一つあったとする。それを齧ったら一部なくなる。が、それはまだリンゴである。半分以上食べれば、元とはまったく違う形になる。だが、やはり残されたものはリンゴである。それでは、全てなくなったらどうか。それでも、やはりリンゴは残る。リンゴの概念が確かに残っているのである。

 これは、少し簡略化しすぎているけれども、イデア論の解説としてはいたって普通の説明である。私自身、同じような話をこれまで何度となく聞いてきたが、なぜか今回に限って違和感を覚えた。半分しかないリンゴは本当にリンゴなのだろうか?なくなってしまった後、リンゴの概念は本当に存在するのだろうか?リンゴという概念は単なるフィクションなのではないか?……などと考えてしまったのである。しかもそのあと、なぜか我が国における人権問題のことにまで思考が及んだ。私の脳内でどういう論理展開があってそんなところに飛んで行ってしまったのか。以下に説明しよう。

 人権といえば、全ての人間に生まれながら備わっているとされる権利のことで、我々が生きる現代社会は、この人権意識を基礎に構成されている。(それが顕著に現れているのが法制度。)欧米で生まれたこの概念は我が国にも導入され、長らく(少なくとも第二次世界大戦以降)重視されてきた。ところが我が国では、いまでも現実には人権を軽んじるような事件がよく生じている。こうした現状が問題視され、しばしば日本人には人権意識が欠如している、と言われる。私も含め、確かに我々日本人は「人権」なるものがなんだかよく分かっていないふしがある。

 しかしそもそも、人権という概念の前提には「人間」という概念がある。目の前にいる人間ではなく、人間の「概念」を想定しなければないないのである。考えてみれば、西洋思想史においての最大の問題の一つは、「人間とは何か」という問であった。時代によって、「人間」はキリスト教の信者を指すこともあれば、白人男性を指すこともあった。しかし、現代にいたっては、宗教が異なっていても、肌や目の色が異なっていても、性別が異なっていても、体の一部がなくても、「人間」であると考えられるようになった。そして、全ての人間に「人権」が備わっている限り、マイノリティを不当に扱って人権を侵害することはできない、という人権意識が定着している。

 思うに、我々日本人が理解できないのは、「人間」でも「権利」でもなく、「概念」なのではないだろうか。概念としての人間を考えるには、「人間」と「人間以外」の境界線を厳密に引く必要がある。西洋における人権問題は、「人間」定義を誤り、本来「人間」であるはずの人間を「人間以外」(例えば動物)であるように扱うことによって生じる。(そうした観点から見ると、ナチスのユダヤ人虐殺を糾弾したプリモ・レーヴィの書が『これが人間か Se questo è un uomo』と題されていることも象徴的である。)それに対して、我が国における人権問題は、「人間」と「人間以外」の間に境界線を引かないことから生じるものではないだろうか。(とあるYou Tuberが、「人命よりも愛する自分のペットの方が大事だ」と公言してはばからなかったのも、特定の人間の人権を侵害したかったわけでなく、「人間」という概念そのものを理解していない(できない)からなのかもしれない。)

 かくいう私も、率直に言えば、「人間」と「人間以外」を明瞭に区別する線が現実に存在していると考えることはできない。この点に関して(は?も?)、良くも悪くも、自分はやはり日本人なのだろう。しかし、いま私が享受している自由で平和な世界は、人権の概念が存在し、信じられることによって守られているということも事実に違いない。フィクションであると疑いつつも、片目をつぶって「人間」の概念を信じるべきなのであろうか。いつかこのことを西洋の友人と議論してみたいものである。

今日の参考図書

 プリモ・レーヴィ『これが人間か』 強制収容所から生還した著者が、ナチスによるユダヤ人大虐殺を冷静な筆致で描いた作品。多分私が初めてイタリア語で通読した本(どうでもいい情報スミマセン)。

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