文学研究って本当に必要?

 もうかれこれ15年以上も文学研究に従事してきて、ことあるごとに自問することがある。文学研究は本当に必要なのか。文学研究を弁護すべく、少し理屈をこねてみよう。

 学問の世界には、一般の社会を動かしている経済の原則を当てはめるわけにはいかない。真理の追求は、利害損得とは関係ないからだ。

 この理屈は、数学、科学、哲学、歴史学などには通用しそうだが、こと文学研究はどうだろうか。文学者や文学作品に関して、真理を追求することはそこまで重要ではないように思えてしまう。

 もう少し文学研究を擁護してみよう。われわれは、生理的・経済的な欲求を満たすだけでなく、ときには心の糧というものを必要とする。文学(やその他の芸術)は、絶望の淵にある人間を救う力がある。だから、精神の面から言えば文学はやはり「必要」なのだ。

 しかしこれは文学者や文学作品に当てはまる主張にはなりえても、文学研究を擁護する根拠にはなりえない。優れた文学作品は、研究書などなくても人を感動させることができるし、研究者に解説されることで、かえって興味を失わせてしまうこともしばしばあるからだ。

 こうして文学研究は、なかなか難しい立場に立たされることになる。だが私は、実はある条件において文学研究は必要だと言ってよいと考えている(これは、これまでの文学研究の経験によって辿り着いた結論である)。

1、読者が作家と全く異なる文化圏に属しており、作品の内容が分からないとき

2、作者があまりに天才すぎて、作品の価値が十分に理解できないとき

個人的な話をしよう。私は初めて『神曲』を読んだとき、全く面白いと思えなかった。初めて『失われた時を求めて』を読んだとき、なんだか退屈な作品だと思ってしまった。しかしそれは、もちろん私がただ単に作品を理解できていなかっただけであった。

 その後私は、アウエルバッハを読んで、ダンテが地獄篇第10歌の一語一語に込めた意味の深さを知った。吉川先生の解説を読んで、プルーストの長い一文がいかに巧妙に作られているかを知った。優れた文学研究者は、偉大な作品の真の価値をわれわれに教えてくれる。われわれが感動を覚えるのは作品の真価を知るときであるから、優れた研究書を読むときにも感動が生まれる。その時、文学作品がわれわれに必要だとすれば、文学研究もまたわれわれに必要なのである。


以下追記(2月5日)

今日の参考図書

エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』と吉川一義『失われた時を求めてへの招待』

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