意見を言う、議論をする、間違える、許す

 この国があまりに多くの問題を抱えているせいだろうか、SNSを見ていると、人々が自分の意見をよく表明するようになった気がする。これはいいことだろう。

 日本は(一応)民主主義の国家である。国のこと、地方自治体のことを、お上に決めてもらうのではなく、みんなで決めなければいけない。そのスタート地点に立つためには、各自が自分の意見を持ち、それを表明することが必要であろう。「自分はよく分からないんで、とりあえず皆さんの意見に合わせます」という人ばかりであったら、民主主義は成り立たない。というか、一部の人間が悪用するような危険な制度になってしまうに違いない。

 オリンピック開催に賛成!!オリンピック開催に反対!!ワクチン接種は強制すべきだ!いやワクチン接種は個人の自由であるべきだ!

 こうして、様々な意見が出ることはよいことだろう。しかし、物事を進めていくためには、様々な意見が出たのち一つの案を採用しなければならない。どうやって決定を下すのか。殴り合いはなく、議論を用いる――これが民主主義のルールだ。

 議論をする際まずもって重要なのは、相手の意見を尊重することであろう。誰しも、自分の意見が正しいと思っている。これは自明のこと。だがどんな人間も、一人で客観的な事実や社会にとって妥当な決定に到達することはできない。自分の意見を述べ、他人の意見を聞き、それらを照応させる……こうして、ようやく正しい意見に近づいていくことができるのである。(「正しさ」に到達するためになぜ議論が必要なのか、この点についてはいずれ別の記事で詳しく説明したい。)

 ところで、自分の意見をもったとき、その意見は間違ったものである可能性がある。私自身、自らの過去の発言を振り返ってみると、明らかに間違っていた、と思えるものも少なくはない。そうした意見を抱き発信したことに関して、多少責任を感じることもある。そのことを思うと、賛否の分かれる事柄については発言などしない方が安全だ、と考えてしまいたくもなる。現に、「誤った」見解を発信した者が非難の的になる様子を、私たちは日々目にしている。SNS上でも、マスメディアの上でも、間違いを犯した者は、徹底的につるし上げられてしまう。

 冒頭に述べた通り、各人が自分の意見を表明できることが民主主義国家を健全に運営するための大前提であると、私は考えている。だとすると、間違いを許容しないこうした風潮はとってもよくないものである。間違いが許されないのだとすると、意見を表明しないことにするか、間違いを認めないことにするか、どちらかに流れてしまいそうになる。いずれを選んでも、まっとうな議論は成立しなくなってしまう。そして、まっとうな議論がなくなってしまえば、民主主義は成立しなくなってしまう。

 そういうわけで、意見表明が容易に行えるようになったこのご時世、過ちを許容できる寛容な社会の形成が必要になってきたように思われる。しかし、どうすれば人々は寛容になるのか、この点はよく分からない。


今日の参考図書

 エマニュエル・カント『啓蒙とは何か』 ドイツの大哲学者カントが書いた論文です。人々が自分の頭を使って考えることの重要性を説いています。私が一番好きな哲学書の一つ。



 

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