俗訳のこころみ

 私は普段、イタリア語の詩を日本語訳で読むことがない。が、この間ペトラルカの『カンツォニエーレ』の解説動画を作る際、池田簾の名高い邦訳を見てみた。以下が第1ソネットの訳文である。

 きみよ 折ふしのわが詩片(うた)に 面ざし
 少しく今と変わりて 早春(はる)の日
 愛に惑い 胸養いし溜息の
 調べしみじみ聞きたもうたひとよ、

『カンツォニエーレ』,名古屋大学出版会,1992,p. 3

 とても美しい文章だが、私は強烈な違和感を覚える。あまりに優れた日本語表現になっているため、イタリア語原文から離れていく感覚を抱いてしまうのだ。これはあくまで個人的な感覚である。ペトラルカのような大詩人の場合、日本の古典に精通した訳者が彫琢した日本語で訳し上げることは、むしろ多くの人が望むところだろう。だが私は、もう少し「普通」の文章で訳してみてもいいかと思う。例えばこんな感じ。

私が今の自分と少し異なっていた頃、
若き日の最初の過ちの中で心に蓄えた溜息
その音を様々な形の詩で
 聞いていただくあなた方よ。

くにし俗訳

 うーむ……我ながら拙い訳である。それでもやはり、池田訳より意味が伝わる文章になっているとはいえるだろう。こういう訳の仕方を仮に俗訳と呼んでみよう。池田訳のような美文調の名訳の価値は絶対的なものだが、俗訳の方も、もう少し巷間に広まってもよいかな、というのが私の見解である。

 そういえば昔、レオパルディの「シルヴィアに」という作品の邦訳を試みたことがある。レオパルディの詩にも、脇功の名訳が存在しているのだが、私は「シルヴィアに」に関して、これをですます調に訳す方がよい気がしている。こんな風に。

シルヴィア、まだ覚えていますか。
あなたの命がこの世にあって、
微笑みを湛えうつむきがちな
あなたの両眼に、うつくしさが
きらめいて、
そしてあなたが、幸せそうに思い悩みつつ、
青春の敷居を跨ごうとしていた
あの頃のことを。

くにし俗訳

 こんなペトラルカやこんなレオパルディを読んでみたい!という声が集まれば、色んな詩を翻訳してみようかしらん。たぶん、集まらないと思うが。


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