外国語で書かれた作品は原語で読むべきか

 シェイクスピアの戯曲は英語で、ヘーゲルの哲学書はドイツ語で……外国語で書かれた作品はすべて原語で読むべきだという主義主張がある。これを仮に原語主義と呼んでおこう。

 私はかなりの原語主義者であるが、原語主義を貫くことの非合理性もよく分かっている。書かれた言語によって読むべきだとすれば、当然その言語をよく知っていなければならないことになる。例えば、旧約聖書とプラトンと孔子を読みたければ、ヘブライ語と古代ギリシャ語と中国語をマスターしなければならず、それは無理だろうという話になる。だから、マイルドな原語主義者であれば、読めるものは原語で、そうでなければ翻訳で、というくらい発想になるのだろうと思う。 

 私にもそういう発想がないことはないが、私はマイルドな原語主義者ではないと思う。それは、「翻訳で読むくらいなら、その本は読まない」あるいは「原語で読める本を選んで読む」という考えがベースにあるからだ。ロシア文学も中国文学も興味はあるが、ほとんど読まない。ロシア語と中国語を知らないからである。イタリア文学とフランス文学を沢山読む。イタリア語とフランス語がまあまあ理解できるからである。

 さて、文学や哲学に関しては「原語主義者」も少なくないと思うが、実は私は、映画や旅行に関しても原語主義者だ。イタリア、フランス、ベルギー、スイス等には何度も行ったが、これもイタリア語とフランス語が使えるからという面が強い。映画についても、同様の理由でイタリア映画とフランス映画ばかりを見ている(最近は映画自体あまり見なくなってしまったが……)。

 世界中には素晴らしい文化や芸術が沢山あるのだろうが、私はその多くをあえて見ないことにしている。それはもったいないと思われる向きもあるに違いないが、私はそれを承知で原語主義に与するのである。なぜか。私はそれらに接するとき、なにより「異文化交流」を求めているからである。私は経験から、しばしば日本人フィルターが無意識に働いて、異文化との素の交流を邪魔してくることを知っている。読者諸氏は、現地の人と交流できない旅行で、交流の相手が連れまたは自分自身になってしまったご経験をお持ちではないだろうか。外国語の作品を日本語で読むときも同様で、日本語/日本文化か介入してしまうと、どうしてもオリジナルから遠ざかり、我々の文化に引き寄せた理解をしてしまうことになる。私は、日本人フィルターを通じたこちらからの一方的なアプローチではなく、予想を超える向こうからのリアクションを楽しみたいのだ。

 とはいえ、まともに文学作品や哲学書を読めるようになるには、語学に関して相当な鍛錬が必要だ。私の場合、高校時代に一年留学して日常生活に困らないようになったイタリア語に関しても、苦も無く本が読めるようになったのは、大学三年生以降10年以上修行を積んだ後のことであった。私ほど要領の悪くない読者諸氏であれば、もう少し少ない年月で済むのかもしれない。だが、それでもたいへんな苦労が見込まれることは間違いない。(だから、原語主義を皆にオススメすることはしません。)

 ところでここ数年、私は、あまり得意ではない英語や、初心者に毛の生えた程度の語学力のドイツ語でも、本を読むようになっている。フランス語に関しては、イタリア語にかけたよりはるかにすくない勉強量で、まあまあスムーズに本が読めるようになった。原語で読書をするためには努力や忍耐がある程度は絶対に必要だが、コツをつかめると、そこまで高い語学力を手にしなくとも原語で本が読めるようになる。いや読めると言えないまでも、読んでも苦痛ではないという状態にであれば、きっと辿り着くことが出来るはずだ。

 それでは原語で読書するために必要なコツとはなにか。この点については、稿を改めてお話ししたいと思う。


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