事実はどのようにして確定するのか

「デマ」が広がっていて問題だ、と言われている。デマが拡散しているとしたら確かに問題であろう。だが、ある情報が「デマ」であるとどのようにして確定するのであろうか。

 これはちょっと厄介な問題である。専門家の意見を聞けばいい、ととりあえずは考えることはできる。だが、専門家の意見が食い違っている場合はどうだろうか。そもそも、誰が専門家なのかをまず見定める必要がある。そのこと自体かなりハードルが高いものだ。

 結局多くの人は、自分の周りにいる人やメディアの情報を頼りに、「デマ」と「事実」を区別することになる。これはある意味では、各自の習慣や都合に合わせて定める、かりそめの区別だと言うことになる。多くの人は、自分で研究したり実験したりする能力も時間もないから、この「かりそめの区別」で満足しなければならない。

 そうはいっても、可能な限りはやはり事実に近づきたいものである。そこで私は、自ら研究者として経験してきたことを基に、情報の選別に際しての以下の数点を考慮に入れるようにしている。

1.専門家でも事実の確定は難しい。

2.事実が確定出来なくても、明らかな誤りは確定しやすい。

3.データを理解するとき、人はなんらかの意味を付与してしまう。

4.データに意味を付与するとき、しばしば誤りが生まれる。

 結局のところ事実はよく分からないので、間違った説を排除していく努力を続けるしかない。間違った説には、単なる計算間違い、論理の矛盾や飛躍など、さまざまな要因がありうる。が、いずれの場合も、結局はデータに意味を読み取る際に、人間の意図や都合が混入することが問題の根幹にある。(単なる計算間違いでさえ、多くの場合、必要なチェックを怠ることに起因するのだ。)

 というわけで、事実の確定は面倒くさいものなのである。だから普通の人間は、そこそこで妥協するものだろう。だがその昔、事実の確定を突き詰めすぎて、すべてを疑いつくした哲学者がいた。そう、「われ思うゆえにわれあり」(Je pense, donc je suis)で知られるルネ・デカルトである。ちなみに彼は「そう疑ってばかりでは生活もできないから」といって「とりいそぎの行動指針」(la morale provisoire)というものを立てている。私はこの「とりいそぎの行動指針」がとても好きなのだが、その内容については割愛する。興味のある方は、ぜひ『方法序説』を読んでいただきたい。


今日の参考図書

ルネ・デカルト『方法序説』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?