なぜ歴史を学ぶのか



 よく見ているAbema Primeというオンライン報道番組で、「歴史をどう学ぶ」というテーマをめぐる討論があった。


 西村ひろゆき氏、脳科学者茂木氏、元経産相官僚宇佐美氏といったお馴染みの面々に加え、今回はゲスト論客として元航空幕僚長田母神氏が参加した。茂木氏の意見は「歴史は通史を少し学べば十分で、もっとも大事な学問に時間を割いた方がよい」というのもの。それに対して、田母神氏は「祖国に誇りを持つため歴史を学ぶべきだ」と主張する。(ひろゆき氏や宇佐美氏も持論を提示していたが、それについては動画を見てください。)

 この討論を見て、気になったことがある。この際、あまり議論がかみ合っていないとか、そもそも「歴史」が定義されていない(田母神氏は「国史」の話しをしているように見えた)といった問題点は措いておこう。気になったのは、私が普段考えている歴史学習の意義が触れられていなかったからである。

 私は歴史を(しっかり)学ぶことにより、まず長いスパンで物事を見る習慣が身につくと考えている。何かの歴史を辿ると、ある事象が生じるまでには長い複雑なプロセスがあることが分かる。そうした気づきは、翻って、いまここでの行動を決定する際に、遠い将来を見据えることを促すだろう。民主主義の国家において、主権者は我々国民である。国民一人一人が長いスパンで物事を考える習慣を身に着ければ、国家の運営もより妥当なものになっていくはずだ。(多分。)

 また歴史の学習は、現在(現代)を相対化するために役に立つ。中世のイタリア人は、歴史を真剣に学ぶことで、古代ギリシャ・ローマの文明を再発見することに成功した(人文主義)。歴史学習こそが、その時代の常識を打ち破り、新たな価値観を形成することに大きく寄与したのである。(まさに温故知新。)

 もちろん歴史を学ぶことはよいことばかりとは限らない。古い成功体験にとらわれたり、偏狭なナショナリズムに陥ってしまう危険性もある。時と場合によっては、歴史を忘れることも必要なのかもしれない。過去に拘るためでなくよりよい未来を築くために歴史を学ぶことができればそれに越したことはないのだが、それはそれでなかなか難しいのかもしれない。


今日の参考図書

 マルク・ブロック『奇妙な敗北』 20世紀を代表する偉大な歴史家の代表作の一つ。驚くべきことに、時と場合によって「歴史を忘れること」の重要性を述べている。

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