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コンテンツもスケジュールも何も無いけど、1000人以上の起業家と高校生が来てくれた、箱根合宿の話〜自由と教育の限界と可能性〜


はじめに

一つの節目なので、筆を取りたいと思います。

こんにちは、社会起業家の喜多恒介です。

50種類の味噌で豚汁をつくっています。


初めましての方は、ぜひこちらの自己紹介を見ていただけると、僕がどんな人なのかはわかると思います。端的に言うと、「肩書きだけはまともそうだけど、やっていることはたいがい、よくわからないことをやっている人」だと思っていただければ幸いです。

どこらへんが一番よくわからないのかというと、やはり「合宿やホームパーティーや場づくりをしないと、死んでしまう病気」にかかっているあたりです。

この病が発症したのは二十歳頃で、その頃僕は東大に在学していました。そこで、「面白い人と会いたい!」「面白い人を繋げたい!」という謎の衝動から、飲み会やホームパーティーを1年で100回ほど開催していました。

この病を発症した原因は色々とあるのですが、

・母方の曽祖父が、見ず知らずの人も皆、家に招き入れる癖のある人だった。

・母方の祖母が旅館の仲居さんだった。

・その影響で母がおもてなしマスターだった。

・中高で友達を家に招いたときに、そのおもてなしが大好評だった。

・父がアルコール依存症で、食卓が常に荒れていた。警察もよく来たほどだった。なので本音が話せる場を僕は心から求めていた。それを皆にも提供したいと心の底から願っていた。  

・自分が本音を話せないから、人と人を繋ぐ側に逃げていた。

・父方の祖父母の家が11LDKのお屋敷、母方も8LDKで、一族が集う場だった。皆が寝食を共にすることが普通だった。

などの運命的な重なりにより、僕はホームパーティーや合宿をしないと死んでしまう病にかかってしまいました。

これがどれくらい重症だったかと言うと、

・二十歳から年間100回のホームパーティーや飲み会を開催

・在学中、渋谷に2LDKの家を借りて、毎日ホームパーティーを開催。

・在学中、1000人〜数千人規模のイベントや合宿を、なんだかんだ毎年開催。

・起業しても、結局、合宿やイベントしかやらない。年間数十回、合宿をやる仕事。

・非営利型社団法人をつくっても、結局、本音が出る場づくりをすることを究極の目的にする事業しかしない。

などなど、15年間、ひたすらに「合宿」「ホームパーティー」とそれに関連する必要なことをしているだけの人生でした。そこに慶應の大学院で学んだ「社会関係資本」やら「認知行動科学」や「腸脳相関」や「ソマティック心理学」やら、もっとももらしいアカデミックな言葉を武装していますが、結局のところ「本音が溢れる、合宿しようぜ!場をつくろうぜ!」にしか結論はならないのです。

第1章 僕がたどり着いた、究極の合宿のカタチ

そんな僕なのですが、15年間でたどり着いた究極の合宿のカタチは、「1週間、何もしない」でした。

本当に、何も準備しません。

1週間、100人が泊まれる合宿所を用意して、そこには何もコンテンツを準備しません。

※会場はここ。今のところ、ここ以外では100%でできない。
https://limeresorts.com/hakone/

毎年貸し切っている合宿所。おそらく日本一、人が繋がる施設。

今までの合宿では、沢山のコンテンツをつくって提供してきたけど、それはそれで違和感があった。合宿中はいい感じだけど、結局、合宿後にもとに戻ってしまう。合宿と現実のギャップに苦しんでしまう。そんな現象が、起きていた。

結局、自分の手で理想を掴み取ろうとしない限り、その理想は真に自分のものにはならないのだ。

ならば、一切のコンテンツを、こちらから提供することを、やめてしまおう。ただし、彼彼女らが望めばすぐに全てが手に入る、そんな魔法みたいな場をつくろう。

というのが今回の合宿の設計思想です。ただともに暮らすだけ。でもそこで、自分が変われば、世界が変わり、奇跡が起きる、そんなイメージです。


今回は一応、高校生向けの教育合宿というカタチをとっていますが、

イベントも無ければ、コンテンツも無い。自分から何かを起こさないと、全く楽しめない。

用意された食事も無い。なので、自分で作らなければ飢えます。あるいは外食でお金が飛んでいきます。

ただ、何も無いけども、手を伸ばせば全てがある、そういう設計になっています。

この合宿では、日本中、世界中からイノベーターが集います。

・日本の国会議員がふらっとやってきたり、

・ミネルバ大学生が10人寝泊まりしていたり、

・NHKのプロデューサーが若者向けの番組を企画していたり、

・武道館を埋め尽くすアーティストが子連れで遊びに来ていたり、

・日本を代表する大学教授が温泉でくつろいでいたり、

・現代美食家や華道家が集って作品をつくっていたり、

・日本中から元気な中高生が150人集まってきたり

そんな「よくわからない」出会いが無数にある、そんな合宿です。日本中のソーシャルキャピタルがこの1週間だけ箱根に集う、運命の特異点的な場所です。

経産省の元審議官やゴールドマン・サックスの元幹部が、隣で普通に暮らしている。温泉に入って、味噌汁をつくっている。そんな環境が、1週間続く。


そんな人達が100人、合宿所に集えば、自然と面白いことが生まれます。

座談会が開かれたり、ヨガニードラが開かれたり、お豆腐探究がはじまったり、ダンスパーティーが開かれたり、採用が決まったり、会社に出資が決まったり、進路が決まったり…

ゆえに、コンテンツは事前に準備する必要は無いのです。

全て空白にして、全てを場に委ねる。そんなことをこの合宿では、しています。


何も、しない。それでも、全てを準備する

しかしながら、何もしないため、全てを準備するのが、この合宿です。実際に今年僕が何を準備したかと言うと

・僕の繋がりの中から、オーセンティックなイノベーター100人と、その知人を招待

・どの人が、どんな価値観を持っていて、何を提供できるか、どのタイミングで来るかを事前にデータで可視化

・参加する高校生は、事前に自分のビション・ミッション・ストーリーを言語化してから、合宿に参加する

・そのために事前ワークショップを毎週開催。

・生成AIによる自らの興味分野やリサーチクエッションの探究方法をレクチャー

・合宿の説明会を15回以上開催し、理念や注意事項を丁寧に伝える。ここは自ら動かないと何も得られないと強く説明。ウェブサイトでも大きく忠告。

・参加者には参加するにあたり強い想いのエッセイを書いてもらう。

・喜多が全てのエッセイを読み、一人一人にフィードバックを行い、合宿への心構えをセットアップ

・事前合宿、事後合宿を開催し、本合宿への慣れと準備と学びの振り返りの機会を提供

・合宿には過去参加者を多数招待し、参加者のケアやカルチャーの形成を促進

・プロフェッショナルなコーチやカウンセラーを多数配備。あらゆる悩みに即時対応できる体制を構築。

・相談しやすいセンパイが誰かを、公開。

・常時悩みを相談できるホットラインを構築。看護師も常駐

・大人の話は、絶対ではないことを強調。あくまで自分の信念に従うことをガイダンスで説明。

・希望者が必ず入れる「合宿中に孤立しないため少人数グループ、コミュニティ」を提供

・ミネルバ生を10人招待し、彼らの特色を活かしたワークショップや企画を即興的に行ってもらう

・参加年齢は0歳〜85歳と、社会の縮図に近づける。おじいちゃんの話を聞き、子どもの世話をする。

・喜多は、提供できるワークショップや話題を200個以上、事前に公開。また、経歴や人生のストーリーも全て文面で公開。

・やりたいことを必ず見つけるをためのテキストブックを全員に配布

・合宿でやりたいことを話し合うオープンチャットやミーティングを開設

・前回参加者が主導してカルチャーをつくっていくチームを組成

・人に話しかけたり、仲良くなるためのマニュアルやガイドブックを配布

・あらゆる悩みを認知行動科学的に解決するためのテキストを配置

・身体的アプローチから解決するためののヨガや瞑想や整体のプロフェッショナルを常に配置

・常時入れる温泉を合宿所内に配置。精神的な弛緩が常に行える。

・箱根中の温泉及び、観光施設の楽しみ方をガイドブックにして全て公開。

・花火大会ウィークの期間と合宿を被せ、望めば毎日が夏祭りになるよう設計。

・数百冊の本質的な書籍を、合宿所内に配備。あらゆる問いや気付きを生じさせる仕掛け。

・運営は、受付以外、0人。参加者全員が、運営。全員が自発的に、料理をつくり、皿を洗い、掃除をする。

・喜多は24時間意識を張り、参加者に「どう?」と問いかけを行い、気付きを促す。

・喜多が精神的に倒れないように、整体師やヒーラーの方に毎日サポートを貰う。

・喜多自身のあり方を、変え続ける。心理的安全性高く、かつ無限の可能性が広がっているイメージで呼吸と姿勢を整え続ける。

・喜多は、参加者への愛情とリスペクトと、厳しさを常に持ち続ける。

・僕が野菜ソムリエを辿り、全国から集めた、野菜やお米や味噌や塩を、合宿所内で格安で販売。

・全国の伝統工芸品の器やお箸、調理器具各種を100人分置いておく。

・料理人を招待。常に料理を教えてもらえる環境を準備。

・書道、華道、茶道、武道、音楽、スポーツ、ヨガなど様々な道具を合宿所内に配備。各専門家も招待。

・参加者同士の需給のマッチングを行う掲示板を配備。

・当日行われるコンテンツを掲載する掲示板やオープンチャットを準備

・参加にあたり気をつけるべきことを網羅した資料、動画を配布

・三菱みらい育成財団を活用させていただき、家庭的・金銭的事情に寄らずに子どもたちが参加できるしくみ(それでも毎年何百万円か、僕に赤字が出ますが笑)

・合宿中に活動のためのお金が足りなくなれば、プレゼンすれば大人がポケットマネーから提供

などなど、人が自らの志で立ち、自分の人生を生き、他者と社会と関わっていくための、思いつく限りの全てを、この合宿では準備しています。でも、当日は僕は何もしません。求められない限り、椅子に座って、ご飯をつくっているだけです。運営も、いません。ご飯の時間も、コンテンツの時間も決まっていません。24時間、全く自由で空白の時間が、そこに横たわっています。参加者は、問われます。さあ、何をする。と。

何も無いけども全てがある空間で、人はどう変化するのか?


合宿の近くで、毎日、こんな花火大会が行われている。合宿所の中も外も、機会に溢れている。


この場では、参加してくれた高校生には、様々な変化が起こります。全く同じ環境にいるのに、180度真逆の現象が起きます。例えば、

・人が自らのやりたいことを口にして、縁を掴み、社会に羽ばたいていく人もいます。

・自分の発明品を持ち込み、場で試し、進化させる人もいます。

・気の合う仲間を見つけて、プロジェクトを始める人もいます。

・シンプルに場の仲間と親睦を深め続ける人もいます

・この場で何もできないことに苦悩し、葛藤し、殻を破る人もいます。

・人と話さず、部屋から出ず、お菓子とカップラーメンとエナジードリンクで生活する人もいます。

・イキイキしている人を見るのが辛くて、途中で帰ってしまう人もいます。(残念なことに)

・帰らずに、泣きながら、対話の場を自分で作り始める人もいます。

・「この合宿は、私に何もしてくれなかった。最悪だ。」と言う人もいます。

・合宿中、自分から人に話しかけられず、最後に「私はこの合宿で何も得られなかったのか」と涙する人もいます。

・でもその悔しさを忘れずに、自分を変えることを決意する人もいます。家に帰って親に本音を話すことをする人もいます。

・1回目の合宿で絶望し、2回目でリベンジしに来る人もいます。

・合宿後のコンテンツや日常生活の中で、合宿での葛藤を解決し、成長する人もいます。

本当に、様々です。

でも、なぜ。同じ場所で過ごしているのに、なぜこのような違いが生じるのでしょうか?

ミネルバ生が自身のストーリーを語るトークイベント。こういうのが毎日突発的に行われる。

第2章 この合宿から考察する〜自由と人間と主体性と教育と〜

参加した人が本当に心の底から願えば、この合宿では、どんな情報も、繋がりも、機会も、手に入る。そんな設計になっています。


参加者の想いを真剣に受け止める眼差しが、ここにある。

一方で、勇気と覚悟を持って、心の底からの願いを表現できない人は、何も得られないような仕組みになっています。

カウンセラーも、コーチングも、対話できるグループも、ワークショップも、壁打ちも、温泉での対話も、自己紹介の場も、食事も、温泉も、全て何も義務では無いため、勇気と覚悟を発揮しないと、全て参加できずに、手からすり抜けていきます。

つまりはこの合宿は、

「勇気と覚悟以外の全てが、望めば手の届く範囲に用意されている「理想郷」としての合宿」

「勇気と覚悟を発揮できなければ何も得られない「創造的絶望」としての合宿」

という二面性を持っています。仏教的な「空(くう)」の概念や、量子力学的な観念とも似ています。

ここで言う勇気と覚悟とは、「魔王を倒しに行くぞ!」のような大きなものではありません。

ただ、自分の心からの願い、想いを発する、小さな小さな勇気や覚悟。0と1の境目。受け身と主体的の狭間。そのようなものです。

これさえあれば、実社会でも、自分の生きたいように生きていくことができます。逆にこれが無いと、やはりどこかで歪みが生じて、うまくいきません。

この0と1の境目に高校生に気づいてほしくて、それを得てほしくて、この合宿を設計しています。

これは、大人も一緒です。

このゼロイチに気づいていない人、得ていない人がこの合宿に来ると、ほぼ必ず、ちょっと不思議な行動をします。

例えば
高校生にマウンティングして説教してしまったり

価値を出さなきゃ、とはりきり過ぎてダウンしたり

人に話しかけられず、家事をお手伝いすることに専念してしまい、楽しめなかったり

コーチングやカウンセリングをすることに、この場における自分の存在価値を見出して、それだけをしてしまう人

隅っこに座って、誰とも話さずに、一人お酒を飲んでいる人

などなど。これらの行動を「その人が好きでやっている」「その人の価値観や特性だ」といえばそれまでなのですが、実際は彼らは本当に心からそれを望んでやっているわけではないことを、僕は知っています。

そして、僕にもそういう一面が、まだあります。

「私はどうせ、人から理解してもらえない」

「どうせ、私は感情を出しても受け取って貰えない」

「どうせ私はいつか、嫌われてしまう」

「どうせ私のもとから人は離れてしまう」

そんな、過去の親子関係のトラウマ由来の思い込みや傷が僕にはあります。

だから僕もこの合宿では、

・自分のことを話す側ではなく見守る側に徹する

・コミュニティ形成の動きを、自分からはしない

・感情をあまり表に出さずに、どっしりと構える

といった行動をとっています。

もちろんそれには功罪あるのですが、それに違和感を感じる参加者もいます。合宿を重ねるにつれて、少しずつは変わってきているのですが、それでもまだ100%というわけにはいきません。

結果、高校生とって僕は、「こわいイメージ」があるらしく、今回の合宿中に僕に話しかけてくれた高校生は、両手で数えられるくらいでした。(僕からは必ず皆に声をかけたのだけど…)

…というわけで、この合宿では、大の大人でも、こういうことが変なことが起きるのです。

大の大人でも、自由のユートピアの場を使いこなすことは、難しいのです。いわんや高校生をや。

※合宿の裏話をすると、僕はいつも合宿前に不眠症になります笑

「誘ったら、友達来てくれるかな」
「来て、ほんとに楽しんでくれるかな?」
「誘えない…残り一ヶ月…苦しい…」

なんて葛藤をしながら、最終的に勇気を振り絞って声をかけて、この場に沢山の方をお誘いしています。

毎年、死ぬような想いをしています笑

※なお、僕は最終日の前日に、皆の前で号泣していました。「どうしたら、皆が楽しく過ごせるか。わからない。悔しい。助けてほしい。」って。そしたら少し流れが変わって、参加者同士のコラボレーションが広がりました。

なんというか、リーダーが本音を出す、弱みを出すことから場は変わるのだなぁと改めて実感するとともに、この合宿では毎度「僕のあり方が試されている」ことを実感しました。

人間は、真に自由を使いこなすことが難しい

さて。何でもできる、何でも叶う場では、私達は苦しんでしまいます。自由の圧力で窒息しそうになり、過去の心の古傷が疼き、望んでもいない行動をとってしまいます。

こないだ読んだ慶應大学の國分教授の「暇と退屈の倫理学」の説に、そっくりだ。

あるいは、エーリッヒ・フロムか「自由からの逃走」で指摘している事象とそっくりだ。

現代の教育では、子どもたちに「与えて与えて与えて」を繰り返している。その結果、子ども達の主体性が失われ、実際に子どもたちが社会に出たときに自由を使いこなせず、悩み、苦しんでいる。そんな構造が見て取れる。

かと言って自由に慣れていない子たちが、このような合宿に来ると、苦しんでしまう。もちろん2回3回と来てくれた子たちは大きく成長するし、苦しもうともずっと続けて慣れさせれば、子どもも大きく変わっていくだろう。(教育界で著名な工藤校長先生も、同じ手法で学校を再生していた。授業中ゲームをしたければしてよい。ただし別部屋で。最初はゲーム部屋に人が集まったが、1年後にはゲーム部屋には誰もいなくなった。)

大人だって、傷が疼く

さて、ここで一つの疑問が思い浮かぶ。「なぜ大人は子どもに「与える教育」「やらせる教育」をしてしまうのか」と。

実は、大人も、「何もしない」ことに耐えられないのだ。学校の先生や親も、「子どもに何かをしてあげなきゃ」「失敗させたくない」という想いで一杯で、

あるいは
「自分が価値を出さなきゃ」
「自由を与えてうまくいかなかったときの責任を取りたくない(だから色々と子どもにコンテンツを与えてしまう)」

という大人の傷が疼き、エゴも入ってきたりしてしまう。

だから、大人は「見守る」ことに耐えられず、子どもに強制的に何かを与えてしまうのだ。

だから、子ども達の真の主体性が奪われてしまいまうのだ。

私達大人は、大きく反省しなければいけない。

子どもの主体性を奪っていたのは、私達だったのだと。

余白が、創造的な行為と対話を生み出す

大きな話になってしまうが、それを回復していくことが、まさに「リジェネラティブ(再生)」という概念であり、大量生産大量消費の近代を乗り越えて、真に持続可能な共生社会をつくっていくための第一歩になるだろう。「リジェネラティブな教育」に、私達は、かじを切ることができるのか。そんなことを、今を生きる私達は問われている。

第3章 僕の物語と、これからの合宿

さて、ここまで読んでいただいた皆さんは、とあることに気がついたと思います。

「偉そうに言っているけど、この合宿をやっていること自体が、喜多の心の傷がうずいているからではないか」

と。

まさに、その通りです。 

暇があったら、僕は合宿や場づくりをしている。

それは僕が本音を話せなかったを家庭環境に由来し、大人になっても本音を話せない痛みが疼くから、暇があれば本音を話せるような場づくりをしてしまう。

ならば、僕は自分に問いかけなければいけない。

「お前は、本当に、やりたいことをやっているのか?」

「お前は、真に人生の自由を使いこなせているのか?」

と。

これは僕にとって、本当に恐ろしい問いだ。今まで15年間のアイデンティティであった「場づくり」を否定しかねない問いだからだ。

いや、否定ではない。今まで非日常であった「本音が話せる合宿」を、日常にすればいいのだ。

つまりは、今までは「私」と「本音が話せる場」が、分離していたのだ。それを統合したら、どうなるのか。

わざわざ、年に何回か合宿や場を開催するまでもなくなる。なぜなら、毎日が合宿や場になるからだ。

さらにそれを通じて、「喜多が場を開催する」という概念が消失し、「皆が場を開催する」という概念が新しく生じてくる。主客の転倒から起こる社会の相転移だ。

ゆえに、僕は、僕の持っている全てを世に解き放たなければいけません。

5つのことを解き放つ

具体的には、
・ノウハウの解放
→やりたいことを見つける方法、葛藤を乗り越える方法、場をつくる方法、コーチングを学ぶ方法、あらゆるノウハウを全て書籍や動画で解放していきます。全国の学校に広めていきます。

・家の開放

家から徒歩一分の景色


箱根の湖畔にある、10人くらい泊まれる僕の家を、縁のある高校生に開放します。いつでも、合宿してくれい。他にも100軒くらいそういう場を用意したいな。青年の家とか、空き家とか。費用は無料になるよう、僕が補助したいと思います。

・食卓の開放


僕が食事をつくるときは、できる限り沢山つくって、皆さんに開放します。美味しい、命のスープを、常に食べられるように。このLINEでお知らせします。

・お金の開放
財団をつくり、毎年、一万人の10代が探究するためのお金と仲間を提供します。資金の捻出は、信託モデルや出世払いモデルを検討中。とりあえず僕は私財をほぼ財団に寄付します。皆さんも、自分が推す10代を見つけて応援できる仕組みを作ります。この仕組みはいずれ、近代的な「学校」という概念を置き換えることになるでしょう。

・僕の意識の開放
毎朝、毎晩、心からの「おはよう」と「おやすみ」を言うオンラインの場をつくりたいと思います。僕のおだやかな意識の共有です。

来年には、年間50〜100回、細かいのも合わせると1000回、合宿や場が開催されます。そのうち皆もやりだすので、1万、10万、100万と増えてくると思います。

僕がいなくても、僕がいる。そんな合宿や場も、開催していきます。

次回大きなものは、

2025年の3月28日〜30日に「問いから始まるピッチ合宿」@ライムリゾート箱根

2025年8月1日〜8日にライムリゾート箱根および箱根近辺で、何かやります。この夏は、何か大きな出来事が起こる気がしているので、内容を空白にしています。

あたりです。合宿なんだけど、合宿じゃない。そんな感じです。


畑が似合うようになっていくかな?

僕のアイデンティティは、今までの場づくりから、少しずつ食や農や医療、あるいは政治に移りつつあります。

いや、正確にはそれらが加わりつつあると言ったほうが正しいかもしれない。それらは僕の親や先祖のアイデンティティでもあり、自分の運命的なものでもあると感じています。

リジェネラティブ・アントレプレナーとして

僕は、それらをすることを通じて、日本が抱えてきた傷、人類が抱えてきた傷、生物が抱えてきた傷まで視野に入れて、癒し、再生していく、そんなことができたらいいな、と思っています。

僕の肩書きも、社会起業家あらため、リジェネラティブアントレプレナーまたは再生事業家に、変えたいと思います。まだ世の中には無い言葉だけど、今日この場を借りて、生み出したいと思います。

最後に。
今まで、合宿や場づくりに関わり、参加してくださった何万人もの方々、お金を出してくださったJAMPIA・三菱みらい育成財団・クラウドファンディング支援者の皆様、そして何より僕の活動を見守り、手伝ってくれた父と母と祖父母に、心からのお礼と感謝を伝えさせていただきたいと思います。ありがとうございます。おかげさまで、僕自身の心の癒しの旅路に、一つ区切りをつけることができました。

この夏の合宿は、0と1の狭間に、無限の運命の交差点がありました。願わくば、皆さんの心のなかにも何か温かいものが残っていますように。

では。




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