心と自己哲学




はじめにいくつか前提を述べたいと思います。

これは私が高校範囲まで学習してきた状態で思考して出した妄想のようなものです。
おこがましいとは存じますが、是非暖かい目でご一読頂けると幸いです。

善悪の基準は人それぞれです。
普遍的な善悪と考えられるものはそれぞれ善的、悪的なだけであって、偶然例外が今まで出なかっただけである。
というスタンスを取ります。

心は有形とします。
ちゃんとすり減ったり折れたりするとします。

自己哲学という概念を使用しますがネーミングに特に深い意味はありません。
単に哲学という言葉が好きなだけです。
悪しからず。



心が有形であるのは前提に示した通りですが、心には明確に構造があります。
真ん中に核があってその周りを流体が覆う、簡単な二層構造です。
ここで注意したいことは、心は何かを司るものでなく、あくまで精神状態を表すバロメータのようなものだということ。
なので心が何かを引っ張ってくるということは基本ありません。
ただ在るだけなのです。

核の堅さ・大きさ・形は人によって違います。
鉄球みたいなのもあればプリッツみたいなのもあります。
構造を想像してみた時に浮かび上がった形が、もしかしたらあなたの心の全貌かも知れません。
そして核には引力があります。
なので流体が周りに漂えるのです。
感情によって核の引力の強弱が変化するのに伴い、周りの流体の総量は増減していきます。
場合によっては全部なくなってしまって核が剥き出しになったりもします。
その時人の本当の強さが見られたりするのです。

核も流体も構成物質は関心事です。
ここで使う関心事というのは比較的広義で、これまでの人生の中において±方面で何かこう引っかかってきたもの全般をさします。
その中でも軽度なものは流体、重度なものは核の素となる、としていきます。
なので流体はついたり離れたりしやすく、逆に言えば、核も欠けたり大きくなったりする可能性はある、と言えます。


核および心そのものは自分が成長する上で共に育っていくものですが、そのように育つものがもうひとつあります。それが自己哲学です。

自己哲学とは、大体の自己の行動の起因となるものであり、他者の行動を受け、どの感情を生み出すか判断するレセプタのようなものです。
もちろん全世界の万人が万人特有のを持っています。
なお、自己哲学は無形です。

もう少し言うと、自己哲学はその人そのものでもあります。
人間は数字である。
この世界は生存する人間全員が有する共通因数なだけである。
他にも、極めて多くの人が有する因数のみ持っている人もいれば、その因数を持たないかつ大きな大きな素数である人もいる。
という世界観を用いると、人の本体と構成数字と自己哲学の綺麗なトライアングルが見えてきたりもします。

自己哲学には部屋があります。
これはベン図みたいに考えると分かりやすくなるでしょう。

『良心』という部屋があります。
これはシンプルに自分が「よい」と思うものが入っている、もしくは生み出される部屋です。
良い、善い、好い、どの「よい」でもよいですが、耳馴染みのよい「良い」を用意して良心ということにします。
『悪心』という部屋があります。
これもシンプルに自分が「悪い」と思うものが入っている、もしくは生み出される部屋です。
悪い等のネガティブな言葉は種類も多くてややこしいですが、それら全部ひっくるめて「悪い」として扱いたいと思います。

良心の周りは、自分はそう思わないけど他人は良いとするものがある空間です。
悪心の周りは、自分はそう思わないけど他人は悪いとするものがある空間です。

こうして、人は人生の中で触れていくものを何となしにカテゴライズしていくのです。
しかしきっちり分かれているわけではありません。
ものが部屋を行き来したり部屋からはみ出したり、場合によっては壁がなかったりしているわけです。

もちろんこの部屋たちに世の中の全部が収まりきる訳では無いことは明白です。
世の中は知らないことでできているのですから。要は、「自分はそう思わないけど〜」の部屋にあるものも自分の解釈の上で分類しているものですので、全体集合の否定はあまり考えることがないのと同様に、自覚なしに他人が「悪い」とする行動を犯してしまうことも十分有り得るのです。

心と自己哲学について説明させていただきましたが、ここで、解決編に向かっても得れるものはあまり多くないと感じました。
ですが、ここからまとめに入ります。

自覚なしの「悪い」は予防できないように思われます。
その都度ぶち当たって成長して自己哲学を育てる他にしようがありません。
そうは言ってられないご時世ではあるかもしれませんが、安心してぶつかることができる素敵な世界になるということは、人間が今後更なる進化をする上で必要だと思います。

しかし、この世界で自己哲学、心、総じて自身をコツコツ成長させることに関しては比較的易しいように感じます。
この世界には不可抗力が多過ぎるのです。
だからこそ世界は面白く、鍛えるとか磨くとか学ぶとかいったことはしようと思えば簡単にできるのです。


努力は基本その人の意志によるものです。
そんな自己満足でまみれた行動が過大評価されているせいか、どうしても人は、その結果得た経験値を累積して作られた自己哲学とかいうのを誇示しようとしてしまいます。
誇示することは楽しいことなので、生物としてそちらに傾いてしまうことは些か仕方のないことなのかも知れません。
でもその感情に振り回されると、利はそうそう起こりません。
大事なのは途上を自覚することだと思います。


話を戻すと、自身を成長させる際、もちろんただ物事を知識として蓄えるよりも、実際に五感を通して血肉としたりした方が有効なのでしょうが、単純に知らないことというのは無限にあるのですから、まずは一番単純な知るをするのが「良い」でしょう。
謙虚に知る。
全てはここから始まります。




あとがき

どうしても私には普遍が空想のように思われます。
もし普遍があるのだとしたら、一体なぜ世の中にはたくさんの哲学者がいて、それぞれがそれぞれの考えを持っているのでしょう。
ひょっとすると普遍とはずっと高い処にあって、登っていくための足場を作っていたある時ちらっと見えた一片を、たくさんの人がああでもないこうでもない言っているのかもしれませんが、普遍に塔は届くのでしょうか。
よくニュースなどで耳にするのは、不安な未来像です。
これらのことから私が特に思うことがあります。
哲学は世界を救わない、ということです。
私はそんな哲学を大学で学びたいとずっと思っています。
楽しみです。
こんなに利己的な学問があるでしょうか。








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