何もかもが気に入らなかったあの頃
noteのおススメでいろんなnoterさんの名前が出てくるのですが、もしかしたら僕の名前も出たりしてるのかなと思ったら急に照れ臭くなりました。
こんにちは、割と自意識過剰なコッシーです。
さて、お友達のかすみさんがこんな企画を立ち上げられました。
絶賛思春期真っ最中の中2の息子さんがどうやら反抗期を迎えつつあるようで、その気持ちは理解できるもののやっぱり腹を立ててしまうこともしばしば…。
そこで、みなさんから反抗期エピソードを募りそれを読むことで反抗期に対する免疫をつけて、息子さんの反抗期なんて鼻で笑い飛ばしちゃえ!っていう実にかすみさんらしい前向きな企画です。
かすみさんとは「かすみん」「コッシッシー」と呼び合うほど親密な仲(どういう仲?)、この企画に参加しない理由がありません。
企画の主旨は『あなたの反抗期の思い出を教えてください』この一点のみ。
というわけで僕の反抗期の思い出を語っていきたいと思います。
◆◆◆◆◆◆◆
僕の父親は優しいというかのんびりしている人で、幼少の頃から父親から怒られた記憶がほとんどありません。
その反面母親は少しヒステリックな人で小さい頃から結構怒られていました。
小学生の頃はそれが当たり前だと思っていたし、5つ上の姉も特に母親に反抗することはなかったので、僕も母親に刃向おうなんて気すら起こっておらず、ただただ怒られたら素直に謝罪をしていた日々でした。
中学生になってもその関係はあまり変化はなく、成長した分母親のいなし方を覚えた僕はむしろ小学生の頃より上手に母親と向き合えていたように思えます。
中学生と言えば思春期真っ盛りの血気盛んな時期ですから、僕も母親に思うことの一つや二つはそりゃありましたが、当時の僕はそんなことよりも熱中する大切な事がありました。
それはサッカーでした。
中学の頃の僕は本当にサッカーが全てで毎日サッカーのことばかり考えていました。
体力をつけるためにご飯を食べ、身体を休めるために睡眠を取り、赤点を取って部活ができなくなるのを防ぐために勉強をする、自分の行動全てをサッカーと直結させるほど、サッカーにのめり込んでいました。
母親に反抗する時間と体力があればサッカーのために使いたい、当時はそんな風に意識していたわけではありませんが、感覚的にそうしていたのかもしれません。
岐阜県の片田舎の中学でしたが、それでも県大会ベスト4という学校始まって以来の快挙を成し遂げることができました。
当然、高校もサッカーが強い公立校を選びました。
高校でもサッカーを頑張ろう、そして絶対に全国大会に行くんだ!そう意気込んで高校へ進んだ僕に待っていたのは挫折でした。
中学とは違い高校ともなるといろんな地区の優秀な選手が集います。下手すれば県外からやってくる選手もいます。
僕は井の中の蛙でした。レギュラーどころかベンチ入りさえできませんでした。
それでも僕はいつかきっと試合に出るんだと自分を奮い立たせ頑張りました。
歯を食いしばり、悔し涙を拭い、大好きなサッカーを諦めたくなくて頑張って頑張って頑張りました。
しかし僕の頑張りが実ることはありませんでした。同年代のチームメイトどころか下級生にも後塵を拝しました。
高校2年生の冬でした。右足の甲の骨にヒビが入りました。
病院の先生の言う事では全治1カ月ほどで復帰できるとのことでした。
でも僕の心を折るのに、この怪我は十分過ぎるほどでした。
冬休み前に退部届を出しました。
母親はもちろん顧問やチームメイトそして担任の先生、多くの人に引き留められました。
いずれの説得も僕の気持ちをもう一度奮い立たせることはありませんでした。
初めて部活のない長期の休みを過ごしました。
サッカーを忘れるために中学時代の旧友たちと遊び倒しました。
夜通し遊んで明け方に帰宅する、そんな毎日を過ごしました。
そんな僕を母親は顔を合わせる度にいろいろと文句つけてきました。何もかもがどうでも良くなっていた僕に喚き散らす母親の言葉なんて耳に入ることはありませんでした。
「うるせえな。ほっとけよ」
会話をすることすら面倒だったあの頃、そんな風につっけんどんに返事していました。
冬休みが終わり学校が始まっても僕の生活は荒れたままでした。
次第に学校も休みがちになってきました。
相変わらず母親はわあわあ言ってましたが、本当に全てがどうでもいいと思っていました。
うるさい母親や何も言ってこない父親、短大を卒業して一生懸命仕事している姉、楽しそうなクラスメイト、出席日数を気にする担任、そして声を出して走るサッカー部員。
目に映る全部が気に入りませんでした。
全部無くなれば良いと思っていました。
母親から「高校だけは卒業して」と言われる度、僕は逆に辞める気持ちが強くなってきました。
3学期も半ばを過ぎる頃には担任もクラスメイトも僕が高校を辞めることに疑いはなかったと思います。
唯一母親だけが「高校だけは…」と口にしていましたが、僕はもう高校を辞めることにためらいはありませんでした。
そんな時でした。
その日も友達と夜遅くまで遊んだ僕は深夜に帰宅しました。すると珍しくリビングに灯りが点いており、そこに父親がいました。
帰ってきた僕をみるなり「話がある。少し良いか」と座るように促されました。
「高校を辞めるつもりなのか?」
父親は怒るでもなく静かにそう言いました。
僕は父親から高校を辞めることを止められると思いました。
今まで何も言わなかったくせに今更なんだと突っぱねる気持ちでした。
しかし父親からの話は僕の想像すらしていないことでした。
「高校を辞めるのも行くのもお前が決めればいい。それに関して父さんからは何も言う事はない。ただこれだけはお前に知ってて欲しいと思ってな」
そう言って父親はある資料を僕に見せてきました。
会社の同僚に作ってもらったというその資料には父親の会社の学歴別の初任給が書かれていました。
「大学卒業だと20万で高校卒業だと18万だ。ひと月2万の差で1年だと24万だ。ボーナスを入れると多分もっと差がつくと思う」
父親が何が言いたいのかよく分からずただ茫然と話を聞いていました。
「何年も働いていくとどんどんと差がついていくのは分かるな。これが大卒と高卒の差だ。だけどここに中卒は記されていない。うちの会社は中卒は採用しないんだ」
ここで父親が何が言いたいのか分かりました。
父親は僕に現実を教えてくれていました。
「お前が今やろうとしているのはそういう事だ。とても厳しい道になると思うけどその覚悟があるなら父さんは止めない。どうだ?まだ高校辞めるつもりか?」
父親からの問いに僕は言葉が出ませんでした。それが僕の答えでした。
僕に覚悟なんてありませんでした。
レギュラーになれないのも怪我をしてしまったのも全部自分のせいなのに、それを世の中のせいにしてただ甘えていただけでした。
父親の話を聞いて高校を辞めるのを止めました。
その日の朝、母親にその事を告げました。
仕事を休んでくれた母親と一緒に学校に行きました。
先生に復学の意思を伝えました。
「春休みは潰れると思えよ」と少しホッとした顔で言われました。
そして、「お母さんに感謝しろよ。『必ず説得しますから』と毎日のように学校に連絡をくれたんだぞ」と少し厳しい顔で言われました。
それから残りの3学期は休まず学校に行き、足りない出席日数を埋めるために先生の言うとおり春休みはほぼ学校に行きました。
その甲斐あって無事に3年に進級し、そして決してランクの高い学校ではありませんが大学にも進学できました。
母親には大学を卒業する時に「あの時は止めてくれてありがとう。お母さんのおかげで卒業することができました。迷惑かけて本当に申し訳ありませんでした」とお礼と謝罪をしました。
母親は「これからたくさん恩を返してよ」と涙ぐみながら言っていました。
◆◆◆◆◆◆◆
反抗期…とは少し違うかもしれませんが、これが僕の人生において1番親に反抗した話です。
振り返ると本当に自分は馬鹿だったなと思いますが、あの時のあの経験があるからこそ今の自分があるとも思っています。
また全員がそうではないと思いますが、反抗期を経たからこそ親や周囲の人たちが自分にとっていかに大切な存在か気付くのだと思います。
だから現在反抗期真っ只中のお子さんを持つ親御さんたちは、大変なことも腹が立つことも多々あると思いますが、きっと何年後かに何十倍も嬉しい事が待っている…のかもしれませんね。
熱が入り思わず長くなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
そして貴重な思い出を顧みる機会を与えてくれたかすみさんに大きな感謝をして筆を置きたいと思います。
かすみん、本当にありがとう。
コッシー
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