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【Mom's Kick】本文①

5時30分、枕元でスマホがパッと光を放つ。それを待っていた下田綾しもだあやはディスプレイに表示された停止ボタンを静かにタップする。
綾はいつもアラームの数分前には目を覚ましていた。
音楽が鳴る前に停止ボタンを押す、それがもう日常化されていた。

横にいる夫の修一しゅういちに目を配り寝息を確認して起こさないようにそっとベッドから降りる。椅子に掛けてあった薄手のカーディガンを羽織る。
まだ残暑が続く9月の半ばだと言うのに朝方は少し冷える。
そのまま寝室を出てなるべく足音を立てないように階段を降りてキッチンへ向かう。
電気ポットでお湯を沸かし白湯さゆを一口二口ゆっくりと飲む。
徐々に身体に熱が帯びていくのを感じる。

ふぅと一息吐いて綾は朝食を作り始めた。
綾の朝は忙しい。修一のお弁当、そして長男の健人けんとと二男の優人ゆうとを加えた3人分の朝食をもう10年以上ほぼ毎日作っている。
専業主婦の自分にとって家事をこなすことは当然だと思っていた。
むしろ下田家の男たちは頼りにならず自分がこの家を守るんだと強い使命感を持って家事をしていた。

下田家の男たちは朝はパンではなくご飯派だった。3人とも朝からガッツリと食べたいと言う。
そのくせ一人ひとり好みが微妙に違っており、綾は朝からそれぞれの好みに合わせて朝食を作っていた。
修一には必ず納豆をつけ、健人は玉子焼き、優人は目玉焼きを作っていた。
ご飯が炊け朝食が出来上がる頃、階段を降りる音が聞こえてくる。

「お母さん、お腹空いたー」

寝ぐせをつけたままの優人が起きてくる。

「もう少しで出来るから顔洗ってきなさい。あと後ろはねてるわよ」

ふあい、と欠伸と一緒に返事をしながら洗面台に向かう優人を目で追う。
小学5年生になった優人はまだまだ可愛い。
彼の愛らしい姿に救われることが何度もある。
天真爛漫で甘えん坊な優人だがその実、しっかり者でこうして毎朝自分で起きてくることが出来る。

綾が心配しているのが健人のことだった。
反抗期なのか最近では全く話をしてくれなくなった。

「中学3年の男なら反抗期くらい普通だよ。そっとしておくのが1番」

修一はさほど気にもしていない様子だが綾はそうは思えなかった。
優人と違いよくしゃべる方ではない健人だが、以前はもう少し話をしてくれていた。
少なくとも一言も会話を交わさない日は無かった。
修一ともお互い格闘技好きということもあって二人でよく盛り上がって話していた。

修一は学生時代空手をやっており今でも趣味でキックボクシングのジムに通っている。
その影響から健人も幼い頃から格闘技が大好きだった。小学生から始めた柔道にすぐにのめり込んでいった。
中学で入った柔道部では県内でも注目されるほどの存在になった。
最後の夏の大会は惜しくも県大会決勝で敗れてしまったがそれでも準優勝は立派だと修一も綾も喜んだ。
しかし当の本人は相当悔しかったのかそこに満足感も笑顔もなかった。
その頃からだんだんと口数が減っていったように思える。今ではほとんど話をしなくなった。

先週行われた三者面談で担任の先生から柔道強豪校の推薦入試を健人が受けることを初めて聞かされた。
健人から全く知らされていなかった綾は恥ずかしさと驚きを隠せなかった。
そして腹立たしさも感じた。

「あんた、山下学園を受けるなんて一言も言わなかったじゃない!」

帰りの車内でまくし立てる綾に、「聞かれなかったから」とぶっきらぼうに返事をする健人にますます腹が立った。
ただ柔道を続けてくれることには安堵していた。

6時55分、優人は朝食を食べ終わり歯を磨きながらTVから流れる占いを見ている。健人はまだ起きてこない。
綾は溜息をついて健人の部屋へ向かった。部屋の前に立ち扉をノックする。

「健人!もう起きないと遅刻するわよ!」

数秒ののち、部屋の奥からガサゴソと音が聞こえた。健人が起きたことを確認して綾は部屋を離れた。
リビングに戻ると優人がニコニコ顔で綾を出迎えた。

「うお座が1位だったよ!今日は良い事あるかな~」

ついさっきまで思い悩んでいた自分を吹き飛ばしてくれる優人の明るさが綾はありがたかった。
嬉しそうに占いの内容を話す優人だったが、ふとその目が階段の方に向けられる。

「あ、お兄ちゃんおはよう」

そこには健人が気だるそうに階段を降りてきていた。

「おはよう。早くしないと遅刻するわよ」

綾の言葉に何も言わず健人は軽く頷き洗面台に向かった。
やれやれと肩をすくめる綾に優人は苦笑いしている。

洗面台から戻った健人はリビングを素通りしてそのまま階段を昇り自分の部屋に戻っていった。
こういう時の健人は朝ご飯を食べない。そのことを分かっている綾は、健人の食器を棚に戻した。
しばらくして制服姿の健人が降りてくる。

「遅くなるようなら連絡しなさいよ」

玄関で靴を履いている健人の背中に声をかける。健人は振り向きもせず右手を少しだけ上げた。
扉を開けて出て行こうとする健人の動きが止まる。
健人は振り返って綾を見つめた。

「俺、山下には行かないから」

健人はそれだけ告げて足早に家を出ていった。綾は呆気にとられてしばらくその場に立ちすくんでいた。



洗濯や掃除そして夕食の買い出しを終えた午後2時頃、綾は一息つきながら今朝の健人のことを考えていた。
あの後ちょうど起きてきた修一に一部始終を話した。
すると修一は、健人は柔道を辞めるつもりかもしれないと言った。

「アイツは決勝で負けたことを本当に悔やんでいたからな。もしかすると嫌になっちゃったかもしれないな」

修一の話ではスポーツ選手が挫折をきっかけに競技を辞めてしまうことは珍しいことではないらしい。
続けるか辞めるかは最後は健人自身が決める事、そう言って修一は仕事に向かった。

綾も修一の言っている事はよく分かる。もし柔道を辞めたとしてもそれが健人が決めた事なら残念だけど仕方がないと思っている。
ただそれを一言も相談なく決めてしまったことに寂しさと悔しさを感じていた。


「ただいまー、お腹空いたー」

気が付くと時刻は午後3時を過ぎていた。
小学校から帰宅した優人がランドセル姿のままキッチンに足を踏み入れる。

「こらこら、手洗いうがいが先でしょ。あとランドセルを部屋に置いてきて。今日はスイミングだからプールセットも持ってきてね」

優人は少し口を尖らせながらも、はーいと返事をして洗面台に向かった。
綾は冷蔵庫から準備しておいたピザトーストを取り出してオーブンで焼き始める。
健人も小さい頃ピザトーストが大好きだった。
学校から帰るといつも綾に作って欲しいとせがんでいた。

昔の健人は好きな子のことや部活のこと、勉強の悩みなど何でも綾に相談していた。
中学生になり以前よりも会話の量は減ったが、それでもあんなにつっけんどんな態度では無かった。

「お母さん、パン焦げてるよ」

優人に言われて綾は慌ててトースターを開いた。
少し焦げたピザトーストを皿に乗せ優人が座るテーブルに置いた。
美味しそうにピザトーストを食べる優人に綾は健人の姿を重ねていた。



「帰りはパパが迎えに行くからね。行ってらっしゃい」

優人をスイミングへ送り届けた綾は急いで家路に向かった。
普通なら健人が帰宅している時間だったからだ。
今朝のこともあって綾は健人とちゃんと話がしたいと思っていた。
玄関を開けるとそこ健人の靴はなかった。

「もう、遅くなるなら連絡してって言ったのに…」

なんとなく予想はしていたが案の定の結果に綾は肩を落とした。
気を取り直し夕食の準備に取り掛かる。
修一が遅くならない日は仕事帰りに優人の迎えに行ってもらっている。今日も大丈夫と言っていた。
健人の帰宅がそんなに遅くならなければまだ話し合う時間はあった。


夕食の用意がひと段落つく頃、見計らったかのように玄関がガチャリと音を立てる。
廊下に出て玄関を覗くと健人が靴を脱いでいた。

「お帰り。遅くなるなら連絡してって言ったのに」

ごめん、健人は聞き取れないほどの声でそう言うとすぐに部屋へ戻ろうとする。

「ちょっと待って。少し話がしたいわ」

健人は返事もしないまま振り返るとわずらわしそうな顔を綾に向けた。
これから綾に何を聞かれるか分かっているのだろう。
綾はお構いなしに続けた。

「朝の話だけど、山下学園には行かないってどういうことなの?お母さん聞いてないよ!」

出来るだけ冷静に話をしようと決めていた綾だったが語尾に熱がこもった。
健人は浅い溜息を吐いてますますうんざりした顔をする。

「もう決めたから」

「だから理由を言いなさい!どうして山下学園には行かないの!?」

落ち着いて話をしようと思っているのに健人の表情を見ていると綾は苛立ちを抑えることができなかった。

「母さんに言っても分かんないから」

それだけ言うと健人は綾の横を通り過ぎて自分の部屋へ戻ろうとした。
強引に話を終わらせようとするその態度にカッとなった綾は横切る健人の腕を掴み怒鳴った。

「まだ話は終わってない!!」

綾の勢いに負けじと健人も「うるさいな!」と掴まれた腕を強引に振り払った。勢いよく振り払われた拍子に綾は尻餅をついた。
「痛っ!」綾の声に一瞬健人表情が強張る。しかしすぐに険しい目つきに戻る。

「柔道のことを知らない母さんには俺の気持ちなんて分からないんだよ!もうほっとけよ!」

健人の声が廊下に響いた。健人は踵を返して歩いていく。
綾は健人の言葉に無性に腹が立ってきた。
綾はすくと立ち上がり健人の背後から足もと目がけて勢いよくタックルをした。

急に後ろからタックルをされて健人はそのままバランスを崩して前のめりで倒れた。

「いってぇ!!何すんだよ!」

「分からないから話がしたいのに、分からないからあなたの気持ちを教えてほしいのに、なぜその気持ちが分からないの!あんたこそ私の気持ちが全然分かってないじゃないの!!」

綾は仰向けに倒れた健人の両肩を押さえつけようとした。
しかしすぐに健人に払いのけられ逆に背後へ回られ首を羽交い絞めにされる。
綾は必死で抵抗するも健人の力が強く腕を外すことが出来ない。
このままだと締め落とされる、そう思った綾は健人の右腕に噛みついた。

あいたっ、健人の声と同時に腕が外れる。

「ゲホッ、ゲホ。あんた母親を締め落とすつもり!?」

「そっちこそ噛みつくなんてありえないだろ!」

一触即発の空気の中、玄関の扉が開き「ただいまー」と修一と優人が呑気に帰ってくる。
綾と健人のただならぬ雰囲気に修一と優人の動きが止まる。
そんな二人を見て少し落ち着いたのか健人は一つ深呼吸をして立ち上がった。

「とにかくさ、俺より弱い母さんには俺の気持ちなんて分からないんだから。もうほっといてよ」

そう言って階段を昇っていった。
修一と優人はそんな二人を交互に見つめて口をポカンとさせていた。



「…それで健人にタックルしたの?あっははは」

健人とのケンカの詳細を聞いた修一は綾から腰のマッサージを受けながら声出して笑ってた。それを見た優人もつられて笑う。

「ちょっと動かないでよ。でも笑いごとじゃないのよ。あの子私を締め落とそうとしたのよ!ホントに死ぬかと思った!」

綾は苦虫を噛み潰した顔をしていた。
息子にタックルをした自分と息子に締め落とされそうになった自分、その両方に情けないような恥ずかしいような気持ちを抱いていた。
そして健人に言われた「俺より弱い」という言葉が胸に突き刺さっていた。

そんな綾の姿を見て修一は気晴らしになればとジムに誘った。
修一は大学時代の後輩である横井がオーナー兼トレーナーを務めるキックボクシングジムに通っていた。
綾も2,3回訪れたことがあるが自分には関係ないとここ何年かは顔を出していなかった。
綾はこのモヤモヤした気持ちが少しでも晴れるならと修一と一緒にジムを訪れることにした。
この時はまさか自分があんな挑戦をすることになるとは夢にも思っていなかった。


週末、綾は修一に連れられてジムに向かっていた。
格闘技に興味のない優人は家でゲームをしながら留守番をするらしい。
修一がいかに自分がジムを頑張っているかを熱弁しているが、綾は頭には全く入ってこなかった。
頭の中は健人の事でいっぱいだった。
いくらカッとなったとは言え健人にタックルしたことを後悔していた。
ただ健人の態度にはやはり腹立たしさを感じていた。
反省と怒りが行ったり来たりして綾は感情がおかしくなりそうだった。
そんな状態の綾に修一の話が頭に入ってこないのは至極当然だった。

いろいろと考えている間にジム到着した。
数年前に訪れたことがあるが綾は初めてきたような感覚だった。
ジムの扉を開けた瞬間、むうとした熱気に包まれる。汗と男性特有の匂いが鼻を刺す。
サンドバックを叩く者、鏡の前で縄跳びを跳ぶ者、誰もが一心不乱に汗を流す姿に綾は圧倒されていた。

「修一先輩、こちらです」

ジムの奥の方から声が聞こえた。声の主は修一の2年後輩である横井だった。
事前に修一が綾も一緒に来ることを横井に伝えていたようで、わざわざ声を掛けてくれた。

「下田さん、お久しぶりです。先輩から話は伺っています。大変でしたね、息子さんとのケンカ」

横井に健人とのケンカが知られてるとは思ってもおらず、綾は修一を睨みつけた。修一は舌出して誤魔化している。

「でも柔道家相手にタックルはダメですよ。距離を取ってからの蹴りが有効ですよ」

「そうなんだよ、おれも勇気あるなぁって笑っちゃったよ。でも体格差のある相手に噛みつきは良かったよね」

修一と横井が綾の武勇伝に笑っている。専門的な話がちんぷんかんぷんな綾はまるで他人事のように聞いていた。
ジムを見渡すと男性だけでなく女性の姿も見られた。
トレーナの持つミットにリズムよくパンチやキックを打っている。
パンッ!パシィ!と気持ちの良い音が聞こえる。
その姿をジッと見つめる綾に横井が気付いた。

「最近では女性の入会者さんも増えてきましたよ。どうです?一度打ってみません?」

いえいえ私なんて、そう謙遜する綾だったが、修一にも勧められて一度だけ打ってみることにした。
グローブはめて足にサポーターを装着すると何となくさまになって思わずファイティングポーズを取りたくなる自分が可笑しかった。

「いきなりサンドバックを叩くと手首を負傷する恐れがあるので、まずはミット打ちからやってみましょうか」

綾は横井の構えるミット目がけてパンチを打った。ポスと情けない音が聞こえて綾は少し恥ずかしくなった。
修一が腰を使って打つと良いとアドバイスを送る。
さっきよりも腰を使ってミットを打ってみる。するとパンという音に変わる。
今度は横井が踏み込みの足を強くしてとアドバイスを送る。

綾は修一と横井のアドバイスを意識しながらミットを打った。
パシィ!!小気味いい音が響いた。

「気持ちいい!」

綾は思わず出てしまった自分の声にハッとする。
修一と横井が微笑んでいる。

「いいパンチを打てると爽快ですよね!次はキックもやってみましょうか。パンチの時と同じで腰と踏み込みを意識して打ってみてください」

腰と踏み込み、腰と踏み込み、綾は小さく口に出しながら横井のミット目がけて右足を振りぬいた。

スパンッ!!大きな音と共にミットを持っていた横井が少しよろける。
その音に周りの人たちも綾たちの方へ目を向ける。
すごいな!ママと驚く修一以上に綾は自分のキックに驚いていた。

「下田さん、初めてでこれはすごいですよ!格闘技されていましたか?」

「いいえ!とんでもない!今日が初めてですよ!」

横井の問いかけに綾は首を横に振った。
さらに横井から何か運動をしているか?と聞かれた綾は少し考えて思いつく唯一のことを横井に伝えた。

「運動って言っていいか分からないですけど、毎日夫と次男のマッサージをしています。特に夫の方は凝り性なのでかなり力を入れてやっていますね」

横井は綾の答えに合点がいったようだった。
横井が言うにはおそらく毎日のマッサージのおかげで基礎筋力がついているのだろうと、だからあんなに力強いパンチやキックが打てるのだということらしい。
綾は横井が言っていることを全て理解は出来なかったが、毎日マッサージをしてきて良かったと思った。
横井の話を聞いていた修一が突然そうだ!と声をあげた。

「ママ、それだけ良いキックが打てるのならさ、それを健人にお見舞いしちゃわない?」

修一の提案に綾は目を白黒させていた。
自分が健人にキックをお見舞いする?当たり前だがそんな事考えたこともなかった。
慌てる綾をよそに横井は修一の提案に乗ってくる。

「主婦が柔道家にキックをお見舞いするって面白いですね!」

「アイツは最近ママを舐めてるからね、ママは強い、母は強しってことを思い知った方が良いんだ」

修一と横井が盛り上がっている横で綾はアタフタしていたが、健人から言われた言葉を思い出していた。

「俺より弱い母さんには俺の気持ちなんて分からない」

綾は胸が熱くなっているのを感じていた。
健人にキックをお見舞いすれば、自分が健人よりも強くなれば健人の気持ちが分かるような気がしてきた。

「私…頑張ってみようかな」

綾の決意に修一はニヤリと笑った。そして右手を開いて自分の前に出した。
横井は修一の意図を理解し修一の右手に自分の手を重ねる。
続けて綾も横井の手に自分の手を重ねた。
修一は二人を交互に見つめて仰々しく話始めた。

「お二人ともよろしいですか。本日からママ…下田綾が下田健人にキックをお見舞いするためのプロジェクトを開始いたします。我々はこのプロジェクトが成功するまでの運命共同体です。プロジェクト名はえーと、『ママは強し作戦!』これで行きましょう!」

恐ろしくダサい作戦名に綾も横井も苦笑いしたが、それでも二人とも胸がワクワクしていた。

「それでは掛け声をお願いします!健人にキックをお見舞いするぞー!」

修一は周りの目を気にすることなく大きな声で叫んだ。
修一の声に反応して周囲が綾たちを注目する。綾は少し恥ずかしくなり俯いて控えめな声を上げる。

「おー…」

「声が小さい!そんなんじゃ健人は倒せないぞ!」

修一にダメ出しされて綾は心を決めて顔を上げた。

「健人にキックをお見舞いするぞー!」

「おー!」

「ママは強いんだー!」

「おー!」

綾は思いっきり大きな声を出した。この挑戦がどうなってしまうのかは綾自身も全く分からない。
しかしここで動き出すことで健人との関係を変えることができるような気がしていた。

いつの間にか3人のやりとりをたくさんのギャラリーが見ていた。
そして掛け声が終わると同時に大きな歓声と拍手が巻き起こった。
顔を真っ赤にさせて一生懸命会釈していた綾は鼓動が早くなっていくのを感じていた。
綾の胸はさらに熱く燃えていた。


5時00分、枕元のスマホがパッと光を放つ。綾は音楽が鳴り始め前にディスプレイに表示された停止ボタンを静かにタップする。
眠っている修一が起きないようにそっとベッドから降りてリビングへと向かう。電気ポットでお湯を沸かし白湯をゆっくりと飲む。

数回深呼吸をしてから準備体操を入念に行った。
スマホを手に持ちファルダから一つの動画を選んでタップする。
画面にはジムトレーナーの横井が映っており、こちらに向けて語りかけてくる。

「ローキックは腰の回転が非常に重要です。まずは腰の回転を強化させるトレーニングです。腰を右外側に巻き込んで前方へ押し出す!それを左右10回ずつ3セット行いましょう」

動画の横井の動きに合わせて綾も同じように動いていた。
この動画は綾が『ママは強し作戦』を実現するために横井がわざわざトレーニングを撮影してくれたのだった。

30分ほどの動画に5つのトレーニングが撮影されていた。
綾は朝と昼に毎日欠かさずこなしていた。
元々運動が苦手な綾は始めたばかりはかなり手こずっていた。
しかし毎日続けていくうちにだんだんと慣れていき、開始して1か月ほど経過した今では横井の動きに遅れずついていくことが出来ている。
これは運動音痴の綾にしては奇跡に近いと自分で思っていた。

「まず半身に構えます。そして右足を右斜め前にステップし上体を少し捻ってタメをつくり左足を前に踏み込み、そのまま右足を蹴りこみます。この時意識するのが腰の捻りと左足の踏み込みです。しっかりと腰を回転させ強く左足を踏み込みましょう!それを20回やります。さあイーチ!」

動画は終盤に差し掛かり綾は肩で息をしていた。
しかし呼吸は乱れておらず横井の声に合わせて右足を振り抜いていた。
横井からはキックを打つ時は必ず相手をイメージするように言われていた。
綾は目の前に健人がいるとイメージをして健人の左足目がけて右足を振り抜いていた。

ラスト!ニージュウ!、最後の20回目でも掛け声に遅れることなくキックができた。額の汗をぬぐい動画を停止させたところで、お疲れ様と声がかかる。
いつの間にかリビングに修一が立っていた。

「やっぱりママは努力家だなぁ。だいぶ様になってきたね」

綾は修一の言葉が素直に嬉しかった。
自分でもこの1ヶ月間に確かな手ごたえを感じていた。
イメージの中では完璧に綾のキックは健人を捉えていた。
ただそれはあくまでイメージの中の話。実際の人間相手にキックを打ったことはなく、そこを綾は不安に思っていた。

「そうだ、今週末のジムでそろそろスパーリングをしようって横井が言ってたよ」

横井が綾の不安を知ってかついに実戦形式を行うことになった。
当然スパーリングなんてしたことがない綾はより不安が強くなった。
そんな綾に修一は大丈夫大丈夫と呑気に構えていた。

「そんなことよりママ時間大丈夫?」

修一の声に時計に目をやる。いつの間にか6時を過ぎており綾は慌てて朝食を作り始めた。



つづく

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