【Mom's Kick】本文③

5時00分、枕元のスマホがパッと光を放つ。その瞬間にディスプレイに表示された停止ボタンがタップされた。
綾はもう1時間以上前から起きていた。正確にはほとんど寝付けなかった。
目を閉じて深く息を吐く。緊張からか身体が強張っているのが分かる。

ファミレスでの誓いから1ヶ月ほど経った。
綾はずっとトレーニングを続けていた。
右足のキックはだいぶ様になっていた。
最近では健人との戦いを想定してスパーリングすることが多くなった。
横井の対策はいつでも頭に思い描けるようになっていた。

「眠れなかった?」

ふいに横で寝ていた修一から声がかかる。

「ごめん、起こしちゃった?」

大丈夫と言って修一は首を横に振った。綾の緊張が伝わっているのかいつもより修一の表情が硬い。

「作戦決行は今日ですかな?隊長殿」

わざとおどけて言う修一の心遣いが綾は嬉しかった。
綾も出来るだけ明るく振る舞った。

「そのつもり。今日健人をぶっ飛ばしちゃおうかなって」

「いやぶっ飛ばすじゃなくて蹴り飛ばすでしょ」

綾と修一は顔を見合わせて笑った。
綾は今日健人と対峙するつもりでいた。
優人がスイミングの日で修一が迎えに行ける日が今日だった。

健人とは相変わらず会話はない。進路についてもあれからどうなったか全く報告や相談は無かった。
どういうつもりなのかは分からないが、まさか健人も母親から戦いを申し込まれるとは想像もしていないだろう。
綾はもう迷いは無かった。全身全霊で健人とぶつかってみようと思っていた。
その結果どうなっても構わない、そう心に決めていた。

「そう言えばママ、時間大丈夫?」

修一に言われて綾は慌ててベッドから降りてキッチンへと向かった。



スイミングへ送る途中で優人には今日作戦を決行するつもりだと伝えた。
優人は笑顔で応援していると言ってくれた。

「ありがとう!ママ頑張るからね!」

そう言って綾は優人の目の前で握り拳を見せた。

「パンチじゃなくてキックだけどね」

優人の冷静なツッコミに二人で笑った。


優人を送り届けて自宅に戻った綾は足にテーピングを丁寧に巻いた。
横井からはパンチが当たることはないからグローブは嵌めなくていいと言われている。
入念に身体をほぐす。目を閉じて健人との戦いを何度もシュミレーションする。
時計に目をやる。時刻は17時30分を過ぎていた。
健人はいつも18時には帰宅していた。

「そろそろかな」

独りそう呟いて綾はリビングの扉を開いて廊下に出た。
そして立ったまま玄関をジッと見つめていた。
綾の頭の中は健人の事でいっぱいだった。



玄関の扉がガチャリと開く。
外から入ってきた健人は目の前に仁王立ちしている綾にギョッとする。

「お帰り健人。今日は話があるから」

きっとまた進路の話だと思ったのだろう。
健人の表情が曇り始める。

「何度話し合っても無駄だと思うけど」

明らかに迷惑そうな顔をして健人が言う。
普段の綾なら甲高い声で怒っていただろう。
この日の綾は何も言わずただ健人を見つめていた。
いつもと様子の違う綾に健人は怪訝な表情を見せる。

「ああ、ごめん。話し合いじゃなかった」

「は?意味分かんないんだけど」

健人は綾が何を言いたいのか全く理解できなかった。
綾は少し息を吸いこんで大声で叫んだ。

「健人!私と戦いなさい!」

綾の迫力と言葉の意味が分からず絶句する健人。
そんな健人に構わず綾は続けた。

「あんた前に私に言ったわよね。『俺より弱いくせに』って。だったら本当に私より強いか証明してみなさいよ!私と戦いなさい!」

「いやいやいやあり得ないでしょ!大丈夫?頭おかしくなったの?」

健人は綾が本気で言っているとは思えなかった。口元には笑みさえ溢れている。
健人とは対照的に綾は真剣な顔で両腕を胸元まで上げて、ファイティングポーズをとって叫んだ。

「カバンを降ろして構えなさい!お母さんは容赦しないわよ!」

「だから何言ってんの?バカじゃないの?母さんが俺に勝てるわけないだろ」

まだ綾を甘くみている健人は構えもせずヘラヘラとしている。
綾は横井の言葉を頭の中で反芻はんすうしながら健人に向かっていった。

(まず左ジャブで相手をけん制してください。当てる必要はありません。相手の意識をジャブに集中させてください)

綾は健人に左ジャブを何発か放つ。
本当に母親がパンチを打ってくるとは想像すらしていなかった健人は驚いていた。
しかし格闘技経験者の健人に綾の緩いパンチは通用せず難なく避けられる。

(おそらく息子さんはパンチは全て交わすと思います。でも大丈夫です。そのままジャブを打ち続けてください。徐々に息子さんの脳裏にはパンチが意識されるはずです)

「こんなパンチが俺に当たるわけないだろ。もうやめろって!」

執拗な綾のジャブ攻撃は1発も健人には当たらない。それでも綾は愚直に左ジャブを打ち続けた。
いくら言ってもパンチをやめない綾に健人は徐々に苛立ちを募らせていた。

(下田さんのしつこいジャブ攻撃にきっと息子さんはイライラしてくると思います。声や表情から苛立ちが見られたらチャンスです。あと少し頑張ってパンチを打ってください)

綾は左肩に重みを感じ始めてきた。しかし横井の言葉を信じて左ジャブを打ち続けた。

「しつこいな!もういいかげんにしろ!」

綾のしつこいジャブ攻撃にしびれを切らした健人が綾の左手を掴もうとしたその時だった。

(イライラが頂点に達した息子さんは下田さんの左手を掴みにかかるはずです。その瞬間、一歩後ろに下がってください。下田さんのパンチしか警戒していない息子さんの足元はお留守になっているはずです)

綾は一歩後ろに下がり、健人の左足を凝視した。
横井の言うように無防備に見えた。
健人の動きがまるでスローモーションのように綾は感じていた。

(息子さんが左足を着地した瞬間を狙って右足を思い切り振りぬいてください!)

綾は健人の左足が着地する瞬間を狙ってするどく右足を振りぬいた。

スパァンッ!!!!

廊下に小気味いい音が響き渡る。それと同時に健人が床に倒れ込んだ。
健人は左足を抑えながら一瞬苦痛の表情を見せるが、すぐに綾を睨みつけて起き上がろうとする。

「いってぇ!!くっそお!やったな!」

しかし左足にするどい痛みを覚えた健人はまた床に倒れ込んだ。それでも懸命に立ち上がろうとするも再びバランスを崩して倒れる。
綾はそんな健人の姿を現実感のないまま、ただ茫然と見ていた。
右足にはジンとした感触が残っていた。額から汗が止めどなく流れていた。綾は自分が健人を倒した実感がまるでないままだった。

そこにガチャリと玄関の扉が開く。
修一と優人だった。二人の姿を見てようやく綾は我に返った。

「健人!!」

綾は倒れ込んでいる健人に駆け寄った。



修一に抱えられリビングのソファに座った健人の前で綾は俯いていた。
健人は苦痛の表情で左足をさすっている。
綾は健人にキックをお見舞いできたことがまだ信じられずにいた。
ただ、そんなことより痛そうにする息子を見て胸が張り裂けそうな想いでいた。健人にかける言葉が見つからないでいた。

リビングに静寂の時が流れる。
沈黙を破ったのは修一だった。

「どうだ?ママは強かっただろ」

修一は穏やかに健人に話しかける。
健人は修一の言葉に一瞬何か言いたげだったがすぐに押し黙る。そして黙ったままコクリと頷いた。
頷く健人を見て修一は突然大声で叫んだ。

「当たり前だ!ママはお前や優人、俺たち家族をずっと守ってきたんだ!そんなママが弱いわけないだろ!ママは世界一強いんだ!」

珍しく声を張り上げる修一に綾も健人も驚いた。優人にいたってはあまりの衝撃に目に涙を浮かべている。
修一は驚く3人を見渡すとニコリと笑って優しく語りかけた。

「健人も優人もよく覚えておきなさい。ママは強いんだよ」

涙声で優人が元気よく、はい!と返事をする。健人はまた黙って頷いた。
綾の目からは大粒の涙がこぼれていた。
健人は制服のポッケからハンカチを取り出すと綾の手元にふいっと投げた。
綾はハンカチを手に取って流れる涙を拭いた。
健人はゆっくりと立ち上がり左足を引きずりながら綾の前に近づいた。

「ごめんなさい」

震える左足を堪えながら頭を下げる健人に綾の涙腺はますますおかしくなった。
とめどなく流れる涙をぬぐったハンカチはすぐにびしょびしょになっていた。
綾は健人にたくさん伝えたいことがあったが、涙で声にならなかった。
優人がそんな二人の間に入ってきた。

「またお母さんを困らせたら今度は僕がキックするからね!」

そう言って蹴りマネをする優人に健人は微笑む。

「もう大丈夫だから心配するな。ま、でもお前には無理だけどね」

言ったなー!、と頬をぷうと膨らませて怒る優人に綾も健人も笑った。
3人のやり取りを微笑ましく見ていた修一が何かに気が付いた。

「ところでママ。夕ご飯は…?」

「やだ!なんにも作ってないわ!」

慌ててキッチンへ向かおうとする綾を修一が止める。そして優人にアイコンタクトを送った。
修一の意図を理解した優人は笑顔で提案をする。

「今日は外食にしようよ!!」

それがいい、と修一はすぐに賛同して健人の方に目をやる。
健人は綾を見つめて「俺も賛成」と呟いた。
それを聞いた修一が決定を下す。

「決まりだな!今日は外食にします!」

やったー!と喜ぶ優人を連れて玄関に向かった修一がチラリと綾の方を向いてウインクした。

修一と優人が先に出ていき、健人はゆっくりと歩きだした。
すぐに綾が健人の身体を横から支えた。

「いや俺結構重いよ」

「大丈夫だよ。だってママは世界一強いから」

綾と健人が目を合わせる。どちらともなく二人は吹き出して笑った。

「じゃあ母さんにお願いします」

健人は右腕を綾の肩に回した。
綾は健人の重みとそして確かな幸せを感じていた。



おしまい

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