【Mom's Kick】本文②

綾と修一そして優人の3人で横井のジムに来ていた。
ここ最近綾が修一と一緒にジムに行っていることを知った優人が「僕も行く!」とついてきたのだった。
ジムに入るとすぐに横井が3人の元へ駆けつけた。

「こんにちは、今日はスパーリングをやりましょう。後ほど声をかけますのでまずは柔軟体操をやっていてください」

スパーリングという単語を耳にして綾は不安な気持ちが強くなり表情が硬くなった。
そんな綾の様子を見て横井が優しく語りかける。

「スパーリングと言っても対戦する者は一切手を出さずディフェンスしかしませんので安心してください。下田さんが攻撃されることはありませんから。とにかくキックを相手に当てることに集中してくださいね」

綾は横井の言葉を聞いて少しだけ安堵した。それでも試合をすることには変わりはなく準備運動をしながら徐々に緊張が高まってきた。
いつもより動きが硬いことが自分でもよく分かっていた。

「下田さん、準備はいいですか?」

横井から声がかかる。柔軟体操は終わり身体の準備は出来ているが心の準備はいつまで経っても出来る気がしなかった。
大丈夫ですと応える声が震えているのが自分でも分かった。
グローブとサポータを装着すると、その姿を見た優人が興奮して声をあげる。

「うわあ!お母さんカッコいい!!ファイターみたいだね!」

優人の笑顔を見た綾は少し緊張がほぐれた気がした。
優人の明るさにはこれまで何度も救われている。
綾は心の中で優人に感謝した。

「でしょ。ママ、強そうでしょ!」

綾は優人にそうおどけてみせた。その姿に修一と横井は顔見合わせ安心する。
横井が一人の選手に声をかける。こちらに駆け寄ってきた選手はまだ20代前半くらいのさわやかな青年だった。どことなく仮面ライダークウガに似ているイケメンだった。

「こちらは入会してまだ半年ほどの練習生で越野こしの君です。今日の下田さんのスパーリングの相手です。越野君もディフェンスの練習と思ってしっかりやってね」

横井が越野にそう声を掛けると大きな声ではい!と返事をしていた。
入会して半年と言っても細身の筋肉質でいかにも強そうな越野に綾はキックを当てられる自信が全く無かった。


横井にうながされ、綾はリングに上がった。本来は試合時間3分のところを今日は1分にするとのことだった。3分なんてとても持たないと思っていた綾は1分になって助かったと思っていた。
越野がリングに上がりゴングが鳴った。

綾は横井のアドバイスを頭の中で繰り返していた。
(半身に構えて右斜め前にステップし上体を捻ってタメをつくって左足を踏み込んで右足を蹴りこむ)
もう何百回と繰り返した練習したおかげで頭の中にしっかりと記憶されていた。

綾は越野の左足を見つめる。そして左足を踏み込んで腰を回転させながら右足を振りぬいた。
しかし越野は半歩下がって綾のキックをあっさりと交わした。
勢いよく降りぬいたせいで綾はバランス崩してリング上で倒れた。

「大丈夫ですか?」

倒れた綾の元に越野が駆け寄る。大丈夫ですと言いながらも越野に手を借りて起き上がる。クウガ似のこの青年は本当にいい人だ。
まだ1分経ってないよー!、横井がリング上の二人に声をかける。
綾も越野も再びファイティングポーズをとる。

綾は何度も越野の左足目がけてキックを放つが結局全て交わされ終了のゴングを耳にする。
1分がとても長く感じるほど体力を削られた綾はリングから降りるとそのまま床に座り込んだ。
ぜーぜーと肩で息をする綾に横井が話しかける。

「下田さんお疲れ様でした。生身の人間にキックを当てることがいかに難しいかがお分かりいただけたと思います。でも大丈夫です!実は僕には秘策があるんです」

そう言って横井はニヤリと笑った。
綾はゆっくりと息を整えながら横井の秘策を聞いた。

「まず左ジャブで相手をけん制してください。当てる必要は全くありません。とにかく適当に何発か左のパンチを越野君に打ってください。すると越野君は避けながら下田さんの右手を気にし始めると思います。不思議ですよね。でもこれは僕が前もって越野君に『下田さんの右ストレートは強力だから注意してね』と伝えてあるからです」

越野にウソの情報を与えたと笑いながら話す横井を綾は実は恐ろしい人だと思った。

「越野君が下田さんの右手を気にし始めたら、下田さんの良いタイミングで右ストレートを打つマネをしてください。あくまで打つマネです。こう少し右肩を動かせば良いと思います。警戒している越野君は左へステップして避けると思います。そこに合わせて下田さんもステップして左足を踏み込んでください。そして越野君の左足が着地する瞬間を狙って右足を振りぬいてください!」

横井の言う秘策を綾はなんとか理解は出来たが、果たしてそんなに簡単にいくのだろうか。綾は不安になった。
しかし、横井の言うとおりにするしか綾には選択肢がなかった。

「ではそろそろ再開しましょうか」

横井が二人に声をかける。綾の息は整っていた。
リングに上がり越野に軽く会釈をしてチラリとリングサイドの横井に目をやった。
横井は親指を立てながら笑顔で綾を見ている。
綾は横井の秘策を思い出しながら越野に向かっていった。



「ママ、すごかったなー!バシーン!ってキックが決まっていたね!」

ジムからの帰宅途中、車内で優人が興奮して話している。
綾はまだ右足に感触が残っていた。

「横井先生から教わったことをやっただけよ」

「それでもカッコよかったー!」

スパーリングの2試合目、横井の作戦通りに綾は動いた。
すると見事に越野の左足に綾のキックが当たったのである。
越野は倒れることは無かったがスパーリング終了後左足を引きずる姿を綾は目にした。
リングから降りると修一や優人が興奮して駆け寄ってきた。
横井も労いの言葉を掛けてくれた。
しかし綾は全く嬉しくなかった。むしろ初めて人を蹴った事に対して嫌悪感を抱いていた。

「少し早いけど今日はこのまま外で食べて帰ろうか?」

時刻は午後4時半を過ぎていた。修一の提案に優人が喜ぶ。
綾も修一の提案に安堵する。正直こんな気持ちで夕食を作るのは大変だと思っていた。

「健人は…きっと来ないな。最近外食に一緒に来なくなっちゃったからな。ま、これも思春期かな」

綾も修一の意見に同感だった。きっと誘っても健人は来ないだろう。
健人には何か買って帰ることにして、3人は優人の希望でファミレスに行くことにした。
綾はほとんど食べられないだろうなと思っていた。



優人はハンバーグセットをペロリと平らげ綾が半分以上残したオムライスも食べていた。
いつの間にかこんなに食べるようになったんだと綾も修一も感慨深く思っていた。

優人はデザートを、大人二人が食後にコーヒーを飲んでいた時だった。綾の様子を気になったのか修一が綾に語りかける。

「どうした?ママ?疲れちゃったのかな?」

「…うん、ちょっとね」

ぎこちない笑顔を見せる綾に修一は言う。

「『ママは強し作戦』をやめたくなった?」

修一の言葉にハッとする綾だったが、コクリと黙って頷いた。

「やっぱりな。優しいママのことだからそうじゃないかと思ってた」

健人にキックをお見舞いすることで何かが変わると信じていた綾だったが、人に暴力を振るうことがこんなにも辛いとは思っていなかった。
ましてや自分の息子を蹴るなんて、正気の沙汰ではないと思っていた。

「『ママは強し作戦』健人にとっても良いことだと俺は思っていたけど、ママがやりたくないのならやめよう。無理にやる必要はないよ」

綾もそうしたいと思っていた。こんな気持ちのまま健人と闘うことなんて出来なかった。
健人とはまた別の形で話し合おうと決めた時だった。黙々とアイスを食べていた優人が口を開いた。

「『ママは強し作戦』って何?」

しまった!と綾は思った。優人が側にいるのに落ち込み過ぎて気が回らなかった。
修一がしどろもどろで優人にごまかしているが優人は納得いかない表情をしている。
困っている修一の横から綾が優人に話し始める。

「『ママは強し作戦』はね、ママがお兄ちゃんをキックする作戦なの」

綾は優人にウソはつきなくないと思っていた。理解できるか分からないが正直に話そう、そう決めて優人に全てを話した。
優人はアイスを食べる手を止めて黙って聞いていた。

「…だから、ママの方が強いんだぞってことをお兄ちゃんに分かってもらおうと思ってお兄ちゃんにキックをすることを決めたの。でもね、やっぱりやめようと思ってる」

やめる?、優人が怪訝な顔をして綾に尋ねる。
綾はここでも自分の気持ちを正直に優人に伝えた。
すると優人は思いがけない事を口にした。

「じゃあ僕が変わりにお兄ちゃんにキックする!」

綾も修一も優人の言葉に驚きを隠せなかった。そんな両親を気にすることなく優人は言った。

「だってお兄ちゃんはお母さんを馬鹿にし過ぎだよ!いつも頑張ってるお母さんを困らせてばかりで。この前もお母さんに攻撃したりして僕は怒ってるんだ!だからお母さんがやらないなら僕がやる!」

綾は涙がこぼれるのを必死で堪えた。ここが外で良かったと思った。家ならきっと泣いていただろう。
優人は本当に優しい子だ。そんな優人にこんな事を言わせてはいけないと綾は思った。

「ありがとう優人。でも大丈夫!ママが強力なキックをお兄ちゃんにお見舞いするわ!」

綾は覚悟を決めた。ここで逃げていてはきっと何も変わらない。健人には全身でぶつかっていかないといけないんだ、そう綾は決心した。

綾の言葉を聞いて修一も優人も喜んだ。
もう1回気合を入れよう!という修一を、迷惑だから!と二人で必死に止めた。
舌を出して照れる修一に綾も優人も笑っていた。
綾の気持ちはウソのように晴れていた。



つづく

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