友達がだんだん、死んでいく・・・。

これが人生。されど人生。体力も気力も資力もうせ、

あるのは、かすかな希望のみ・・・。そんな弱気でどうする?

生きていくんだよ。どんなことがあっても。遠い故郷を思い出せ。

想像してみろ。ある理由で、九州の田舎に何十年も帰ったことがなくたって、故郷は残っている。たとえ、私が育った実家は、蛇やネズミの住む、大屋根もすべて朽ちてしまって、梁や柱は腐食して、人間の住めない、ぼろぼろの廃屋になっていても。

思い出されるのは、枇杷や西瓜、瓜、胡瓜、苺、とまと、それに朝鮮グミ。ジャガイモ、サツマイモなども食べきれないくらいとれた実家の広い裏庭の畑。納屋に、3,4歳の私にはとても巨大な『去勢(こって)牛』もいて、祖母も入れて10人の家族が、二度にわけてとった食事。それはとても賑やかで楽しかった幼いころ。

思えば、人生で最も明るく輝いていた季節だった。例え泳げなくても、近所の農家の子たちと近くの海岸に行き、磯で潜ったり、貝を集めたり、父が巨大な尻を高く上げ、海に潜って大きな鮑を取ってきたり、祖母も。父はもりで捕った大きなヒラメを、天高く差し上げて誇ったように大声をあげた。とったぞー!!

農協に勧められて、父と母が二人で始めた蜜柑や葡萄は、やがて食べきれないほど実り、その売り上げは私が合格した東京の大学の授業料に化けた。43年に入学後、いつしか安保がらみで、学生運動が盛んになって、卒業するのに8年もかかった。それもすべて、ミカンとブドウの売り上げで賄った。父親の退職金だけでは、子供3人を東京の大学に通わせられなかった・・・。中学校の校長の頃、父は部下の教師が修学旅行代金を使い込みし、管理不十分として校長を首になり、玄界灘の離れ小島に左遷となった。父はその話を断り、無職に。なんという無謀な考え。俺は校長までした男だぞ。離れ小島の教員補助なんか務まるか!と啖呵を切った父を親に持つ子供たちは、それから地獄の苦しみを味わうようになる。7人の子供と祖母と父と母、無職の父一人の少ない収入で、いったいどんな生活が待っている?退職金は大金に思えたのだろう。当時、私は高校に入学したばかり。そのころの350万円はとてつもない大金に思えたのだろう。父は家を改築し、納屋を解体し、2軒目を新築した。新しい洗面所、風呂、トイレ、それに2間の子供部屋。本家の二階は洋間の応接間と一間の子供部屋に改築した。父のこの英断は、どこから来たのか?長男が大学を出て、サラリーマンになり、弟や妹の学費の面倒を見てくれるはずだと思い込んでいた。結局、長男は東京の女性と結婚し、私たちは独力で大学を目指すことになった。私は、早々と進学を断念したら、高校の恩師が国の特別奨学金を受けたらいいと助言してくれた。その試験で、私は佐賀県のトップとなり、合格した。これで、家庭教師などをすれば、東京の大学も入学し、なんとかできると、夢はすこし開き始めた。そうして、難関のある大学へ現役合格してしまった。ここからが、苦難の連続だった。頼みにしていた長男(兄)は、すぐに結婚し、私の学費の補助はできなくなった。その大学で、おそらく最も貧しかったのが私だったのは、間違いがない。入学してすぐにわかった。つくずく大学なんか、やめればよかったと思うようになった。

それから自暴自棄のはじまりだった・・・。まもなく学生運動がおこり、70年安保が世間を騒がせ、大学どころではなかった。

疾風怒濤。といえば、かっこいいが、お先真っ暗の人生がまっていた。奈落の底に転落することになるとは、予想だにしなかった。

閑話休題。

子沢山のインテリの家庭(当時の田舎では、両親が先生というのは、とんでもないインテリの家だった・・・)の家訓はただ一つ。それは、優秀な子供は大学へやり、普通の子供は高卒で働く。

そういう方針はわかるが、現実問題として、7人の子供を抱え、祖母もいて、家族10人を養うには無理があった・・・。

いずれ、父の退職金を家の改築費に使ったり、長男と次男の予備校費や大学の費用に使い果たし、気が付いた時には、私と妹の学費はなかった・・・。ここから想像もできない兄弟姉妹の確執が始まるのだ。

北九州の寒村で、10人の家族をひとりで養う一人の男。それが私の父だった。想像を絶する世界。高卒で無職の子と有名大学出のエリートの子を持つ、格差に苦しむ子供たちを持つ両親。悩みは子供から親へは伝わらなかった・・・。そんなゆとりは全くなかったのだろう。地元の町長一派が牛耳る当時の名護屋村は、やんばんの牛耳るイワシ漁船団の羽振りとタンカーを持つ運輸会社など港に蝟集して、商店もあり、電気店もあり、漁協も郵便局もある、普通の街を形成していた。散髪屋も美容院もある、そんな豊かな『浜』と、貧しい農家の集まる『岡』とでは、昔から仲が悪かった。隣の打上村と名護屋村は合併し、鎮西町となったが、格差は縮まらなかった。豊富な漁場と恵まれた港をもつ『浜』と痩せた台地にへばりつく貧しい農民の住む『岡』とが憎しみ合って共存していた。豊かな浜と貧しい岡。そこに朝鮮人が加わり、いじめが始まった。朝鮮人へのいじめは執拗だった・・・。見たくないものを見てしまった私。小学校の校庭での出来ごとだった。

朝鮮人と馬鹿にされながら、小石を投げられて虐められていた女の子がいた。泣いていた。痛くて泣いていたのではなかった。朝鮮人という理由だけで、いじめられるのが、悲しかったのだ。

何の落ち度もない。なんの罪もない。そういう人間でも、この世は痛めつけ、唾を吐き、馬鹿にしてせせら笑うのだ。いじめる子供がいれば、いじめる親がいるのだ。階級闘争は、起きるべきしておきた。私は、女の子の訴える視線を感じた。(お願い、助けて。この地獄から逃がして!)

知らんぷりして、その場を去ってもよかったが、なぜか、私は無視できなかった・・・。「やめんか!大勢でいじめて!」

言ってしまってから、後悔した。

連中は、私に向かって襲い掛かってくる。一巻の終わりだ。

*********

玄界灘のどこまでも青い海、そこに浮かぶ松浦伝説をもつ、島々。

加々良島は、母の赴任した小学校がある。隣は松島。

加部島は、今こそ名護屋と呼子から車で行けるが、大橋が架かるまでは、ポンポン船で本土から渡るしかなかった。私が生まれた昭和24年。実家の目の前の名護屋城の本丸に立てば、、朝鮮半島まで裸眼で見えたという。私は自分の目で対馬を見た記憶がある。それほど、世界は澄んでいた。世界の海も大気も澄んでいたのだ。海はどこまでも青く、空は天まで清澄だった。宇宙空間も、おそらく今よりずっと清澄だった。昭和24年の12月、雪の降るころ私は三男として産み落とされた。湯川秀樹の樹をもらって克樹と名づけられた。当時、見渡す限りの広い先祖伝来の田畑や山林など、価格は二束三文であれ、なにがしかの遺産であった。少なくとも、負の遺産ではなかった。先祖伝来の大切な遺産だったのだ。これが後々、兄弟姉妹かんの争いを生む原因となった。きちんと遺産を整理し、相続手続きも取らずにきてしまった。もう六十六年にもなるのだ。

建物は風化して、今や、誰も近寄らない状態になっていても、故郷は消えたりはしない。すべて心の奥にある。九州佐賀県の唐津に生まれ、18歳までそこで育った。実家の白亜の家は、聳えていた。

北側は秀吉が加藤清正に命じて掘削した深い広大な堀割が続く。堀まで深い石垣が積んであり、ちょうど我が家の城の石垣に見えた。東側に当たる玄関の前は、5、60メートルはある、名護屋城の石垣。400年前建造された石垣が現在もなお、がっしりと強固だった。国道を挟んで、わが櫓と名護屋城が対峙していたのだ。後日、解体された名護屋城を復元したいという話が持ち上がり、設計図が残っていないという理由で、この話は立ち消えとなった。おそらく祖父が目指したのは、白亜の小天守のような櫓のようにも見える輝く家。秀吉の世界制覇の野望を、祖父は胸に抱いて死んでいったのかもしれない。名護屋港から国道を登ってくると、巨大な名護屋城の石垣が現れ、観光客は圧倒される。

視界は開けた。右側(北側)は広大な堀が延々と続き、玄海灘までもつながっているのか?左側に視野を妨げる二階建ての民家があった。港から上がってくると、まず大きな石垣がある。そこは今は畑になっているが、400年前は、相当の武将が居を構えていた筈だ。その奥にまた石垣があり、その石垣の上に偉そうに、櫓のような白亜の漆喰の二階建ての民家があった。港から上がってきた観光客は、誰もが唖然としたろう。威風堂々とした武将の居城のようにも見えたのだ。北に掘割。西は巨大な名護屋城の石垣。東は海、朝鮮海峡、玄界灘に続く。

南側の丘の果ては、東シナ海。天然の要塞のような位置にわが家は屹立していた。福岡や長崎からバスや汽車を乗り継ぎ、はるばる名護屋城の石垣を、朝鮮海峡を見物に来た大勢の観光客は、この出城のような私の実家のことは眼中になかった。

竣工当時は、大屋根も小屋根も漆喰で真っ白く、壁も真っ白い。

玄界灘に突き出ている波戸岬から見ると、わが家は、夕日に輝く出城。壁はあくまでも白く、板塀は黒々としている。誰の居城なのだろう?誰かが、空想を練った。我が家のその雄姿に惚れた御仁がいたのかも知れない。父方の叔母がなくなる前に、

松永家の先祖は、黒鹿毛の馬に跨ったがった立派な武将だった・・・。と私に話したことを思い出した。私の母が亡くなった日に叔母から聞いた。確かめたいのは、やまやまだが、そのすべもない。今となっては・・・。朝陽に輝く松永の城を拝めば、巨万の富が天から降ってくるという…。なんて信じられない嘘を言った人がいるという。嘘かまことか、それを確かめに近くの村から、酔狂な連中が酒瓶を下げて見物に来たという昔話がある。

続く


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