歌撰恋之部 (その1)
この男は何を言っているのだろう。
帯を巻きつけていた手を止め、おとみは男を見下ろした。
あまりの突然のことに、おとみの頭は真っ白になり、節穴のようにぼんやりとした目には、身をすくめている情夫が映っていた。
聞こえていないと思ったのか、情夫の浅吉は、口ごもりながら同じ言葉を繰り返した。
「だから……、すまねえけど、別れてくれないかって……」
聞かれてもいないのに、浅吉は慌てて言い訳を始めた。
「……その、親方の世話で、女房を貰うことになったんだ」
真っ白だった頭が奇妙に冴えてきて、おとみは自分でも気づかぬうちに、浅吉を冷ややかな目で見下ろしていた。目があった瞬間、浅吉は居すくんだように顔を背けた。
「別に、その、おめえと別れたい訳じゃねえ。おめえは天下の『富本いつとみ』だもの。俺にゃあ、もったいねえぐらいだ。でも、その……」
おどおどした態度の浅吉は、いっそう体をちぢこませた。
「その……、子供ができちまったんだ」
おとみは止めていた手を動かして、帯を締め始めた。まだ昨夜のぬくもりが残っている赤い夜具の向こうに、朱塗りの鏡台があり、鏡の中には着付けを終えたおとみが写っている。すらりと背の高いおとみには、流行りの幅広の帯がよく似合った。
おとみは、当世もっとも隆盛している富本節の名取りで、新吉原の芸者衆の中でも、一、二を争うほどの美人と言われている。その「富本いつとみ」を、ただの鼈甲職人の浅吉が、捨てようというのだ。
黙って聞いてりゃあなんだい――。
おとみの切れ長の目が、鏡の中でつり上がっていた。
大体、親方の世話で所帯を持つことになった女が、どうしてもうすでに身ごもっているというのだ。気の小さい男のくせに、浅吉はおとみとその女とを、少なくとも二月三月の間、両天秤にかけていたのだ。
「どこの、どういう女なんだえ」
何気なく聞いたつもりが、険のある口調になっていた。浅吉はびくりと体を震わせ、おとみを見上げた。
「やめてくれよ。あいつは普通の女なんだ。あいつに手は出さないでくれ」
その言いぐさを聞いて、カッと頭に血が上った。
「冗談じゃないよ。あたしがその女をどうこうしようとでも言うのかい。このいつとみはね、つまらない泥棒猫なんかに、嫉妬を起こすような女じゃ……」
最後まで言い切らぬうちに、浅吉が言葉を遮った。
「あいつを悪く言うな」
つい先刻まで顔色をうかがうばかりだった浅吉が、おとみを睨み付けていた。
「あいつは泥棒猫なんかじゃねえ。悪いのは全部俺だ。責めるなら、俺だけにしてくんな」
なにが、悪いのは全部俺、だ。おまえ程度の男が、いっぱしの口をきくんじゃないよ。
おとみは怒りを抑えて平静な顔を作り、財布から取り出したありったけの金を、浅吉の手元に放り投げた。
「ご祝儀だよ。取っておおきよ」
だが、浅吉は金を押し返してきっぱりと言った。
「こいつは受け取れねえ」
男としての意地なのだろうが、おとみにも吉原芸者の矜持というものがある。
「一度出したものを引っ込められるかい。富本いつとみに恥をかかせるんじゃないよ。いいから取っておおき」
きつい口調で言い捨て、おとみは戸口に向かった。枕元に置いてあった乱れ箱を蹴ってしまったようだが、振り返りはしなかった。
一人で出合茶屋を出、不忍池にかかる弁財天の参道を、山下の方へ歩く。水面を覆い尽くすほどの蓮の葉が、春のぬるい風に揺れていたが、おとみにそれを眺めている余裕などなかった。
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