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母の戦時体験

 8月は否応なく戦争と死を考えさせられる。広島に原爆が落とされた6日、長崎に原爆が落とされた9日、日航ジャンボ機墜落事故のあった12日、終戦記念日の15日、お盆には死者がキュウリやナスに乗って帰って来る。

 今年の8月、母は87歳の誕生日を迎えた。

 毎年、三鷹市の実家で、私と姉とでお祝いをしているのだが、今年は早めに実家に行き、母の戦争体験について話しを聞きこうと思った。
 そう思ったきっかけは小堀たくるさんのnoteだった。

https://note.com/kobotaku/n/n906e6b0ff091

"戦争を知らない我々でも共感・共鳴できる史実は、未来への行動に繋がりやすいと信じている"

 市井に生きた人間の個人的な体験を書き残す事にも意義があると、小堀さんに気付かされた。
 よし、私も書いてみようと、先ずは母のインタビューだと、ヨドバシカメラ吉祥寺店にICレコーダーを買いに行った。


 と、ここまではいいのだが。

 母へのインタビューを前にして愕然とした。私は母方の祖父母の名前をすっかり忘れていたのだ。何度も遊びに行って、ずいぶんと可愛がってもらっていたのに、名前をすっかり忘れていた。もちろん5人兄姉の叔父叔母の名前もだ。

 母の戦争体験とは母の家族史でもある。なのに、母の家族、つまり私の近しい親戚の名前を聞くところから始めなければいけないのだ。
 ホント、親不孝な息子でごめんなさい。と思いつつICレコーダーの録音ボタンを押した。

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 昭和9年(1934年)8月21日東京都荒川区尾久町で母絹子は生まれた。

 祖父信次はそこで工員5名ほどの小さな機織りの工場を営んでおり、同じ敷地に家もあった。
 実はこの工場と家は2つ目で、最初の工場は祖母トシと結婚してすぐに同じ荒川区の三河島に建てたが、長女房子が生まれてすぐの大正12年に関東大震災で二つとも失くしていた。
 大震災後、親子3人で本家に居候しながら必死に働き、3年後に尾久町に再び工場と家を持った。
 しかし、祖父母の年代の人の辛抱強さには頭が下がる。

「その当時の人はみんなそうだったのよ」

 辛く苦しい時でも一生懸命働いて家族を守っていたのだ。独身でフワフワ生きている私にはとても真似出来ない。本当に、色々と申し訳ない。

 太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)、母は小学校に入学したが、勉強はあまり好きではなかったらしい。(私は明らかに母の血を受け継いでいる)

 母はひとり遊びが好きで、隣の縫製工場との境にあったコンクリートの段差をテーブルにして、自作のお人形でよく遊んでいた。はぎれをもらい、自動織機の下に潜り込んで綿ぼこりを集め、人形に詰め、人形の布団を作った。お隣の工場の窓からその様子がよく見えていて、女工さん達に可愛がられていたそうだ。

 戦争が始まったばかりのこの頃は、まだのんびりしていたが、一年もたたずに日本軍の敗戦が続くようになり、昭和19年(1944年)に本土空襲が始まると、荒川区は同じ年の6月に学童疎開が始まり、町工場がひしめく尾久町も程なく強制疎開となった。
(荒川区ゆうネットアーカイブより)

 母の疎開先は関所とラーメンで有名な福島県白河市だった。駅前のこぢんまりした旅館で6年生、5年生、4年生を合わせた20名が共同生活を始めた。母は4年生でその中でも1番チビだったそうだ。

 旅館の人も先生たちもみんな優しくてとてもよくしてれたと母は今でも感謝しているが、そこは戦時中である。手紙は検閲される、親との面会も月に1回だけ、自由になる時間もなかった。また、子供達に届く荷物は寮母さんが中を確かめ、食べ物が入っていたら全員で分け合う決まりになっていた。

 ある日、母宛てにも小包が届いた。中身は可愛らしい柄のはぎれがいっぱい詰まったブリキの箱で、お隣の女工さんからお人形遊びが好きな母への贈り物だった。これでお人形さんを作ってね、と手紙に書いてあった。

 ただ、入っていたのは、はぎれだけでなく、箱の蓋と同じくらいの大きさの手作りのべっこう飴も入っていた。決まり通りみんなと分けて、ひとなめで終わったがとても美味しかったそうだ。

 考えてみると、その当時砂糖は貴重品だ。箱の蓋程もある大きなべっこう飴を作るには、女工さんが自分が食べる分を全て使ってくれたのだろうと思う。もしかしたら、女工さんたちで出し合ってくれたのかも知れない。

 早速お礼状を送ったところ、女工さんは「絹ちゃんからお手紙がきたわ!」と、とても喜んでくれたそうだ。

「優しい人もいたけど、意地悪な人もいたね」

 親兄弟から遠く離され、何ヶ月も暮らしているのだ、弱い者イジメで憂さ晴らしをする輩も出て来るだろう。1番チビだった母が標的にされたのは容易に想像がつく。

「ま、そういう時は、色々あらぁな」

 母はそこで声を詰まらせ、目を潤ませた。78年前の事がまるで昨日のことのように蘇っているのだろう。九つの母が大きな子にイジメられている姿を思うと胸が痛んだ。本来ならここでもう一歩踏み込んで具体的に何があったのか聞くべきだったのだろうが、私には出来なかった。

「お母さんは女の子だから、そんな酷い目には合わなかったけど、お父さんは酷くいじめられたのよ」

 父崇(たかし)の疎開先は温泉で有名な群馬県渋川市の伊香保だった。父は学年が1番低い3年生で、しかも1番チビだったので格好のいじめの標的だったのだろう。

「伊香保には嫌な思い出しかないから絶対に行かないって言って、本当に1度も行かなかったのよ」

 父は来月、七回忌を迎えるので具体的ないじめの内容を聞く事は出来ないが、たとえ生きていたとしても聞けなかったと思う。

 なので少しだけ調べてみた。

 疎開先ではどんないじめがあったのだろう。

①食べ物に関する事。ガキ大将が小さな子や弱い子の物を巻き上げる。

②仲間はずれ。冬になるとコタツが用意されたが、いじめられっ子はあたらせてもらえず、部屋の隅で凍えていた。

③布団蒸し。布団を10枚くらい積み上げボスの命令でみんなが上に乗ってあばれる。声が出ないので具合がいい。男子児童の死亡事件もあったが、心臓麻痺による突然死として扱われた。

以上は「語り継ぐ学童疎開(http://www.ne.jp/asahi/gakudosokai/s.y/)より。
引用元は、汐分社「学童疎開の子ども達」・太平出版社「学童集団疎開先」浜館菊雄著。

 いじめられても先生に言ったらもっと酷い仕返しをされる。逃げ場もなく、頼る人もいない。疎開生活の終わりも見えない。そんな環境の中で子供たちが生きて行く事の困難さをどう想像すればいいのだろう。

「お母さんはどこでも楽しむ事が出来たから大丈夫だったわ」

 町工場がひしめく尾久町は軍需工場が多く、確実に空襲の標的になるだろうと、学童疎開が始まるのと同時期に強制疎開が決まった。
 実家の強制疎開先は埼玉県蕨市に決まり、知人宅の12畳の屋根裏部屋に家族7人で暮らす事となった。

 引っ越しは約14キロの道を大八車に家財道具を乗せて歩いた。祖父と長男譲が交代で引き(その当時、叔父は疎開していたはずだが、母の記憶違いか?母より先に帰っていたのか?母に聞いたが答えは無かった)、祖母と2人の叔母(房子と徳子)が後ろから押しながら付いて行った。
あと1日で全ての家財道具を運び終えるところで、家と工場のあった尾久町10丁目が空襲にあった。1945年3月10日の夜、東京大空襲だった。

 マリアナ諸島から飛来した300機余りのB29が約2,000トンの焼夷弾を深夜の東京にばら撒いた。

【荒川区の被害】
死者430人
罹災者61,000人余り
(荒川区ゆうネットアーカイブより)

【東京都の被害】
焼失家屋約27万戸
死者83,793人
負傷者4,0918人
罹災者約100万人
(コトバンクより、引用元は、小学館 日本大百科全書 ニッポニカ)

 その夜、祖父信次、祖母トシ、長女房子、次女徳子、四女栄子は蕨市に、長男譲は蕨市もしくは疎開先に、三女絹子(母)は疎開先にいたので家族全員無事だった。東京が焼け野原になっても、家族7人全員無事だったのは運がよかったと母は言う。しかし、家と工場をまた失ってしまった。

 蕨市への引っ越しが落ち着いた4月、母は学童疎開から引き揚げる事になった。
 白河での11ヶ月間は、母にとってどれほど辛い親兄弟と離れて

「お母さんが迎えに来てくれたの!」

いつもは「小金井のばっちゃん」と呼んでいた祖母を、母が「お母さん」と呼んだのを私はこの時、初めて聞いた。母の戦時は祖母が迎えに来た日に終わったのだろう。たとえ世間が戦時中だったとしても。

 程なくして日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終わった。

 祖父は戦後、今の小金井市に三度目となる工場と家を建てた。母はそこで父と結婚し三鷹に嫁入りする27歳まで、家族7人と工場の工員達と賑やかに暮らした。

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 その時代の最新のメディアに記録されたものが歴史をつくると考えています。

 今の時代ならSNSで発信する事に意義があると思います。特に個人が発信者となれるインターネットでは、マスメディアには載らない市井の人々の記録を大量に発信できると同時にデジタルデータとして残せます。

 そして、太平洋戦争を生き抜いた個人の記録を残すために残された時間はあと僅かです。

 これが、私が(こんな拙い文でも)母の戦争体験を発信した理由です。

 改めて、小堀たくるさん、ありがとうございます。

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