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熱のはなし:俳句

自分なりのnoteの使い方が分かった。
ちゃんと日記をかけばいいんだ。
詩歌をぶち込むから偉そうになるし暗くなる。
基本的に自分の全部が信用できない。

最近の自分の生活は本当に酷くて、仕事もプライベートも宙に浮かせてしまっている。
すべてのひとに、すべてのことを「とりあえず好きそうなフリ」で楽に済まそうとしている。
ひと昔前に言われた「空気を読みすぎる性格」とは違う、もっと利己的で、もっと潜在的で、まだラベリングされていないタイプのクズが生まれてしまったんだとしたら、大変なことかもしれない。器用貧乏の劣化版。
弛んだ頭で推測するに、生きることに慣れてきたんじゃないか。
あるいは、もうこれ以上傷つきたくないからと防衛機制を張っているのか。
生きることに対して、何も感じない老人のような態度でいようと努めているんじゃないか。それは、無理だろ。ダメだ。そもそも老人を舐めているのかもしれない。最悪だ。
脂汗がじわっと滲む。

自分の”熱”について考えるのは大切だと思う。

最近は俳句が好きで、でもそれは俳句自体が好きというより、自分のことを気にかけてくれる俳句好きな先輩に出会ったから、その人のような熱を自分も持ちたい、と思っている。
たかだか17文字に命と時間を賭していくことに何の意味があるのか、考えている。
何冊か句集を読んでみたところ、自分が良いなと思う歌人・俳人は、大体不治の病に侵されていて、既婚歴があり、それでいて孤独に死んでいく人だった。それは自分の趣味に合うからという理由ではなくて、昔はそういう人がほんとに多かったからだと思う。

自分の弱い身体を強制的に外側から見つめざるを得ず、愛情というものに近づき難い性質を持っている、”生きにくい”という欠陥を自覚している人が、どんな状況でも続けられる仕事と言えば、書くことだったんだと思う。

今日届いた句集から3つ書き留めておく。

魂きはるいのちのかぎり夏痩せて

勾玉のみどり恋しきなづな粥

毛虫焼く少年の性目醒めつつ

野見山朱鳥「定本 幻日」

1句目は生命・身体の生活を、2句目は装飾品と食事を、3句目は生と死を包括する、性について踏み込んでいる。
特に3句目は、何かを虐めるときに生じる、重たい泥が沸き立つような残虐さを”性”というジャンルにざくっと分類している。もしかしたらフロイト心理学の本を読んでいたのかもしれないけど、それでも俳句に落とし込む観察力はちょっとえぐいし、またそれを俳句にしたことには意味があると思う。自にも他にも寄りすぎていない、あるいは誰にも、どこにも寄る術をもっていないまま、たったひとつの孤独な魂だけが存在している感じがするんですけど皆さんはどうですか?

確かなものが何もないから、目の前を通り過ぎていく風景に眼から突っ込んでいって観察し、17字まで磨き抜いて、そうして残ったものの中に、”私”を発見するのを楽しんでいる節がある。
それはエッセンスの抽出という観点から言えば錬金術だし、ニコニコやYoutuberの「やってみた」思想ともあまり違わないのかもしれない。

こんな結論になっちゃっていいのかな。
いいんだ、日記だから。




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