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小説『あなたに最高の空の旅を』

腹の底にエンジン音が響く。
日本の空の玄関「羽田空港」、本日の天気は雲一つない快晴――絶好のフライト日和だ。
「ついに、この日が来たか……」
 太陽に笑いかけるように上昇する鉄の鳥。
操縦する同僚に心の中で敬礼しながら、口元に微笑を湛える。あと一時間もすれば私も同じ場所へと赴くのだろう。
 ずっと待ち望んだ、憧れを乗せて――
「もうすぐだよ……親父」

 空に憧れを最初に抱いたのはもう随分と前のことだが、それでも憧れたきっかけを忘れたことは一度もなかった。
 操縦士だった父に連れられ、乗せてもらった飛行機の景色。それが原点だ。
 窓越しに見たどこまでも続く青い砂漠。機体の壁越しに流れる気流の音でさえ、当時の私にはどんな歌よりも新鮮に聞こえた。
『どうだ、悟。空は綺麗だろう』
 その言葉に私はすぐに頷いた。
本当に心の底から美しいと思ったからだ。
 この瞬間にはもう、空の美しさに魅了されていたんだと思う。
 それから私は父が家に帰ってくる度にしつこく話をせがんだ。
 父は疲れているにもかかわらず、そんなことはおくびにも出さずに話してくれた。
空のこと、飛行機のこと、パイロットのこと……そのどれもが、幼い私には何物にも代えがたい宝物だった。

 ――あの日までは。

 父が目の病を患ったと聞いたのは、私が中学校二年生になったばかりの頃だった。
 病名は裂孔(れっこう)原性(げんせい)網膜(もうまく)剥離(はくり)。眼球の内側にある網膜が剥がれることで極端に視力が低下する難病だ。
 手術することで何とか失明するという最悪の事態は防げたものの、それでも父のパイロット生命を絶つのには十分すぎた。
『すまない悟……俺は、空は飛べない。いや、もう見たくないんだ』
 けど、私が本当に悲しかったのは病のことじゃない。
 あれだけ大好きだった空のことを怖がるようになった父の姿が、本当は一番見たくなかったんだ。
 だから、私は気が付けば口にしていた。
『俺がお父さんを空に連れてってやるよ』
 ……だから、その時は絶対に、
 ……もう空が怖いなんて、言うなよな。
 あの時の父の驚いた顔は今なお、頭に焼き付いて離れない。

 それから月日は流れ現在――
あの頃の若さはもう、とっくに失くしてしまったけれど、その代わりに私が得たものがある。
「悟機長、そろそろフライトの準備を始めます。……何か、考え事をされていたのですか?」
「ああ……いや、なんでもないよ」
「ふふっ、期待の若手機長でもファーストフライトは緊張するんですね」
「当たり前さ。むしろ今までに緊張したことのないフライトの方が珍しいよ……だけど、まあ確かに。今日は少しだけ特別かな」
 言いながらチラリと私は乗客者の列に目を向ける。だが、そこに一番いてほしい人の姿を認められず、機体から伸びる影に視線を落とした。……焦ってもしょうがない。チケットは送ったのだから、あとは来るのを待つだけだ、と。
 今日は私が機長として操縦桿を握る初めての日だ。
 航空士養成学校に入ってから一五年。思えば随分と長い道を歩んできたものだ。
 それもあと少しで報われる。
 しかしそう思ったのも束の間。いつの間にか離陸時間はあと少しまで迫っていた。
「もう来てもおかしくない時間だが……」
 冷静さを装いながらも、刻一刻と近づいてくる期限に焦りは徐々に大きくなっていく。
 ……もしかしたら父はまだ空の恐怖に囚われているのかもしれない。
そんな不安が胸の奥から込み上げきたときだった。

「すまんな、悟。遅くなった」

 ずっと……ずっと聞きたい声が後ろから聞こえてきた。途端に景色が滲みだす。
 ……ああ、この瞬間をどんなに待ち望んだことか。
 震える唇から紡ぎだす。何度も、何度も繰り返してきたこの言葉を。
 誰よりも伝えたかった人に。
「――あなたに最高の空の旅を」

〈完〉

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