小説　『囚人』

　鉄格子の隙間から雲一つない青空が顔を覗かせる。
　少し手を伸ばせば届きそうに見えながら、実際の距離以上にずっと遠い場所にあるその光景を前に、俺は溜息を吐かずにはいられなかった。
「……まったく、どうしてこうなっちまったんだか」
　狭い独房のなかに虚しく木霊する。伸びた髭に自分の生暖かい吐息が絡みついた。
　今から約一か月前。その頃の俺は、まだ自由の身の上だった。
　好きなものは魚と女。どこにでもいる、典型的なただのダメおやじさ。
どこかに定住することもなく、のらりくらりとその日暮らし。怠惰ながらも悠々自適な生活が俺は大好きだった。
　だが、そんな俺も今ではこの有様だ。
　どこでなにを間違えちまったのか――そんな益体のない考えばかりが頭をよぎる。
　……けどもうやり直せないんだ。あれを味わっちまったからには。
「何やってんだよ、俺は一体……」
　実を言うと、俺がこうして檻の中に入ったのもこれが初めてのことじゃない。
　すでに三回。この薄暗く狭っ苦しい檻の中は経験済みだったりする。
　最初の頃は脱獄も簡単だったが、それが一回、二回と重なるごとに徐々に俺を取り囲む警備は厳重さを増していった。どうやら、俺が脱獄の名人だと向こうも理解したらしい。犯した罪に反して、不釣り合いなほど堅牢な檻はそのためだ。
　さしもの俺でも今回ばかりは厳しいかもしれない。
　とはいえ自由を諦めた訳ではないが。
　そう思案している俺の耳に、ガチャリと扉の開く音が届いた。
「今回はよく逃げなかったわね、あなた」
「……そりゃあ、こんな厳重ならな」
　鉄柵越しにキツイ吊り目の女が、俺を見下ろす。地べたに座っている俺を見下ろすその顔には満足げな表情が浮かんでいた。
「お腹空いたでしょう？　ほら、今日の分」
　そう言うと彼女は、檻の下側に備え付けられた食事入れに朝食のトレーを乗せる。
　以前は檻の扉を開けて渡していたが、俺がその隙に逃げて以来、食事の受け渡しはこの方法を取るようになった。あの時はまさか、再びこの場所に戻ってくるなんて考えもしなかったが。
　見慣れた乾いた飯と水が差しだされる。
　けれどそれには手を付けずに、俺は鼻をスンと鳴らした。
「意地なんて張らずに食べればいいのに」　
「はっ。悪いが、そうはいかねぇよ。こっちにはこっちの考えがあるんでな」
安易に手を出せば相手に屈服したことになる。それはプライドが許さない。
　幼い頃から俺は「自由」という一点だけはどんな時でも貫き通して生きてきた。
　かつて身を置いていた組織の中でも、トップとの対立や小競り合いを起こした回数は数えきれないほどになる。そんな俺が一番嫌いなのは権力にひれ伏すことだった。
　たとえそのせいで食い扶持を失おうが、住処を終われようが、それでも自由だけは奪わせないで生きてきた。
　そんな俺の在り方はここでも変えるつもりはない。
鴉の羽を溶かして塗ったような目元を瞬かせ、女が視線を寄越す。それを睨み返しながら俺は、のそりと立ち上がった。従うつもりはないという意思表示として。
　すると突然彼女は、ふっと口元を歪ませた。
「へぇ、そういう態度を取るんだ。大人しく、受け入れればいいのに」
「そんなのは死んでも御免だね」
「じゃあ、これならどうする？」
「！」
　彼女の手元に視線が意思と反して縫い付けられる。　
　それは、俺にとって禁忌にも近いものだった。
「お、前……それ」
　無意識に喉がゴクリと鳴る。生唾を飲み込んだ音が二人の間の静寂に小さく響く。
　彼女が手に持つもの。それこそが俺がこんな檻に入れられた元凶に他ならない。
　……あぁ、そうだ。これのせいだ。これのせいで俺はおかしくなっちまったんだ！
　そう、あれは雨上がりの日のことだった。
　最初に彼女と出会ったあの時。俺は気まぐれに彼女に与えられたそれに狂わされてしまったんだ。
　一度あれを味わってしまえば後には戻れない。自由を愛していた俺が囚われてしまうほどの依存性。……いつだったか、かつての知り合いに言われた言葉が今になって頭を過る。曰く、『あれは悪魔の贈り物だ』と。
　もう俺の体はあれなしでは生きていけないだろう。
「これが欲しいでしょ？　なら素直になりなさい」
「ふ、ふん。誰がそんな要求に従ってやるもんか」
「ふふっ、強情ね。でも――これでもまだ同じことが言えるかしら？」
「ぐっ！」
　わざと誘うように、女はトレーを引き抜き、変わりにあれを俺の前に近づけていく。逃げなくては。そう思いはするものの、体の自由は一切効かない。
　そしてとうとう目の前に差し出されたそれを前にして、
――俺の理性は吹き飛んだ。

「にゃ～～～～ん！」
「ふふふっ！　いい子ね。そうよ、ただでさえあなたは小食なんだから、今は少しでも栄養をつけないとね」
「ふにゃにゃ～～ん！！　ゴロゴロゴロ！！」
　恥も外部もすべて脱ぎ捨てた――そんな猫の鳴き声が部屋のなかに響く。
　それまでの素っ気ない態度が嘘のように猫は女に擦りついてきた。
　まあ正確には、彼女の持つ猫用高級おやつに、だが。
女はその隙にそっと虎柄の体毛に指を這わせた。
「まったく、もう……これを食べさせてるときだけしか触らせてくれないんだから、現金な子よね。本当に」
　漏れ出た苦言とは裏腹に、女の表情はとても嬉しそうだった。
　よほど気に入ったのだろう。虎柄の猫はおやつの袋に顔を突っ込むような勢いで何度も舌で舐めとろうとする。
そんな姿に女は再び微笑みながら、アイシャドーを引いた目を細めて呟いた。
「案外、あなたにはこれが麻薬のように見えるのかしら？　ふふふっ」
　ふと、部屋の片隅に置いていたおやつのパッケージが目端に映る。
　そこには「猫が病みつきになるおやつ！　『悪魔の贈り物』」と書かれていた。
名前に興味を惹かれ、適当に買った代物だが、どうやらその効力は本物のようだ。
「この謳い文句が本当なら、これでキミはどこにも逃げられないわね。なんたって、悪魔の贈り物だもの……どこに逃げても、絶対にキミはこの味を忘れられない」
　口元を吊り上げて女が笑う。まるで悪魔みたいな、そんな笑顔で。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　〈了〉