「Moira」を例示して読み解くStoryConcertの意義 神の所在について

序論

 文部科学省検定済教科用図書「中学の音楽 上」にはこのような記載がある。
 
「観客が用意した静寂という真っ白なキャンバスに演奏してはじめて、音楽は本来の鮮やかな色彩でもって奏でられるのだ」
 
 観客もまた楽器である。無音が流れている空間を観客が作ることによって、音楽は精彩を極めるという指摘だ。加えて、コンサートホールも同様楽器としての役割を持つ。反射板等を用いてホール内の吸音、拡散率を調整し、ホールに合わせたエコーの持続時間を演出する音響設計は、空間を良く鳴らす為の技術である。指揮者がフェルマータの扱いに気を配るようにホールの余韻を加味して音楽が制作されるのであれば、ホールもまた楽器である。ヴァイオリンが弦だけで構成されずボディの空洞で反響し音に豊かさをもたらすように、ホールも楽器のうちとして設計される。
以上をふまえるならば音楽の中には楽器、聴衆、空間の、少なくとも三つの楽器が入れ子になっている。息を詰めて見入ったり、衣擦れに気後れしながら体勢を変えたりするとき、観客は静寂を演奏する楽器として音楽の中に内包されている。これがリサイタル中に浸る全能感や浮遊感の源泉であろうか。宗教的恍惚が神との交合を媒介にするように、楽器としての役割が無形の芸術と肉体を妙妙たる快感へ引き合わせるのならば、自己と他者とをフラクタルの如く繋ぎあわされてしまう状況は 強い感動を誘発することができる。
すなわち、作者が能動的に観客(自己)と作品(他者)を繋ぎ合わせようと設計する観客参加型の音楽劇は、入れ子になった三つの楽器同様、第四の壁を破壊し観客を物語の中に引きずり込むことで大きな魅力を生み出すのではないだろうか。Sound Horizon (以下SH)のコンサートも参加型の歌劇としての演出を大いに盛り込んでいる。SHは団体名であり、主宰である音楽家Revoがこれを運営し、楽曲の執筆、舞台監督を担当している。ここで一度彼の言葉を借りたい。
 
 (【もし音楽家でなければ自分は何をしていたか】という質問に対して)「(前略) …今までの人生の全てを忘れて子供に戻ったとしても、それを覚えていなければ意味がない。子供に『戻った』という事実に気づかないとただその人生を過ごしただけになってしまう。それを俯瞰する…自分が覚えているだとか、誰かが見てるとか…その(第三者の)視点がないと意味がない。そして、誰かが見てくれているとしても子供へ戻った自分がその事を認知していないと、やはり主観的には意味がない」
 
 これは本稿で展開される主張の大きな手がかりと言える。Revo氏は参加型歌劇としての演出を繰り返し構成しているが、この発言は、彼自身の人生観や現実の捉え方と同様に、彼の作品が提示する物語の中に紋中紋の形が組み込まれていることを示しているともいえる。自らの存在も枠物語の人物のように考えている氏の観点は、これから展開する本稿のテーマと選出した題材に深く関わっていく。
 前置きが長くなったが、ここではMoiraが持つ参加型歌劇としての紋中紋の効能と、SHが催す音楽劇「Story Concert」に参加する意義について語りたい。
 
 

第一章 Moriaの概要

 Revo氏が主催となって公演したMoiraのStory Concertは、同名のタイトルでCDに収録された十五曲と幕間劇、アドリブで行われるインテルメーディオによる。この物語は、ロシアの富豪《ズヴォリンスキー》が私財を投じて古代石版を発掘したところから始まる。暗唱詩人《ミロス》が記した叙事詩エレフセイアが石版から読み解かれ、シナリオは叙事詩エレフセイアの中に入り込んでいくというあらすじだ.。物語の中には現存のギリシャ神話に登場する神や人物の名前があり、叙事詩を観る近代ロシアの登場人物たちにもモデルがいることが推察されるが、あくまでもMoiraは創作されたフィクションであり、実際の歴史考証とは異なる。
 まず整理すべきは、Moiraの中に二つの世界があるという点だ。一つは叙事詩エレフセイアに記された、神やその眷属となる人間が華々しく人生を謳歌する古代ギリシャ様式の世界。もう一つはエレフセイアを作中劇として内包した、エレフセイアを解読し《ミロス》の著作を再発見する近代ロシアの世界だ。「Moira」は作中で運命、また運命の女神の呼称を意味する。《Moira》と呼ばれる運命の女神が登場するエレフセイアは、その表題を冠する青年《エレフセウス》と、彼を取り巻く周囲の人物たちの生涯を綴り、様々な人物が《Moira》に翻弄されながらも抗う様を語ることで、詩人の《ミロス》が「運命は残酷だが怖れるな、《Moira》が戦わぬものに微笑むことは決してない」と綴る形をとる。
 Moiraのテーマはその名のとおり《Moira》、運命についてである。エレフセイアを作者不詳の寝物語として聞かされていた《ズヴォリンスキー》は、母の形見であるこの逸話集がフィクションではなく歴史に準拠したものであると信じ、ギリシャの地へ証拠の発掘に向かう。《ズヴォリンスキー》のモチベーションを保ち続けたのが、形見の逸話集(=エレフセイア)に記された《ミロス》の言葉であった。
叙事詩を掘り当てた《ズヴォリンスキー》の半生を支配するいわば座右の銘と、作中劇であるエレフセイアの群像劇を繋げるテーマが同一であることによって、二つの世界はMoiraという一つの物語として分離することなく流れていく。そして《ミロス》が世界情勢を活躍する同時代の人々を、女神《Moira》が見守るという視点で叙事詩に書き起こす情景が、《ズヴォリンスキー》による翻訳著が発刊されることへの布石となり、近代ロシアでの歴史観や考古学、歴史学的研究を逸脱した《ズヴォリンスキー》の執筆活動によって、《ミロス》が目まぐるしく変動する世界情勢を記す姿が《ズヴォリンスキー》と重なる構図となっている。
 
 
 

第二章 フラクタル

 序論で筆者は「観客を物語に引きずり込む紋中紋」と述べた。第一章でまとめたMoira本編の中には幻想の古代ギリシャで登場人物たちを俯瞰する女神《Moira》がおり、この視線を客観的に捉え叙事詩に書き記す詩人《ミロス》、さらにその《ミロス》が叙事詩を書き記すさまを俯瞰して見る再発見者《ズヴォリンスキー》がいる。入れ子構造の中には聴衆、観客が入り込む隙間はない。ここには第四の壁が存在しており、観客とは無意識のうちに舞台の上で起こる出来事と観客席を全くの不干渉だと認識している。
 ここでSHの参加型歌劇としての演出が活きてくる。作品と観客の間に存在する第四の壁という暗黙の了解を、SHのコンサートでは常習的に破る。客席へレスポンスを求められることもその一貫だが、加えてMoiraが公演された当時、観客の物語への理解を深める為の特設サイトがあった(現在はRevo氏のレーベル移籍に伴いウェブページが消失)。CDの発売と同時期に併設されるウェブサイトはSHの参加型歌劇の特筆すべき点だろう。このウェブページでは、サイト閲覧者を《Arthur Michel Renfrew(以下レンフリュー)》と仮名し、黒一面のウェブページ上を古い書庫、マウスカーソルをランタン或いはペンライトに見立てて「英国の歴史学者《レンフリュー》がロシア人による歴史学書を継承したシーン」を体験できる。カーソルを移動させることで明かりによる可読域が変動し、黒いウェブページの中に光で照らすと見える文面があることが閲覧者に認知される。
この特設サイトで閲覧者ができる事はマウスカーソルを動かすこと、つまり《レンフリュー》が再発見した石碑と、歴史学書に挟まれた著者《ズヴォリンスキー》の走り書きを読むことだけだ。そこには《ズヴォリンスキー》の、学者としての後ろ盾や実績がないために学会に受け入れられなかった旨を述べる弱々しい文が残されており、《ズヴォリンスキー》の翻訳した叙事詩エレフセイアが、正当な歴史学者《レンフリュー》の手にわたる瞬間を体験する場となっている。
このサイトの意義は、制作にあたり切り捨てられた物語のお焚き上げにあるわけではなく、Moira曲中の語り部が英語話者であることに意味をもたらすのみでもない。《レンフリュー》の神話継承にサイト閲覧者が能動的に立ち会うことに本領がある。
スピンオフの小品を公開するだけであれば、閲覧者が見やすいよう一般的な表示形式にすれば能率が良いが、前述のとおり特設ページではあえて閲覧者に不便を強いた。可読域を動かすことで僅かずつしか文字を見せない操作性の悪さが、《レンフリュー》が体験した「《ズヴォリンスキー》の書置きを発見」した状況を擬似的に作り出し、また《ズヴォリンスキー》が「《ミロス》の叙事詩を発掘」した時の、発掘現場特有の視界の悪さを紋中紋的に表現している。《レンフリュー》が体感したであろう暗がりの不便さを追体験することで、閲覧者は《ズヴォリンスキー》が《ミロス》の叙事詩を掘り当てたのと同様に、《レンフリュー》として《ズヴォリンスキー》の著書を探り当てたとより直感的に思えるよう誘導する。
 そして、前述の観客が公演中にアクションを起こすシステムも一枚噛んでくる。Moiraは表題となる女神に見下ろされながら叙事詩の人物たちが活躍する作中劇を内包する。Moira公演において観客が要求されるのはこの女神《Moira》として英雄や他の神々に讃歌を送ることであり、時に神の眷属に鼓舞された戦士として戦に臨む雄叫びを上げることである。《Moira》が叙事詩の中の人物たちを見守っているという前提はただ上演される物語を眺めるだけでは忘れがちになるが、参加型の形を取ることで、作者が意図する物語上の立ち位置を観客に理解させる機会を設けている。
叙事詩エレフセイアは、《Moira》が古代ギリシャに生きる人々を見下ろしているという筋書きの詩である。観客は《Moira》として演劇に参加し、英雄たちを自らが注視し、また《Moira》に注視され、再発見者《ズヴォリンスキー》に観測されてもいるという状態を疑似体験する。
 
 
 

第三章  ウロボロス

 女神《Moira》を基軸に外側を覆う事象ばかり述べてしまったので、ここからは《Moira》から物語の内側へ向かう紋中紋の話も補足しておこう。
 Moiraがギリシャ神話からオマージュ的に発展した歌劇であることは先にも述べたが、Moiraの登場人物はギリシャ神話の神々や英雄の名前を戴いていることが多い。盲目の巫女《アルテミシア》も、アルテミスからなぞらえられていると捉えて差し支えないだろう。シナリオ上で《アルテミシア》と《Moira》は同一である可能性が示されている。演目中に設置される白い玉座は、我々が触れる宗教説話では概ね創造神の座るものだ。キリスト教では地上の万物を創造したイエスの椅子であり、ギリシャ神話では救世主ゼウスのもの(広義にはディオニュソス、ヘカテーらもこれに座る)、ことMoiraの中では「万物の母たる創造主」の名をほしいままにする絶対神《Moira》の座る場所である。コンサートでは空席だったこの座にDVDでは《アルテミシア》役の女性が鎮座した。
 《アルテミシア》は《Moira》と直接の繋がりが判然としないものの、この演出で二人が無関係ではないことの傍証を得ている。まずは作者であるRevo氏が作り出したこの二人のキャラクターについて、内実を検める。
 Moiraの導入で語られる糸というモチーフは、《Moira》のアトリビュートであり、《Moira》の名前の祖となったギリシャ神話の女神モイライのアトリビュートでもある。モイライが糸を紡ぎ、糸の状態のまま人に切り与えるのに対し、《Moira》の糸は「縦糸」と「横糸」という表現で「織られた状態」を想起させる。縦糸と横糸の交わっている状態こそが《Moira》を表すとすれば、モイライと異なる《Moira》の特性が「織られた状態」で示されていると考えられる。
このうち《Moira》がもつ万物の創造主としての役割は、本来のギリシャ神話の中では夫婦となった二柱の神が司っていた。「時を運ぶ縦糸」は父神クロノス、「命を紡ぐ横糸」は大地を司る女神、ゲーらを表すと捉えると、父神と母神が習合された状態と《Moira》が一柱で万物の創造を司る点を結ぶことができる。ギリシャの最高神クロノスは元来農耕の神であったが、ローマに渡った神話は時間の神としてのクロノスを混同し、同一視された時期が長い。
これに焦点を当てたRevo氏の思惑には、《レンフリュー》と同じく英国出身の学者、ジェームズ・フレイザーの存在が透けて見える。フレイザーが広範囲から民族信仰を採集し、一つの神話として統合を試みたように、《レンフリュー》によってあらゆる創造神、母神が同一視される様が描かれた結果、《Moira》という女神が誕生した。
フレイザーによれば、ゲー、モイライ、アルテミスら生にまつわる女神は全て同じルーツを持つ地母神である。現存の神話に登場する処女神アルテミスと運命の女神モイライは、共に出産の神エイレイテュイアと同一視されたことも事実である。出産、豊穣、太陽や季節の周期に関わる女神がその土地土地で分化し、母なる神として崇められた背景を踏まえると、《Moira》を表す「母なる創造主」の記述がフレイザーの説く地母神という大きなカテゴライズと親和性をもってくる。
また、《Moira》が人の命の期限を定めて死も掌握する点には、地母神の中でもデメテルとその娘たちが近似している。例えば娘の一人ヘカテーは生と死の両方を司る女神だが、これは狩猟と出産の女神アルテミスや豊穣と死の女神ペルセポネと同一視され、三面一体、モイライがMoiraにおいて《Moira》という一柱の女神に統合されたのと酷似する。時に娘(コレー)とも呼ばれるペルセポネが、老婆に身をやつした母デメテルと習合され豊穣を司るように、少女、母、老婆の三面を持つのは《Moira》もヘカテーも記されたところである。名前は起源をヘカトス(陽光)にもちながら、女神ヘカテー自身は月と冥界の象徴でもあり、地母神の性質と冥界の女王としての身分を並行させるペルセポネと同様、《Moira》もヘカテーも生と死の両方を司る。後世ローマで与えられた「十字のヘカテー神」という呼び名には前述した縦糸と横糸の存在が頭をかすめる。
《Moira》と《アルテミシア》のオーバーラップはデメテルのもう一人の娘ペルセポネが冥府の神ハデスに誘拐される物語に基づいている。ペルセポネの誘拐と地上への帰還は冬を廻り春が訪れる地母神信仰だ。彼女の母デメテルも、娘が死と再生の神となったようにエレウシスの地で怒りに身を隠す。デメテルは死と再生の神として岩戸隠れよろしく人の世に冬をもたらした。生と死が輪になって巡る、エレウシスの秘儀の誕生である。《アルテミシア》が経験した神殿娼婦のヒエロス・ガモスはこれに通じ、《アルテミシア》が神への供物として死んだ後女神として再臨するMoiraの物語のルーツが見受けられる。
以上の通り、シンクレティズムに準拠して《Moira》を包むベールを一枚ずつ暴いていくと、一つ一つでは確証に欠ける《Moira》と《アルテミシア》の関係が、少しずつ密接に絡み合ってくる。《Moira》と《アルテミシア》が幾つかの意図で繋がるように、《Moira》の眼を借りる観客が《アルテミシア》ともシンクレティズムを持つ可能性を示していくために、以下Story Concertに参加する観客についても整理する。
 SH、ないしRevoのファンやそのコンサート来場者は度々「臣民」と表現される。この表現の起こりは観客参加型の企画として、公演終了後に観客が歌う「国歌」と銘打たれた曲が公表されたことにある。「国歌」の中で、それを歌う者は皆同じ場所に居合わせ共通の時を過ごしたが故に同一の民族「臣民」である、と表現される。
 この「臣民」という言葉に対して、漢文学者白川静氏の言葉に以下のようなものがある。
 
「〈見る〉ことは、神を見ること、見えざるものを見ることであり、支配者にとって、極めて神聖な行為だった。従って、呪力の源である神に従うものは、神の呪力を乱す視力があってはならず、神の領袖を意味する『臣民』の〈民〉は目を針で突く形で表された。」
 
「臣民」を分解して漢字一つひとつの成り立ちを解きほぐすと〈臣〉は『はっきりと目をひらく』象形であり、〈民〉は「目に針を刺されている」象形である。目に針を刺す行為は春琴紗でお馴染みのとおり視力を失うための手段の一つだ。《アルテミシア》は身体的に盲目でありながら神がかった力で未来を見る、正に「臣民」である。そして「臣民」はRevo氏が自らのファンに与えた渾名の一つであり、彼らは公演中《Moira》の視点を以て《アルテミシア》の生き様を「見」ている。観客と神と演者が蜷局を巻いて繋がる。
 
 
 

第四章  紋中紋の巧妙

 ともあれ、歌劇Moiraが観客を物語に巻き込み、観客に物語の登場人物であるという認識を飲み込ませる手法はご理解いただけただろうか。この章では、第二章で論じたシステムが観客にどのような効果をもたらすかについて考察する。
 前述のとおり、SHの歌劇は観客に登場人物としての役割を与え能動的に演じさせることで、観客に登場人物としての自覚を刷り込ませる。Moiraの物語の中で観客は《Moira》や《レンフリュー》等の身に起こった出来事を追体験する。《Moira》は神として英雄たちを俯瞰して見守る反面、神話の中の登場人物として《ミロス》という叙事詩の作者から絶対的な位置で以て俯瞰されている。叙事詩における《ミロス》の立ち位置は、叙事詩の中に物語の一部として存在せず、物語の外側の語り部として存在する。
物語の本筋に直接的な関係が薄い立ち位置から、干渉することなく物語を俯瞰する《ミロス》のこのような視点は、文学の作法でいわれる神の視点そのものである。《Moira》が英雄たちのあらゆる運命を司った叙事詩上の神として、すべてを見渡す神の視点を持っていたように、叙事詩を紡ぐ作者《ミロス》もまた「《Moira》が世界を見守った物語」を神の視点から観測する。観客たちが演じた《Moira》という存在は、神の視点を持つものでありながら神の視点によって観測される者でもあるのだ。
《レンフリュー》の場合も類似した構造を持つ。《レンフリュー》は舞台の上に姿を現さず、インターネット上の特設ページで名前が公表されただけの、観客のうつしみで、《レンフリュー》を俯瞰する存在はMoiraのシナリオに明示されていない。
ここで序論で引用したRevo氏の発言を振り返る。彼は「自分自身が俯瞰されている状況を理解できない前提であるのならば、俯瞰される状況で自分がどうなっているかを想像する意味はない」と主張することで、「自らが俯瞰されている状況を想像・意識している」状態を聴衆に投げかけた。可能性やifの空想をするとき、空想する人間は神の視点をもっており、空想によって俯瞰する対象が自分である場合、そこには必ず神の視点から観測される自己が同時発生する。
実在する人間である観客たちも、RevoというMoiraを執筆した音楽家でさえも、どこかから注がれる神の視点から観測された架空の物語の登場人物であるかもしれず、そうでないと断言できる保証はどこにもないということだ。デカルトが省察にて論じた世界の全てが夢である説と類似する。(あるいはMoiraスピンオフ作品として、《レンフリュー》が《ズヴォリンスキー》の著書を発見するまでを俯瞰しているのだから、《レンフリュー》を神の視点からみるものは作家のRevoだともすることも可能だが、そのRevo氏をまた神の視点から見るものについて考察すればいずれ同じ場所に行き着くので省略する。)
Moiraの物語の中で入れ子状になった神の視点を作り出し、参加型歌劇の手法によって物語の中に観客を入れ子の中に引き込む事で、観客に現実世界もまた一つの創作物であるという可能性を認識させる。
神の視点の連鎖がマトリョーシカのような紋中紋の構図を生み出した結果、俯瞰と被俯瞰が観客の立場の中に並列したことで、舞台と観客席の間にあるはずの第四の壁の存在は曖昧になり、観客は一方的に観劇するだけではなくなにがしかの物語の中に内包されている事を端倪する。
 上演される音楽が、観客に聴衆としての役割のほかに楽器としての役割を負わせることで空間を掌握していたように、Moiraは古代という馴染みのない物語の中に観客を引きずり込むことで、物語の中の登場人物でへの感情移入を手助けしている。
 
 
 

終章

 Moiraで用いられた神の所在を繋ぐ紋中紋構造は、作中の登場人物と同じ「別世界・別個体への意識の没入」を擬似的に体感させることによって、作中人物への感情移入を円滑にする役割をもつ。また、序盤に登場するキャラクターであるズヴォリンスキーが叙事詩を俯瞰する存在であることと、観客自らもMoiraという音楽劇を通してズヴォリンスキーを俯瞰して観察しているという状況を想像させる。
観客はこの幾重にも用意された俯瞰・被俯瞰の関係を体感することで、Revo氏の人生観である「現実社会を生きる我々もまた、神の視点から俯瞰されている登場人物となりうる」という言説を理解する。この神の視点から見られている自分を意識したとき、舞台で繰り広げられる音楽劇は第四の壁に阻まれた絵空事から、リアリティを持ったifの世界として観客の中で昇華させられる。
物語を魅力的に思う心とは即ち感受性の豊かさであり、感受性の豊かさとはどれだけ物語を深く理解しようと努められるかにある。観客に音楽内の物語をより深く共感してもらう為のこの手法は、観客を登場人物にすげ替えることで観客の感受性をなかば強制的に豊かにさせる。作品の中の紋中紋に観客を引きずり込む手法は、観客をより作品の世界に潜り込ませるため、観客により大きな感動を得てもらうために効果的だと言えるだろう。
 リサイタルにおいて観客が楽器として音楽の中に組み込まれた時、度々音楽やそれが響く空間に「浸る」感覚を味わう。その浸っている状態はステージの上から押し寄せる音楽たちと一体になっている状態であり、神の視点…大きな第三者から見られているという自覚と自らが神の視点となる自覚…によって、第四の壁が打ち壊されている状態だ。
Moiraは物語と観客の人生が入れ子のように繋がり、観客は音楽劇と自己との相似性を感じることで、より一層の共感とそれによる浄化作用を得られる。

 
参考文献
SoundHorizon 「Moira」 king Record
教育芸術社   「中学生の音楽 1」平成21年度~供給版
FMosaka    「BUZZ ROCK」
Moira特設サイトhttp://cnt.kingrecords.co.jp/soundhorizon/moira/ (跡地)
松田行正    「眼の冒険 デザインの道具箱」  (引用された白川静の言については「白川静氏の諸著作」とのみ記載)
オイディプス  「変身物語」
ヘシオドス   「神統記」
ミルチア・エリアーデ 「世界宗教史2 石器時代からエレウシスの密儀まで(下)」松村一男訳
ジェームズ・フレイザー 神成利男訳、石塚正英監修 「金枝篇‐呪術と宗教の研究」

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