エッセイ「妄そうで鼻くそ」
「そうで鼻くそ」
先日スマホで、「そうではなく」と入力すると、入力候補の一番目にこの言葉が表示された。
そうで鼻くそをバグの二文字で片付けるのがまともな大人だとしたら、私はまともな大人ではない。
私は信号機を、サンバイザーを被った三人組に見立てて、頭の中で会話させるような妄想好きだ。
「暑すぎる。イライラするなあ。おい、イエロー。お前もっと働けよ。」
「八つ当たりしないでよ、ブルーさん。私は短い時間でしか働けないの。そんなことも分からないの?これだから青二才は」
「上手いこと言ったみたいな顔してんじゃねえぞ。俺はブルーじゃない。グリーンだ!」
「どっちでも良いわよ。ねえ?レッドさん」
「そうだね。どっちでも良いんじゃない?」
「レッド、お前いつもイエローの肩を持つよな。もしかしてイエローのことが好きなんじゃないか?おい、顔が真っ赤だぞ。図星か?」
「違うよ、今は赤信号だから顔が赤いだけだよ。イエローさんとはただの友達だよ」
「そうなの?私はレッドさんと友達以上の関係になれると思っていたのに。残念だわ」
「え?」
私は、そうで鼻くそを見た瞬間に表示された理由を妄想し始めていた。
なぜそうで鼻くそが表示されたのだろうか。
スマホの特徴から考えてみよう。そうで鼻くそが表示されたスマホは、家でしか使わない。もう一台のスマホは、外でも使う。
そうか、分かったぞ。このスマホは外で使って欲しかったんだ。
そう考えると辻褄が合う。外で使われないことに拗ねてしまったスマホは、入力候補で暴れ回ることで、ストレスを解消した。その結果そうで鼻くそが生まれた。
何ていじらしいスマホなのだろうか。まるで外で遊びたい、と駄々をこねる子供のようじゃないか。今度外に連れて行ってあげよう。思う存分遊ばせてあげよう。
ここで終わるのも味気ない。そうで鼻くそについても考えてみよう。
名は体を表すという。名前をしっかり声に出して読めば、何か見えてくるはずだ。
そ・う・で・は・な・く・そ。
最後が「くそ」なので耳心地はあまり良くないが、語感には面白みがある。この奇妙な感覚は何だろうか。例えて分かりやすくしてみよう。
ラストは少し残念だが、読後感は良い小説だろうか。それとも、最後に余計な一言を言ってしまうが憎めない友達だろうか。
「誕生日おめでとう。好きそうな服色々探して買ってきたよ。どうせこういう流行っている服が好きなんでしょ?」
余計な一言でも相殺されない優しさを「好きそうな服色々探して」に感じられるところが良い。優しさを隠そうとして零れてしまっているのが愛おしい。そうで鼻くそは憎めない友達にしよう。
そうで鼻くそでまだ遊びたいな。
そうで/鼻くそ。
何となく区切ってみたが、どうしよう。そうで、送電、総出、そうです。そうでから始まる言葉はいくつかある。送電する鼻くそ。
この文章は意味が分からないが、そうで鼻くそは略語なのかもしれない。
用法を考えてみよう。
(一)そうで(早出や惣出などが考えられる)さんの鼻くそが出ていることを指摘するときに、「そうでさん鼻くそが出ていますよ」を省略した形で使う。
(二)鼻をかくふりをして鼻くそをほじっていることを指摘されたときに、「そうです、鼻くそをほじっています」を省略した形で使う。
(三)意見や提案を受け入れると思わせて突っぱねたいときに、「そうですねと言うと思いましたか?鼻くそレベルですよ」を省略した形で使う。
我ながら良い出来だ。辞書に載っていても不思議ではない。載るとしたら、何か問題点はあるだろうか。
私は自問自答した。
(一)は、鼻くそが出ているそうでさんを指摘するという稀な状況が前提になっている。実現することが難しい用法を、辞書に載せる意味はあるのか?
いや、人はオーロラや流れ星といった確率の低い事象を確認できたときに感動する生き物だ。そのため(一)の状況が実現した際には、絶大なる効果を発揮して、周囲の人は感動するに違いない。だから、人を感動させる(一)は辞書に載せるべきだ。
(二)は、想定されている状況が実現しても何も起こらない。辞書に載せる意味はあるのか?
いや、(二)は、指摘された人の落ち着き払った態度と面白みのある語感の組み合わせが笑いを生み、その場を明るくすることが期待できる。
これは、指摘されて「鼻くそをほじっていました。すみません」と返していたときには考えられないことだ。そうで鼻くそは、無味乾燥だった状況に笑いという彩りを加える可能性を持っている。だから、(二)は辞書に載せるべきだ。
(三)は、軋轢が生まれる危険性がある。辞書に載せる意味はあるのか?
今私達は忖度という本来ポジティブな意味の言葉も、ネガティブな意味で使っているような体たらくだ。(三)のような攻撃的な用法を、載せるかどうかは検討する必要がありそうだ。
流石に疲れてきた。今日の妄想はここまでにしておこう。
妄想を満喫した私は、そうで鼻くそに愛着が湧き、入力候補から消せなくなっていた。そうで鼻くそを、一生入力候補の中から消さなくても良いとさえ思っていた。
しかし、そんなそうで鼻くそとの別れの日は突然やってきた。その日、私はそうではなくと入力した後に、入力候補の二番目に表示されている、そうではなくをわざわざタップしてしまった。
嫌な予感がして、もう一度そうではなくと入力すると、入力候補の一番目には、そうではなくが表示された。そこにそうで鼻くそはいなかったのだ。
二番目以降の入力候補も探したが、そうで鼻くそは見つからなかった。
こうして私は、そうで鼻くそをスマホの学習機能によって失ってしまった。いや、自らの指で、そうで鼻くそを消し去ってしまったのだ。
何回かそうで鼻くそと入力すれば、そうで鼻くそと再会することは出来るだろう。しかし、それは養殖のそうで鼻くそだ。そうで鼻くそのドッペルゲンガーだ。私はそうで鼻くそであれば何でも良いわけではない。
楽しい妄想をさせてくれたあのそうで鼻くそに会いたいのだ。
そうで鼻くそを失った時、ほんのちょっぴりだが、悲しかったことを覚えている。その悲しみは、妄想ではなく、私が実際に抱いた感情だった。流石にもう悲しくはないが。
立ち直った私は、入力候補での新たな出会いに期待している。
それは「おはヨウ素」だろうか。それとも「おや隅に置けない」だろうか。いや、私が思い付くような言葉ではないのかもしれない。
早く妄想で一緒に遊びたい。
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