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楠木ともりと優木せつ菜の「大好き」の記録 5,〈『ヤダ!』における執念とキャラクターとの向き合い方〉

 〈『ヤダ!』における「図像」の不在〉

 前回、『CHASE!』では「優木せつ菜ならどうするか」という楠木ともりの考えに基づいた行動の積み重ねによって、「束の間性」という価値が明白に表れることとなったことについて述べた。
 
 それは体に不調をきたし、パフォーマンスが制限されてからも続いていく。それどころか様式を少しずつ変化させながら、進化していく。それが最も顕著に表れたのが虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会4th liveにおける『ヤダ!』のパフォーマンスである。
 優木せつ菜に限らず、4th liveで初披露された各メンバーの新しいソロ曲は、今までの各メンバーの雰囲気とは違った曲となっている。優木せつ菜は今まで、先述した『CHASE!』のような激しく情熱的な曲が多かったが、ここで披露された『ヤダ!』は、優木せつ菜はワガママな妹キャラクターを演じるという設定で、いわゆる萌えに溢れた可愛い曲となっている。
 
 そしてこのライブでのパフォーマンスのもうひとつの特徴が、体現すべき「図像」の不在である。ここで披露された各メンバーの新曲には、いずれもアニメーション映像がないのである。さらに衣装についても、ファン投票によって決めるという形になっており、どの衣装が選ばれたのかはライブ当日までお楽しみということになっていた。つまり、動的な「図像」と静的な「図像」の双方ともに存在しなかったのである。
 今までと違う雰囲気の曲に、「図像」の不在という二つの苦難に、やはり楠木ともりも苦戦したようで、4th live後のインタビューで「今まで作り上げてきたせつ菜のかっこよさ、スクールアイドルとしての圧倒的な存在感のようなものを一度崩して、彼女らしさを失うことなく再構築することが大変でした」と述べている。ではこれに対して楠木ともりはどう対応していったか。それはこの曲が持つ可愛さにとことん傾倒していくことである。
 

 〈表現による「図像」の創造と「可愛い」「萌え」への執念〉

 「図像」の不在に関しては、楠木ともりがパフォーマンスを制限しなければならない中で有利に働いたと言えるだろう。これにより『ヤダ!』ではトロッコに乗る(≒ダンスを披露しない)という選択を無理なく行うことが出来た。さらにウィッグをつけることによって、自身は、普段の凛としたメイクとは異なるナチュラルなメイクで登場するといったことを行っていた。これらにより、楠木ともりの姿=静的な「図像」はより優木せつ菜に近づいていく。
 
 さらにトロッコに乗るということは、より観客の近くに赴くということである。これは『CHASE!』の際に触れた、歌で感情を観客にはっきりと直接届けていくという彼女の魅力をより強化していくことに繋がった。      
 『CHASE!』では届ける感情は、彼女の大好きの気持ちであった。『ヤダ!』においてもそれはもちろん存在するわけだが、より中心に来るのは大好きの気持ちではなく、ワガママな妹キャラクターという設定の下に存在する、「可愛い」「萌え」という感情を届けることである。
 
 そのために楠木ともりはできる限りの身振り手振りを行っていた。サビの「あれもヤダこれもヤダ」というヤダの連呼である歌詞に合わせて両腕で作るバツ印、目の前の観客への指差し、上目遣い、指ハート、その他手の平を頬につけるなど媚びるようなポージング。「可愛い」「萌え」につながるありとあらゆる手段を使っていたように見える。一見しただけでは、これが『CHASE!』においてあの迫力あるパフォーマンスをしていた人と同じであると判別することすら難しい。もはや「可愛い」「萌え」を演じることに対する執念のようなものすら見えてくる。

 それだけ『ヤダ!』のパフォーマンスは「萌え」に溢れた「可愛い」パフォーマンスであった。あの瞬間、楠木ともりは「可愛い」優木せつ菜を体現することに全力をささげていただろう。
 楠木ともりと優木せつ菜の「大好き」の記録 3,表現の模索期間の存在の特異性|此花(このはな)|noteで述べた川村の言葉を借りるなら、この時の彼女は、主客未分の状態になって声優がキャラクターそのものへと変化し、演技やパフォーマンスを超えて生成されている、つまり楠木ともりと優木せつ菜の境界線が曖昧になり、楠木ともりの「現象的肉体」による身振りが優木せつ菜の「記号的身体」の身振りとして、逆に優木せつ菜の「記号的身体」による身振りが楠木ともりの「現象的肉体」の身振りとして、相互影響的に認識される状態にあったということである。

 

〈パフォーマンスの制限と感情を届ける楠木ともりの在り方〉

 こう考えていくと、楠木ともりはライブならではの価値、言い換えればこの場限りの歌を通したパフォーマンスによって、ライブでしか表せない感情を伝えるということに全力をささげることによって、「図像」の不完全さ以上の魅力を放っていたと言えるだろう。これこそが、制限がある中で楠木ともりが様々な表現を模索した結果、彼女がたどり着いたひとつの成功ではなかろうか。
 このような主客未分の状態になって声優がキャラクターそのものとなり、演技やパフォーマンスを超えてキャラクターが生成されている状態においては、楠木ともりの振る舞いが優木せつ菜の振る舞いとしてオーディエンスに受け容れられていくことになる。しかしここで重要なのは、その主客未分の状態を生み出したものは、ライブという空間においてキャラクターを体現して、観客一人一人にキャラクターの感情を届けるという楠木ともりの絶え間ない努力と執念なのだということである。

 この楠木ともりのキャラクターとの向き合い方、そして歌を中心としたパフォーマンスで感情を伝えるという形で、そのキャラクターと向き合った成果をしっかりとオーディエンスに見せていくこと、そして限定的にせざるを得ない身振り手振りの中で、最も優木せつ菜らしいものを選択しオーディエンスに提示したこと。これらが楠木ともりがキャラクターの動的な「図像」を担えなかったとしても多くのファンに受け入れられる状況を作り上げた、楠木ともりの魅力のひとつなのである。
 
 またこのように動的な「図像」が制限される中でキャラクターを体現するための様々なパフォーマンスを行ってきた彼女の軌跡は、声優とキャラクターとの関係性を改めて我々に提示するものなのである。

 
 しかしながら、結果的に楠木ともりは優木せつ菜を降板した。次章では、なぜ降板という結末に至ったのかという最初の話題にも立ち返りながら、ここまでの彼女たちの「大好き」の記録を未来へとつなげていきたい。

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楠木ともりと優木せつ菜の「大好き」の記録 6,自己犠牲としての降板と「大好き」の行方|此花(このはな)|note

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