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立教186年 此花大教会 おぢばがえり大会陽気ぐらしへの道 —教祖年祭活動への通り方—

 11月25日、「立教186年此花大教会おぢばがえり大会」が開催され、此花につながるようぼく信者447名が参集しました。
 当日は、正午からの本部お願いづとめに合わせて、東礼拝場で参加者一同揃っておつとめを勤めました。その後、東右第一棟四階講堂にて、大教会長様のあいさつ。続いて、谷澤茂男先生(本芝房分教会長)による記念講演が行われました。なお、記念講演の内容は、『このはな誌』474号と475号にも全文を掲載しています。

谷澤茂男先生お話

 皆様こんにちは。ただいまご紹介をいただきました本芝房分教会の会長をさせていただいております谷澤茂男と申します。
 本日は此花大教会のおぢばがえり大会ということで、大勢の方がお帰りいただいたことだと思います。現在、全教が教祖百四十年祭の年祭活動を心一つに歩む時旬に、ここ伝統ある此花大教会にお招きをいただきまして、大変光栄に存じます。
 此花大教会と申せば、わたくしの本理世大教会の初代世話人が、此花の前々の会長様の田邊教一先生でありまして、立教150年の年に本理世が大教会に昇級をした年より17年間の長きにわたり、何も分からぬわたくしどもに懇切丁寧なご丹精を賜りました。毎年大祭には御講話を頂戴しました。わたくしが今でも鮮烈に記憶しているのは、戦時中先生が捕虜となって投獄されている時に、『おふでさき』を拝読することが一番の心の支えとなっていたというお話です。究極、極限の時ほどこの道の信仰は真価を発揮するのだと、平和ボケしているわたくしの胸にビシッと焼きを入れていただいたという記憶がございます。
 また大教会長様にも、少年会本部委員長の立場で埼玉の地にもお越しいただきまして、埼玉教区鼓笛バンド文化フェスティバルにご臨席を賜りました。その節は朝から遅くまで真実のお力添えを賜り、なんともおおらかなお人柄に感銘を受けて、大変勇ませていただいたこと、御礼を申し上げます。
 このように時を経て、ご恩返しの心から、今回の御用を受けさせていただきました。お与えいただいた時間、一生懸命つとめさせていただきます。
 まず簡単に自己紹介をさせていただきます。家族構成は、わたくしを陰となり日向となり懸命に支えてくれる妻と、お道大好きな子どもが3人。ありがたいことに今年結婚60年、プラチナ婚を迎えた両親も元気にお連れ通りいただき、加えて入り込みさんが40人。そんな大家族に囲まれ、日々家族団欒、たすけ一条の幸せを味わせていただいております。
 教会は、本理世大教会・本芝房分教会。わたくしが三代目の会長をつとめさせていただいております。今月7日におかげさまで還暦60歳を迎えることができました。
 わたくしどもの教会は現在、月次祭などの祭典日以外にも、平日はご年配の方、若いご婦人とかわいらしいお子さんたちが、休日には家族ぐるみで参拝され、会活動も婦人会、青年会、女子青年、学生会、少年会、特に鼓笛隊など年齢層に応じ、それぞれの活動を活発に行わせていただき、誠にもったいない限りでございます。2日前には「こうきの会」という65歳以上の男子の会ですが、その方が200名ほど集まって、総会を本当に若々しくおつとめいただきました。
 そういう教会ですが、さすがにコロナのころはパタッと活動が止まったこともありました。しかし、だんだんと第二波くらいから「布教と育成の歩みは止めてはいけない」ということを合言葉に活動を始め、最近はようやく通常のおたすけ活動、育成活動の姿に戻ってまいりました。本日はわたくしども本芝房のおたすけ、また育成活動のお話を通して、何か少しでも参考になればという思いでお話をさせていただきます。

陽気ぐらしへの道

 本日の演題は、「陽気ぐらしへの道」ということでありますが、ただいまの年祭活動の指針である『諭達第四号』は、ずばり陽気ぐらしへ向かうための道しるべであると存じます。陽気ぐらしを味わうには、その実践あってこそであり、その心構え、精神、態度を真柱様よりご明示をいただいております。
 その中盤に、教祖の御心が示されております。それは「水を飲めば水の味がする」と、どんな時でも親神様の御守護に感謝して通るという部分ですが、わたくしはこの教祖の御心を「ありがたいなあ」と表現し直しております。次に「ふしから芽が出る」、成ってくる姿は成人へとお導きくださる親神様のお計らいであるという部分は、「けっこうやなあ」と、そして、 「人救けたら我が身救かる」と、その実践によって「いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」。「成程という日をお見せ頂ける」の部分を「人をたすけたいなあ」と表現し直しております。
 たしかに人生は楽しく幸せな日々ばかりではなく、時に悲しく辛い節もつきものであります。しかし教祖ひながたの道は、どのような中でも陽気ぐらしへの道、生き方をお示しくださいました。わたくしども本芝房の道も然りでありました。我々が目指す陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、教祖ひながたの道を歩むこと。それは万人がたすかる歩み方であるということでございます。
 本日は諭達にこもる、ただいまの教祖の三つの御心「ありがたいなあ」「けっこうやなあ」「人をたすけたいなあ」を心に留めながらお聞きくださればと思います。
 まずどの教会でもそうであると思いますが、設立当初から先ほどのように賑やかに活動ができたわけではございません。そこには永の年限をかけた親神様の篤き御守護と御存命の教祖の温かいお導きがあり、その上で上級教会による親身なるご丹精、そして代々にわたる真実の伏せ込みがあるものと思わせていただきます。

谷澤家の信仰の元一日


 そこでわたくしども本芝房分教会、谷澤家の原点、信仰の元一日から今日までの歩みをお話させていただきます。
 『稿本天理教教祖伝逸話篇』100話「人を救けるのやで」に、恩返しは人を救けること。救かったことを人さんに真剣に話させていただくのやで、と教祖はご恩報じの元一日の大切さをお示しくださっております。
 わたくし谷澤家の元一日でありますが、信仰初代はわたくしの曾々父母、つまり、ひいひいお爺さん、お婆さんである谷澤庄八、ふさという夫婦でした。その二人が大変仲の悪い夫婦でありました。「三日でいいから結婚してくれ」ということで、親の勧めで結婚したのですが、お姑さんがとても親切な方で、三日ではなく、とうとうそのままずっと一緒にいることになった。しかし、やはり年中喧嘩が絶えない家だったようであります。わたくしが聞いた祖父の幼少のころの話に、もう喧嘩が始まると、とばっちりを受けるので、泣きながら下駄を持って裏木戸から出て行ったこともあったとあるように、そうとう仲の悪いガチャガチャの家だったようであります。
 ある時、これは明治35年ごろのお話と聞いておりますが、三女のいねちゃんという女の子がジフテリアの病気にかかりまして、「もう明日の命がない」という宣告を受けた。そこで近所のご婦人がかわいそうにということで、知り合いの天理教の布教師を呼んでくださり、いねちゃんの枕元で十二下りのおつとめを勤めてくださった。すると明日の命が無いといわれたいねちゃんが、翌朝起き上がって、「お母ちゃん、ご飯が食べたい」と言い、そこからみるみると回復の御守護を頂いたとのことなのです。
 そこで庄八夫婦は「これは本当の神様だ」ということで、早速神様をお祀りしたという話が残っております。その時に先生は、「谷澤さん、夫婦の仲を治めることが第一ですよ」と説かれますが、信仰初代でもあり、喉元過ぎれば何とやらで、また喧嘩が始まる。先生が来ると治まる。その繰り返しをしているうちに、庄八が49歳の時に脳溢血で身上を返すということになり、そこから一家離散、天理教の神様も一度お返ししてしまったようであります。
 その後、ふさは東京に賄いの仕事で出てまいりました。しかし何かにすがりたい思いで、近くの八幡宮に毎日お参りに行ったようです。その帰りに知人にパタッと会いまして、親しくお話をしているうちに「ところでわたくし今天理教を信仰しているの」とその知人が言いますと、ふさが「あ、天理教」と懐かしさを覚えたのです。その知人の勧めのままに、天理教の教会の門を再びくぐった。それが当時の本理世宣教所でございます。
 そこで本理世の初代である入江ひで先生より、夫婦仲を通れないいんねん諸々の自覚をお諭しいただき、それ以降、夫婦仲を治めることを本芝房の信仰信条の一つとして、身上、事情に悩み苦しむ人々に今日までお伝えしてまいりました。ですので本芝房ではおたすけにかかる時、身上であっても、事情は特にそうですが、すべての問題の元に夫婦親子家族の在り方を説きます。当然ながら先祖代々の、つまりいんねんを説き、陽気ぐらしの元のいんねんを説いてまいります。夫婦親子仲は、また嫁姑の問題というのは、人類の永遠のテーマであると思います。
 『おふでさき』に
 をやこでもふう/\のなかもきよたいも
 みなめへ/\に心ちがうで

           (五号8)
とあります。いんねんを寄せていただいても、銘々に心が違うところから問題が起きるのであり、これは万国共通、昔も今も本質は何ら変わりはありません。ご承知のことと思いますが、少し夫婦仲第一、夫婦の理について考えたいと思います。
 おつとめの地歌に、
 ちよとはなし
 かみのいふこときいてくれ
 あしきのことはいはんでな
 このよのぢいとてんとを
 かたどりて
 ふうふをこしらへきたるでな
 これハこのよのはじめだし
 なむてんりわうのみこと

これが根本、そしてすべて「よしよし」と結ばれております。
 また、『おふでさき』に
 このもとハどろうみなかにうをとみと
 それひきだしてふう/\はちめた
  
            (六号32)
とありますように、この世の根本は月日親神様が夫婦をこしらえ始まった世界であります。また、
 月日にわにんけんはじめかけたのわ
 よふきふさんがみたいゆへから
 
             (十四号25)
そして、この『おふでさき』の続きが大事であります。
 せかいにハこのしんぢつをしらんから
 みなどこまでもいつむはかりで
 
             (十四号26)
とお示しいただいております。この真実を知らないから身上になる。事情が起きる。戦争も起きるわけであります。
 この親の思い、夫婦の根本の真実をお伝えするために、わたくしたちはにをいがけ、おたすけをするのだと思います。夫婦仲を治めることが第一ということであります。
 わたくしは結婚式の祝辞でよく「赤い糸」のお話をいたします。「皆さんは赤い糸の話を信じますか? わたくしは信じます」と話します。神様はこう申しております。  
 せんしよのいんねんよせてしうごふする
 これハまつだいしかとをさまる
 
               (一号74)
 昨年わたくしどもの女子青年が天理の農家に嫁ぎました。この馴れ初めですが、天理駅のある喫茶店でお見合いをしました。「わたくしはどこどこの誰々です」「趣味は何です」と、いろいろ話をしていきます。そして「好きな食べ物は?」と伺った時に、その女子青年さんが「いちご」と答えたのです。そうするとそのお見合いの相手の男性がにやっとして答えました。「僕はいちご農家です」。
 その子は本当にいちごが好きで、朝から晩までも食べていたい。携帯の待ち受けまでもいちごなのです。そこから二人は盛り上がり、あっという間にゴールイン、結婚となったのです。今は、いちご農家のお嫁さんで、いちごを夫婦一緒に作っています。
 ですから、どこでそういう前生のいんねんが結びついていくのか分からないのです。生まれた時からいちご農家に嫁ぐことが決まっていた。そのような不思議ないんねんをもつ者同士のお世話取りを何組もさせていただいて、本当に感じることが多々ございます。
 夫婦のいんねんを自覚することは、人生の中で最も大事なこと。夫婦でなくとも大切なパートナー、これも前生からのいんねんでパートナーになっているということと同じ理と悟れると思います。
 ここでよく言われることですが、夫婦の話と言われても、もう夫婦ではありません。あるいは、結婚しておりません。などと言う方がおられますが、考えてみてください。生まれた時は夫婦から生を受けました。夫婦でなくとも男女一対から生を受けました。そしてこの世を生き、来生またこの夫婦から生を受けます。この世の人間の元始まりも夫婦から始まりました。ですから夫婦ということを心に治めた上で生きていくことが大切であります。故にわたくしたちは、人生において親神様、教祖のお目にかなった夫婦になること。そのために男の徳分、女の徳分を身に付けることが肝心であります。こうしたことを一対一のご相談で諄々と説いております。

祖父、祖母の出直し


 わたくしどもの信仰初代・ふさは84歳で出直しましたが、その信仰を子どもたちに映して、そして出直す数か月前に「谷澤さん、教会の名称を頂くんだよ」ということを聞いて、大変喜んで、わたくしの祖父である谷澤猛雄が初代会長になりました。そして生涯神一条、たすけ一条の精神で多くの方ににをいがけ、おたすけを、そして教えの根幹は夫婦仲第一ということを伝え説き、31年前に出直しました。
 この出直しの話をさせていただきますが、谷澤猛雄は、平成4年3月12日に87歳で出直しとなったのですが、わたくしどもの教会は11日が月次祭。月次祭を終えて12日の朝に「今日でおしまい。葬儀の仕度をしろ」と、それが最後の一言だったのです。その3月12日の3時43分にみんなに手を握られながら出直していった。そして妻である祖母は、その寄り来る人々にお礼を言った後、「風呂に行ってくる」と言って、わたくしの目の前を通り過ぎて行ったのです。祖父が出直してから二日後のことであります。お風呂から出てこないものですから、妹が見に行ったら、お風呂の中で自分で身を清めて、座棺のように亡くなっていたのです。91歳でございました。葬儀は当初から17日、大教会葬で挙げていただくと決まっておりましたが、祖父は12日に出直し、祖母は14日に出直しですので、もともとの17日の葬儀に間に合ったのです。当日は、祖父、祖母二人並べていただいて、葬儀というよりはまるで結婚式のような葬儀でありました。
 また、出直し前夜のできごとですが、わたくしは二日くらい前から祖父に、親会長さんと呼んでいますが、「親会長さん、あとはわたくしに任せてください」と、自信も何もないのに、そう言ったら喜ぶかなと思って手を握ろうとしたら、はねられたのです。茂男の手などまだ及ばないという様子です。
 ところがもう一日たって11日、月次祭を終えてまた同じことを言った。そうしたら強く手を握り返してきたのです。その時は伝わったわけです。まだしっかりと力があるということで、おばあさんが横で寝ておりましたので、「おばあさん、こっち来て」と祖父の手を握らせたのです。
 わたくしは、子どものころから祖父と祖母が手を握ったシーンなど一度も見たことがないのですが、もうこの期しかないということで、手を握らせた。そうしたら祖父の目から大粒の涙がポロポロポロとこぼれてきた。鬼瓦権蔵というくらいの気丈な祖父でしたので、そんな涙をわたくしは見たことがありません。もう無言で、涙で伝えておりました。わたくしはこの瞬間に、夫婦の絆というのは素晴らしいなと感じました。もう子や孫にも入れない世界なのです。そういった絆の素晴らしさを本当に感じたお出直しでありました。夫婦がこの世の始まりであり治まりであることを、今一度この人類共通のテーマとして、陽気ぐらしの根本を世の人々にお伝えすることが大切であると思います。

教会のにをいがけ、おたすけ

 次にわたくしどものにをいがけ、おたすけについて、そして教会の歩みについてお話をいたします。
 わたくしどもの初代会長が「夫婦仲第一」と、もう一つ信仰信条にこだわったのが「初参拝、初席、修養科」というワードであります。片っ端からにをいがけをして、教会でしっかり丹精をしておぢばに帰すこと。そして本当の人間らしい、夫婦らしい人となること。これがたすかるプロセスであり、本当のたすかりとはおたすけ人になること。初代会長はこの信仰信念を生涯貫いて多くのおたすけ人、教会長を育てました。今でも「初参拝」ということは声を大にして言っております。
 すべては一言のにをいがけから始まります。そして教会へお連れし初参拝。さらに気長な丹精をし、一対一で拝殿でのおたすけの丹精が大事であります。神殿のことを拝殿と申します。東本の流れの教会、本芝、本理世には昔は拝殿に火鉢が置いてありました。今は消防法の関係でテーブルになっておりますが、その流れを頂いて、わたくしどもの拝殿でも毎日朝4台から始まって、昼相談に来る方が増えてくると、どんどんテーブルを出していって8台、多い時は10台を超えることもございます。そして一対一の丹精。その際には、祖父が申しておりましたが、「説くんではない。聞くんだ」と。「とにかく聞き切るんだ」と。そういう丹精に立って、別席につながっていくのだと思わせていただきます。
 たすかる側は、足繁く教会へ足を運ぶことが本当のたすかりにつながる。なぜならば教会は、ぢばの出張り場所であるからです。そしてここおぢばへ帰ってきて、別席を運び、心の立て替えを行い、その後丹精を重ねて次は修養科へ。修養科へ行っておたすけの心を培い、そしておたすけ人へと、育っていくのだと、これまでお仕込みいただいております。

成らん理を積ませていただく

 しかしにをいがけをしてみると、なかなかにをいは掛からないものであります。わたくしどもの初代は青年時代、本理世大教会の信仰初代・入江ひで先生によく「托鉢」という言葉をお仕込みいただきました。托鉢というのはお坊さんが三角形の帽子をかぶって、袈裟を着て一軒一軒チンチンと宗派の仏名を唱えて回ります。「仏教で言うとにをいがけは托鉢。どんな偉い貴僧、名僧といえども托鉢をやらないで偉い坊さんになった人はいないんだよ。谷澤さん、これから三年、五年は托鉢をしなさい。おたすけ人は成っても一つの理、成らいでも一つの理を積ませていただくのです」。こうお仕込みいただいたわけであります。『おさしづ』に「成っても成らいでも一つ」というのは幾つかありますが、
 成っても成らいでもこれいん ねんという。(中略)さあ成ら ん中のたんのうがさんげ。これ 前生いんねんのさんげである。     
            (明治38年12月2日)
とあります。
 よく聞かれますが、「成る理っていうのは分かる。成らん理っていうのは何ですか?」と。実際ににをいがけは、なかなかにをいが掛からないのが現実であります。これを成らないと言います。初代からよく聞かせてもらいましたが、「いいんだよ。歩いてりゃいいんだよ」と。わたくしは青年になった時に、歩いてりゃいいんだよと言われても、何かもう一つ二つ虎の巻を教えてくれないものかと言ったものですが、これが歩いていくとだんだんわかるわけです。自分の弱さや、本当に情けない自分というのが出てくる。しかし、それを乗り越えていくと、だんだんとお与えを頂いてくる。歩かなければそこに気がつかないのです。成らん理というのがとても大切だということであります。
 10年前の教祖百三十年祭に入る前に、信者さんに布教指針を出したのでありますが、この時に、「この年祭活動はとにかく成らん理を積ませていただきましょう」と申し上げました。するとある信者さんが「会長さん、わたくしたちに『成る理を作れ』と言ってもできないけれど、成らん理を作れと言うならわたくしたちもできます。じゃあやりましょう。みんなで成らん理を作りましょう」ということで、皆さん本当にその思いでにをいがけに歩いてくださった。「成らん理、成らん理」と言って、その結果、別席者も帰参者もその10年前、百二十年祭の団参よりも大きな御守護を頂戴したわけであります。ですのでにをいがけというのは、決して難しいものではなく、丁寧に丁寧に誰でもできるにをいがけであるということであります。我々は尊い天理王命という神名を一軒一軒丁寧にお伝えしていけばいいということであります。合理性は考えず「ひたすら歩いてりゃいいんだよ」であります。このスタイルを今現在、本芝房の部内教会に至るまですべてのようぼくが継承しております。
 そして布教の家埼玉寮でも、わたくし教区長としてよくこの話をさせていただきます。「成らん理を作ろう。成らん理を作ろう」。此花の田中真通さんに、先ほども会ったのですが、「成らん理を作ろうね」ということで彼も一生懸命埼玉の地で歩いてくださいました。

3年8カ月の布教体験


 ここでわたくしの拙いある布教の話をさせていただきます。結婚して結構になりまして、代々谷澤家がたすけていただいたご恩報じに、初めて谷澤家がお道の話を聞くきっかけとなり、いねちゃんがたすけていただいた土地に幼い子を連れて布教に出させていただきました。35歳の時であります。
 まずは家選びから。布教費が最低限でしたので、選んだのが築40年以上の古い文化住宅であります。もちろん車もない、冷房もない、醤油もない。あるのはお風呂場にいるナメクジやムカデ、そして子どもたちのおもちゃはダンゴ虫というような毎日であります。にをいの掛からないにをいがけと、信者さんのいない月次祭を迎えるわけであります。
やっとにをいが掛かっても自分が発熱をして、迎えに行けず怒られて「二度と来るな!」というようなことが多々ございました。またにをいが掛かった人も、こちらのいんねん通り、夫婦連れ添えない人、天涯孤独の人や死に別れの人たち、それでも成らん理の中にあるおたすけの小さな喜びがありがたかったのであります。
 やっとの思いでおさづけを取り次ぐ。一日一人でもお話を聞かせてもらったり、神様のお話を取り次ぐことができた喜び。妻が小さな子どもたちと共ににをいがけ先から人を連れてきた時の喜び。ご近所の方が傍から見たらよほど大変に映っていたのか、優しく親切に味噌と醤油を貸してくれたり、人の温かさを心の底から感じた喜び。朝夕のおつとめが真剣につとめられたこともありがたかったことであります。
 ようやく初席の方をお連れして、おぢばで、かんろだい前に座った時には、本当に感激の涙が出てまいりました。成らん理を積むことの難しさと成る理のありがたさをつくづくと感じさせていただいた3年8か月の布教体験でありました。この体験のお陰で、成らん理を積むことの尊さを信者さんにも説けるようになりました。成らん理を最低3年。10年20年積んだら、神一条の理をお受け取りくださり、必ずや御守護くださると思います。
 初代会長はとにかく「歩いてりゃいいんだよ、生涯」、そして「相手を持つんだよ」と。おたすけの相手を持たなければ、自分のいんねん、性分が分からない。にをいがけが一番のご恩報じだと。徳積み、そしていんねんの自覚、立て替え。おたすけに無駄はない。一見、無駄とも思えることをたくさんすること。そのようにお仕込みいただきまして、今でもみんなその精神を継承してます。
 教祖伝逸話篇を、繙きますと、次のようにお話しくださっております。金や物やないで。たすけてもらい嬉しいと思うなら、その喜びでたすけて欲しいと願う人をおたすけに行くことが一番の恩返しやから、しっかりおたすけするようにと。「人をたすけたいなあ」とご恩報じの要をお説きくださっております。たすかった人は、おたすけ人になるまで丹精することがわたくしたちようぼくのつとめであると思います。

わたくしと教会の歩み

 話は前後しますが、わたくしと教会の現在までの歩みを少しお話しさせていただきます。
 わたくしは1963年昭和38年に生まれますが、教会設立が昭和29年でありますから設立から10年近い時に誕生しました。昭和40年代はまだ布教の道中でありまして、記憶するところ、祭典日でも家族入れても数えられるほどの信者さんでおつとめをしたのを覚えております。学校から帰ってきても教会の中はみんなが布教に出て、シーンと人気がなく鍵っ子のように一人で外で時間をつぶしたことも思い出に残っております。また、食べる米も物もなく、それこそパンの耳で育ちました。しかし、わたくしの記憶の中では、非常に家庭の中が明るかった。母のケラケラという笑い声がいつも絶えなかった教会でありました。かつ一方で父親と祖父はでんとしておりまして、教会中にピンと張りつめた空気も漂っておりました。これは今思うとまさに教祖がお通りになられたひながたを、親々が本当に「ありがたいなあ」と心明るく通ってくれていたと思い、子どもたちにもそのように育ってほしいと思い、成らん布教の道中を通らせていただいたのでございます。
 そしてたすけの実をだんだんとお見せいただきました。その教勢の発展の始まりは、実は悲しい節から芽を吹く御守護を頂いたことであります。わたくしが生まれて間もないころ、初代会長の娘の陽子という人が昭和40年32歳の若さで乳飲み子を含めた3人の子どもを残して、出直しという大節を頂きました。さすがに気丈に振る舞っている初代会長も、しばらく床に臥せてしまったようであります。しかし初代会長夫人、祖母は淡々とその中をにをいがけ、おたすけを続けたのであります。すると一人の婦人から、一人また一人と、次々と夫婦仲のおたすけを求めて、教会が賑やかになってまいりました。祖母は婦人が集まり始めた様子に「あー陽子が帰ってきた」と大変涙ながらに喜んだようであります。
 初代会長も親神様の大いなる親心に感謝し、この節からおたすけ人への仕切り直しをし、生涯人たすけに燃えて、そこに芽が吹き、今日につながっていくのであります。まさに「けっこうやなあ」であります。わたくしの教会はそういう布教の道中を、教祖のひながたと上級の理を頼りにして、悲しい節に遭っても「ありがたいなあ」「けっこうやなあ」、「人をたすけたいなあ」と歩む中にだんだんと人が集うようになってまいりました。
 今から50年前の教祖九十年祭に、「初めて団参で100人超えたぞ」と言って教会が非常に湧きあがった記憶があります。100人を超えたというのは、子どもを合わせてでありますが、若い奥さん方が集まると子どもがついてまいります。そこでわたくしの父である二代会長の後継者時代に、祭典日になるとお話中に賑やかな子どもたちを10人ほど連れて公園にいき、公園少年会が始まりました。そのお世話取りが原点になり、少年会が結成されます。そして昭和56年に第一回のおとまり会を開催しました。なんとか17人のやんちゃな子どもたちが集まりましたが、ささやかな中にも先の楽しみを与えていただいたおとまり会でした。教会設立から27年目のことであります。その子どもたちが今成人しまして、教会長、教会長夫人、ようぼくとなって、道の上に活躍してくれております。
 事を起こす時には、子どもであっても親神様の深い思惑があるので、一人一人を大事にしないといけないと思います。現在ではありがたいことに、教勢の発展とともにわたくしの幼少から数えて7度に渡る普請を経て、大勢の信者の御守護を頂き夢のようなことでございます。このように本芝房におけるにをいがけ、おたすけの一端を話しました。

縦の伝道活動の重要性


 縦の伝道活動、いわゆる各会活動は、人材育成におけるにをいがけ・おたすけであり、大事なたすかるためのかどめであると思います。
 お道では「大難が小難、小難が無難に」という言葉が再三出てまいりますが、これを時間的に横軸とすると、縦軸として次のお言葉があります。それは「どんな悪いんねんのものでも、白いんねんに変わるねで」という言葉です。『教祖伝逸話篇』の「一代より二代」(九〇)では、「『神様はなあ、〝親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。〟と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。』とかようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。」とあります。
 『諭達第四号』には、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。その信仰を受け継ぎ、親から子、子から孫へと引き継いでいく一歩一歩の積み重ねが、末代へと続く道となるのである」とございます。末代までの信仰を目指しているのは、本教の大事な信仰理念であります。それは代を重ねて魂が浄化され、白いんねん、さらに生まれ替わり出替わりを経て、元の陽気ぐらしのいんねんの魂に立て替わることを目指しているからであります。
 陽気ぐらしの世に立て替わるまで信仰をつないでもらいたいというのが教祖の願いでありますから、何としても子どもに信仰の喜びを映すことが、陽気ぐらしへの道であると思います。次代に信仰を継承すること、すなわち縦の伝道は、陽気ぐらし世界建設、個々の家が陽気ぐらしのいんねんに立て替わるためには不可欠でありますし、教会内容充実であるおつとめ奉仕者を増やすことも、にをいがけ・おたすけ同等に絶対条件であります。
 縦の伝道における教祖のひながたとともに、少年会創設者である二代真柱様の思いがあります。昭和42年に、少年会第1回団長講習会における二代真柱様のお話があります。
「私は3つの信条を私たちの座右に掲げたのであります。一つは『神一条の精神』、そして『ひのきしんの態度』それから『一手一つの和』であります」。いわゆる「ようぼく三信条」を提唱いただきました。さらに、「私たちは、これから教祖の跡をたどらせていただいて、ここに『天理文化』という『だめの文化』を進めていくんだというこの誇りと、この喜びをしっかり胸に抱いていただきたい」とお残しくださいました。
 私の教会では、少年会、すべての会活動に至るまで、ようぼく三信条を一貫して身につくように徹底しており、その理念により今日まで、さまざまな道と社会に貢献するようぼくを輩出し、活躍してくれております。
 お道の上に活躍するようぼくとは、おつとめ、ひのきしん、そしてにをいがけ・おたすけ、おつくしに励む方であると思います。さらには、社会に貢献するようぼくとは、教祖の御教えを社会で働く場面で実践する方であると思います。これも二代真柱様が仰せくださる「天理文化」という「だめの文化」を進めていくことではないでしょうか。この道と社会に貢献できる人材育成については、『おさしづ』に、
「子供仕込む聞き分け、あちらも柱、こちらも柱無くばならん。だん/\芽吹く理無くばならん。子供仕込むたけ、十分の働きもあろう。」
            
(明治34年4月16日)
と、道の子供を丹精し、さまざまな分野で活躍する人材を育てようとお示しくださっております。

縦の伝道活動で育った
    若きようぼく

 ここで、縦の伝道活動で育った若きようぼくのご紹介をいたします。若いころからお母さんに勧められて教会へ来て、少年会鼓笛隊で活動してきた「Y君」の話をいたします。Y君は、親が「行け、行け」と言うから嫌々鼓笛隊に通っていた。お母さんが年中教会に行って、家にいなくて寂しくて、それこそ天理教がどんどん嫌いになっていった。そのY君が渋々「学生生徒修養会・大学の部」に参加して書いた感想文がありますので、少しご紹介いたします。
「母が教会に行ったり、にをいがけに行くことに疑問を感じ、『そんなににをいがけが楽しいの? 家のことより大事なの? そんなに好きなら天理に住めばいいじゃん、天理ババア』と思ったことがありました。しかし半信半疑で『学修・大学の部』を受講し、学修5日目で初めての路傍講演、神名流しを経験することができました。僕はすごい光景を目にしました。班員の「T」という女の子が、倒れていたおばあさんを見つけるや、人の目を全く気にせずパーッと列から抜けて行って、突然、商店街のど真ん中でおさづけを取り次ぐ姿を見て、ただ人を救けたいという素直な気持ちに僕は感動しました。それと同時に、母がいつもしているにをいがけ・おたすけは、こんなにも素晴らしいものだと感動し、いつも反抗ばかりしていた母に、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そして帰りの新幹線の中で、にをいがけで感じた感激を母にメールしていました」。そして最後に、「僕は本当にお道の教えに誇りを持っています。そして僕には今、夢があります。それはこれから自分の進む社会の中でも、教会で学んだお道の教えをしっかり実践し、その中でお道の精神を広め、陽気ぐらしの社会を担えるような人になることです」。
 このようにお道が大嫌いだった子が、「もう大好き」と変えてくれたのが「学修・大学の部」でありました。
 その後Y君は、教会の鼓笛を卒業後、吹奏楽チームに入りリーダーとなって、大学在学中に単位も早く取って修養科に入りました。そして当時、就職超氷河期と言われたにもかかわらず、大学の中で一番先に一流企業の内定をもらい、就職をしました。土日は教会に泊まり込んでプチ青年をしながら、仕事場でお道のひのきしん精神をいかんなく発揮し、時に社長賞を授与され、現在はイギリス支社にて社長補佐として活躍しております。そしてお道においても、ヨーロッパ青年会の核となって頑張ってくれております。
 私どもの本芝房鼓笛隊は、現在まで700名を超える卒業生があり、今までにその約7割がようぼくとなって、社会でも鼓笛で学んだひのきしん精神、たすけあいの精神、奉仕の心を持ってさまざまな分野で貢献してくれています。縦の伝道活動は、教会内容の充実と社会で貢献する人材育成の原動力となっており、これも陽気ぐらしへの道の大切なかどめであると思います。

節目を乗り越え、
  安心を頂ける信仰

 ここで最近のおたすけ精神でたすかった方のお話をさせていただきます。この方は信仰初代の熱心な50代後半、「Nさん」という方です。Nさんの奥さんは若いときに、家庭の問題で悩んでいるところを街でにをいがけをされて入信をされました。そして、会社でNさんに見初められて結婚いたしました。Nさんは、奥さんの信仰は認めたものの、本人は20年間ほど無関心でした。しかし会社での事情が家庭の事情にも発展し、ようやくたすけを求めて教会の門をくぐったのであります。
 一対一の丹精の中に、別席、三日講習会へと進み、それを機会に夫婦の信仰となり、日曜日にはにをいがけをするまで熱心な信仰者となりました。しかし昨年、体調不良から病院で検査を受けたところ、悪性リンパ腫ステージ4という診断を受けました。この大節は何か? 親神様の思召しはどこにあるのか? それからおさづけの取り次ぎと何度もご相談を受けました。
 Nさんは、N家の言うに言えない代々続く、夫婦・親子が仲睦まじく通れない複雑な家庭内容や、自身がエリートサラリーマン時代に自己中心的な通り方をしていたことを私に洗いざらい話してくれました。Nさんは、この身上を通して、代々のほこり、自身の通り方を反省し、胸の掃除をする機会ととらえ、大きな節目と対峙したのであります。
 そうしたことから、教会挙げてのおたすけとなり、おさづけはもちろん、お願いづとめ、大勢の方が理づくりに、おたすけに励んでくださいました。Nさんは、多岐にわたる治療を受けながら次々とご守護を頂きました。担当医師いわく、「私は35年以上あらゆるがん患者を診てきたが、こんな難病をたすかった方は初めてで、学会に報告をさせてほしい」と言われるほどの奇跡のご守護を頂戴いたしました。
 が、しかし喜びもつかの間、親神様は再びふしを与えられました。今年に入ってから、今までなかった部位にリンパ腫が発症したのです。体の負担を考えたときに、抗がん剤治療をこれ以上続けることができず、一縷の望みは、国立がんセンターでの最新治療のみであることがわかりました。その最新治療は、「CARーT(カーティー)治療」といいます。我々には免疫細胞の中に「T細胞」があり、そのT細胞を患者から取り出して、アメリカの研究所にその「がん撲滅攻撃細胞」に変異をさせて、そしてまた日本に持ち帰り、患者の体内に注入し、がん細胞を消滅させるという最先端治療であります。ただリスクもあり、正常な細胞を死滅させてしまうという危険性もあるようで、まだまだ治験の段階であります。しかしNさんは躊躇なくチャレンジをしました。
 今年の6月にようやく治療が開始され、細胞は日本からアメリカを往復し、2か月をかけて経過観察となりました。それまでの間、Nさん夫婦と私たちは、もう一度親神様へ仕切り直しをし、ご存命の教祖におすがりをさせていただくこととなりました。そしてありがたいことに、治療も順調に進み、免疫力もある程度回復したことで退院となり、何度となく再び奇跡の生還を果たしたのであります。
 9月の末に、ご夫婦で久方ぶりの感激の参拝をなされ、おさづけの取り次ぎを受けられました。Nさんは、次のようにお話しされました。「昨年初めてがんの宣告を受けたとき、不安で絶望感さえありましたが、次々とご守護を頂く中に、不安がだんだん取り除かれていきました。なぜならば、私にはすぐそばに妻が寄り添ってくれて、私のために教会への運びや、陰でにをいがけを懸命に励んでくれました。そして教会では、会長さんや奥さんがおさづけを取り次いでくださり、私の話を真剣に聞き抜いて、アドバイスを頂きました。さらに大勢の教友が、私のためにたすかりを願って祈ってくださいました。ですから私は、不安がなくなり、安心となり、親神様のご守護とご存命の教祖がお働きくださるという自信さえ持てるようになりました。すべてお道のおかげであります」と涙ながらに語ってくれました。さらに「体が以前のように動くようになったら、ご恩返しとしてにをいがけをさせていただくことが、今私が一番したいことです」と、笑顔で語ってくれました。
 その方と今日ばったり教祖殿で出会い、感激の対面をいたしました。すぐ教祖の御前でおさづけの取り次ぎをし、大変喜んでおぢばを後にされました。私はこの「ふしから芽が出る」を通して、あらためてこの道の素晴らしさを学びました。それは、この道の信仰とはどのような中でも安心を頂ける、そしてどんな節目にあっても、乗り越える自信を持てることであります。誠にありがたい結構なお道でございます。

 世界だすけへの道

 続いて、世界にまたがるおたすけのお話をさせていただきます。10年前になりますが、立教176年の11月に、コンゴ共和国にある本部直属のコンゴブラザビル教会を訪問いたしました。
 その時ちょうど、私どもの信者さんAさんが、コンゴ共和国の隣にあるコンゴ民主共和国という国にビジネスで行っており、そちらにも訪問したのであります。AさんのビジネスパートナーであるBさん、この方はコンゴ人ですが、その方とお会いして、私がお道の説明、陽気ぐらしのお話、そして青少年の育成のお話をいろいろしたところ、大変興味を示しまして、首都のキンシャサ州の副知事に電話をしました。「今日本から面白い布教師が来た」と紹介してくれました。向こうでは布教師は、非常にステータスが高いのです。早速、「じゃ、会いたい。明日連れてこい」ということで、急に私と州政府の副知事さんとの会談になりまして、お話をしていたら「ぜひこの国でも布教してくれ」というお誘いを受けました。
 あれこれ考えたのですが、結局「はい」と答えまして、ホテルに帰って、親神様に宣告しました。「あしきをはらうてたすけたまへてんりわうのみこと」「親神様、今日実は布教の懇願を頂きました。しかしながら私はアフリカでは布教できませんので、どなたかにお願いします」というおつとめをしました。そしてその国を後にしたのですが、1カ月も経たないうちに、AさんとBさんとのビジネスが破産しまして、もうやることがなくなってしまった。そこで「じゃあ、あなたたち二人で布教しますか」と言ったら、「する」ということでコンゴ民主共和国での布教が始まったのであります。
 すると一人から一人と次々とご守護を頂き、1年で50名ほどの信者さんができてしまったのです。そこで、今年11月19日に神実様をおまつりしに行くことになりました。鎮座祭をつとめる時に、同伴した青年が「会長さん大変です。11月19日は、48年前にブラザビル教会で真柱様が鎮座祭を勤めた日なんです」と言われました。二代真柱様の思いが48年の時を経て、川を渡って水が付いたのだなということをしみじみと感じたのであります。
 キリスト教の国ではありますが、陽気ぐらしの教え、十全のご守護、かしものかりもの、心一つが我がの理、八つのほこり、心の掃除の手法、そして夫婦仲が大事、祖先を大事に信奉する、そういう教えが、現地の方々にとても新鮮に伝わっていったのではないでしょうか。おさづけの取り次ぎも鮮やかに次々とご守護を頂きました。まさに「だめの教え」というものを実感したのであります。

 

コンゴでの布教

 今年7月、4年ぶりに、私と妻は夫婦で初めてコンゴに出させていただきました。そして、おさづけを取り次ぐ中に、お腹を痛めているようなご婦人がおられ、いよいよ順番が回ってきて、おさづけを取り次ぎました。「どうしたのですか?」とまず聞いたら、「妊娠9か月なんですが、最近病院に行ったら、『赤ちゃんの心臓が止まっている』と言われた」というのです。内心では「それはちょっと無理な話だな、無理な願いだな」と思ったのですが、その方の切なる願いから、「いわば命とのつなぎです。つなぎの反対は切る心です。思い当たる節はございませんか?」と尋ねたら、「私は短気なんです。でも私よりもっと短気な人がいる、それは母です」。「なんでですか?」と聞いたら「私の父は村の役をしておりました。父が亡くなった後は母がその後を継いで……」。向こうの方は、地位名誉を得ると威張る方が多いようです。「もう次々と村の人を叱りながら仕事していた。そのうち、私も年中怒るようになったんです」。「じゃあその心、優しい心、あったかい心になりましょうよ。お母さんをぜひ連れて来てください」と言うと、「お母さんは実は近くに来てるんです。『天理教なんて聞いたことない宗教には行けないから、あんたが行って来い』と言われて来ました」。「では必ずお母さんを連れて来て、お母さんにこの話をしてね」と伝えておさづけを取り次ぎ、3回目の「なむ天理王命」を取り次いだ時に、お腹の中の赤ちゃんがグルグルグルと、動いた感じがしたのです。「あれっ」と思って、「今ちょっと手に動きを感じましたが、お感じになりましたか?」と言うと、「はい、確実に動きました」と言ってニコッとされました。その足で病院へ行き、CTを見たら、赤ちゃんが動いているのです。お医者さんから「お、生き返ってる」と言われ、本当にもう感激のおさづけでありました。
 その時、お母さんは、それを見て聞いて大変喜び、そして反省したのであります。「そうか、悪かったあ……」。その後、村人たちに一軒一軒お詫びに回ると、村人たちもその不思議なできごとと、お母さんがあまりにも優しくなっているので、「なんてことだ? これは天理教という信仰のお陰だ」「私も連れてってくれ、私も連れてってくれ」と言われ、その村はほとんど天理教になったという話であります。それが今年の7月の話でございます。
 布教開始から10年が経ちました。本年7月に首都キンシャサに布教所を構えておりますが、その月次祭には800名、そして農村地で今、農業振興を行っているのです。そこの村にも200名のご参拝を頂きました。先頭で村長さんが日本語でおつとめをしております。そして、「この天理教が村にやってきた、この天理教は素晴らしい」というような話をしてくださったのです。終わってから村長さんに、「この村には何人おられるんですか?」と聞いたら、「この村には2千人います。1割は天理教になっており、これから2割3割になっていくんだ」と。今回は1千名を超える信者さんが、海の向こうのコンゴの地で迎えてくださいました。
 ある海外部の先生に、「本芝房さん、そんなに早くに人集めて、何かばら撒いてるんですか?」と言われたことがあります。だけど何も特別なことはしておりません。海外でも、おたすけの基本は、一人から一人、胸から胸へのにをいがけであります。おさづけもただ取り次ぐのではなくて、一人15分と決めているのですが、必ずお話を伺って、そして一つ二つ「かしもの・かりもの」を説いて、そしておさづけを取り次がせていただいております。
 今、世界はコロナ禍にとどまらず、次々と起こる自然災害、そして起きてはいけない戦争など、世界を鏡として親神様が人間の心のありようを映し出しております。昨今の世情は、本当にこの親神様の切なるたすけの急き込みであると思案させていただきます。この親神様の思いを真摯に受け止め、世界事情が一日も早く、少しでも大難が小難に、小難が無難になりますように、陽気ぐらしへの道に向かって今こそおつとめに祈りを込め、これからもためらうことなく、にをいがけ・おたすけの実動に励ませていただきたいと存じます。現代の不安におびえるご年配の方々や、これからの不安定な時代を生きる若者、子どもたちに、「大丈夫ですよ、この神様が必ずお守りいただけますよ」と安心、そして自信、希望をお伝えさせていただきたいと思います。

 教祖のお心通りに、
  素直におたすけの実行を

 これまで、本芝房のおたすけ活動の話をさまざまな角度から話してまいりましたが、私どもの教会として難しいことをしてきたのではなく、成らん日も厳しい節に出会った時も、あるいは結果が出ない日があったとしても、コツコツと教祖ひながたの道、すなわち陽気ぐらしへの道を信じてみんなで歩んできたお話をさせていただきました。先日、秋季大祭において真柱様より、「私たちは教祖のお心に溶け込んで、教祖のお心通りに素直に実行して、たすけ一条に励ませていただくことが使命である」と、お言葉を賜りました。ただいまの時旬、ご諭達の精神を戴して、教祖百四十年祭へのたすけの旬、成人できる旬にそれぞれができるところから、一人から一人を大切にして、みんなでにをいがけ・おたすけを年祭活動の上に励ませていただこうではありませんか。
 私ども埼玉教区では、「埼玉千日たすけあい運動」「千動」と称して、いろいろな運動を展開しております。つい最近、妻である主任が、「『みんある』がよかったのよ」と言うのです。「みんある」とは、「みんなで歩こうにをいがけ」のことで、ブロックごとににをいがけチームを作って、教区内を回っていくのです。結構今、70代80代の方も参加していただいて、非常に勇んでにをいがけをしている。
 「歩こう」という話ですが、どこへでも来る人来る人にどんどんにをいがけをしていき、トヨタレンタリースにも入って、あげくの果てには警察にも行きました。警察に「どんなご用ですか?」。「いや、犯罪が起きないようこのパンフレットを置かしてください」と言うと、「少々お待ちください、上の者が出てまいります」。上の方が出てきて「そういう一宗教のは置けません」。「いえ、あなたに差し上げたい」と言うと、「ならば受け取ります」と言って、警察の方も受け取ってくださった。そのような活動が今の埼玉だけではなくて、もう全国で「千日たすけあい活動」「千日運動」として繰り広げられております。此花の方々も、この「千日たすけあい運動」で結構なおたすけを頂かれるかと思います。
 終わりに当たりまして、本日このような御用を頂き、大勢の皆さま方とお会いできたことに感謝の気持ちでいっぱいでございます。此花大教会が、ますます真実のあるおたすけの展開により、陽気ぐらしのご守護を頂かれますことを心よりお祈り申し上げ、そして私自身も微力ながら全教のおたすけ活動の一端を担うことをお誓い申し上げまして、本日の御用と代えさせていただきます。誠にありがとうございました。

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