立教185年 「春季大祭神殿講話」


〇今の状況は、口の中に虫歯菌が入って「虫歯」だと言ってる状況
コロナウイルスの騒動が始まってだいぶ時間が経っています。ワクチンも大体行き渡って、私も2回打ちました。しかし、新種のオミクロン株は、いままでのワクチンを打った人には効かないと言われています。また製薬会社のファイザーは、オミクロン株専用のワクチンを開発すると発表していますから、3回目のワクチンを打った人もオミクロン株専用ではないので、もう1度ワクチンを打たなければならないのかとも思います。まあ、非常に人間というものはややこしいなぁと思いながら、一体この騒動がいつ終わるのだろうかと思っています。
しかし、科学技術や医療技術の力によって、本当に細かい所まで分かるように成ってきました。人間がもしかしたらすべてコントロールできるのではないか。健康までコントロールできるのではないか、と思い込みと申しますか、そうしたことが一つの要因にあるのだと思います。
しかし、私たちは生かされて生きている訳であって、私たちが気付かない中でも、毎日々々神様から護られてたすけられています。私は、このコロナ騒動が起こってから、感染症や、ウイルスや菌、過去の結核やコレラと、いろんなことを調べました。そして、ああ成程。感染と発症とは違うんだ。しかも、感染の以前に身体の中にウイルスが入っただけの暴露というものがあって、それが細胞と結合して増殖してやっと感染と成る。しかし、感染はしても発症はするかどうか、これもまた分からない。発症してから重症化するかどうかも分からない。こうした段階がたくさんあります。
いまの人間がやっていることは、ちょっとでもウイルスが体内に入ったらPCR検査で見つけて陽性にします。これは、口の中に虫歯菌が入った。「あなた、これ虫歯や」と言っているみたいなもので、虫歯というのは口の中に虫歯菌が入って増殖し、歯を食い散らかして初めて虫歯であります。ちょっと虫歯菌が入っただけで、虫歯扱いになる。そんなことをしてみんな「虫歯だ」と言っているようなものです。

〇本当に私たちの身体は、素晴らしい
ただひとつ間違いないことは、私たちは生かされているということです。この身体というものが、いかに素晴らしいものであるか。毎日々々いろんな菌やウイルスに私たちはさらされていますが、しかしそれを免疫がやっつけてくれて、ほぼ100戦100勝します。まず、人間の免疫は負けることはないと言われています。毎日戦って毎日圧勝しているのです。ですから私たちは、素晴らしい免疫を神様から頂いているのです。そうしたことも、このコロナ騒動によって初めて見直して「本当に私たちの身体は、素晴らしい」ということを私はつくづく感じさせていただく機会となりました。私個人としては、このコロナの節は、お道の者として「かしもの・かりもの」をもっとしっかりと心に治めよということを、お仕込みくださっている節だと感じています。

〇「かりもの」ということが、真に心に治まったならば神様は御守護くださる
そして、昨年のこの席でもお話をしましたが、教祖のお諭しに
「人にお話をするにはなあ、我が身が心にしっかりとかりものということを治めておかにゃいかんで。かりものということよく教えてやってくれ、よくわからしてやるのやで」
と、このように仰っています。そしてまた、
「かりものということがよくわかれば、どんな病でもすぐにご守護下さるのやから、おたすけにはかりものということ、神様から身体を貸してもらっているという理を人間思案にとらわれず、ただただ有難い、結構やと思うてお話をさせてもらいなはれや」
と「かりもの」ということが真に心に治まったならば、それで神様は御守護くださるのだと、このように教祖は仰っています。
此花大教会二代会長田邊藤之助先生の入信もそうです。藤之助先生は、若くして目の身上があり、併せて胃の身上もありました。けれども本人は、そんなことは意に介していませんでした。決して、この病を治して欲しいというふうに切に願っていた訳でもなかったようであります。ただ「天理教」という邪教がはびこっていると仲良しのお坊さんが言っているのを耳にして、「そんな悪い宗教があるならば、撲滅しないといけない」と、正義感たっぷりだったのです。そして、偵察のように天理教の話を聞きに行く。聞くといい話をする。なるほどと得心をする。「この身は、かりものなんだ」と、神様からお貸し頂いているということが真に心に治まったんです。わずか2日間ぐらい話を聞いただけです。そして「これは邪教どころか真実の神が人をたすける、この世界を救う教えだ」という確信を持たれて、布教におたすけに奔走されるようになったのです。そうなったときに、それまで自分が患っていた目の身上や胃の身上、これは自分からたすけてくれとは一つも頼んでいない、神頼みなんか一つもしていないのに、ふと気付けば全て治っていた。心に「かしもの・かりものの理」がしっかり治まれば、お願いもしていないのに身上が治っている。それが私は、素晴らしいと思うのです。
そして、教祖のお諭しにも
「人間はなあ、皆神様から身体を借りているのやで、それを自分の物のような心で日々使うて通っている。それでは申し訳ないのやで。自分の物と思うて使うているから、頂けるご守護も頂けなくなるのやで。この理よう思案してくれ。またかりものという理は日々通らして頂いている心の中に常に持たせてもろうてなけりゃならんのやで。」
と、このようにも仰せられました。このお諭しは『稿本天理教教祖伝逸話編』では見ないものでありますけれども、私はこの教祖のお諭しがスーッと心に治まります。本当にそうだな、そしてまた教祖が語りかけてくださっているようにも思います。それはやはり「かしもの・かりもの」というものの本当の意味というものが、少しずつ治まりかけてきているからなのかなと思うのです。

〇身体の細胞の数60兆個は間違い?
天理教の教えだけを勉強していてもおそらく分からないかも知れません。現在は本当にいろんなことが解明されて来ていますので、人体においてもたくさんのことが分かっています。人間の身体の細胞は、だいたい定説では60兆個と言われています。私も60兆個と以前より聞いています。60兆個ってどのくらいの数量なのか。人間といっても相撲取りみたいな大きな人もいれば、生まれたての赤ちゃんもいます。小さい体形でも60兆個で、大きい体形でも60兆個か。一体どういう計算なのか分からなかったのです。ところがこれ、誰も正確に調べた人なんかいないそうです。だいたい人間の身体1㎏に1兆個ぐらいの細胞があるだろうと誰かが決めて、人の体重が60㎏だとしたら60兆個になるといったのがそのまま広まって60兆個になっているようです。非常にいい加減です。
それで、10数年前に、その60兆個論に対して、そんなのいい加減過ぎると、だいたい身体の細胞も部位によって1個ずつ違うのです。人間の細胞は200種類ぐらいある訳です。1個々々の細胞密度も違うし大きさも違います。それで、ある学者が、これ1個々々の部位の細胞を分けて、より正確に調べて計算していくと37兆個。しかし、これもアバウトなのです。37兆個と誰も数えられない。そのぐらい大量の細胞なのです。
例えばこれを数えようとします。37兆。だいたい1,2,3,4,5…と数えて1秒間で3つ数えられるとします。37兆数えたら、どれぐらい時間がかかると思いますか? 大体40万年かかります。1,2,3,4,5…とズーッと37兆まで数えようと思ったら40万年かかるのです。どれだけの量の細胞が人間の身体の中にあるのかと思うと、もうとんでもない数量です。

〇私たちの一番最初の身体は何か
私たちは一人ひとり身体を使っています。使わせていただいていますが、私たちの一番最初の身体はもともと何だったか知っていますか? たぶん皆さん理科または生物で習っていると思います。私たちの一番最初の身体は受精卵です。お母さんのお腹の中での受精卵がこの身体の素であります。受精卵もたった一つの細胞です。この受精卵の大きさというものが大体120マイクロメートル、とよく分かりませんが、1ミリの10分の1くらいです。ですから、がんばって見ようと思ったら見えるぐらいの大きさらしいです。
ところが、その相方となる精子はというと、長さが60マイクロメートル、卵子の2分の1ぐらいなのです。さらに身近なものでいうと、髪の毛の太さが大体精子と同じぐらいの大きさですので、髪の毛2本ぐらいを束ねた直径の大きさが卵子ぐらいだそうです。精子と卵子とでは、大きさにそれだけの差があります。しかも精子は、全体の10分の1ぐらいが頭の部分なのです。その頭の部分に全てのDNAが入っています。ですから卵子は精子からしたら全然大きさが違います。
それが、お母さんの体内で受精して受精卵となって、2人のDNAがちゃんと折半されるのです。ピタッとくっついて、ちょうど半々です。どちらかが、3対7とか1対9とかそんなものではなく、五分五分です。完璧に半分々々になって受精されます。
精子の方からすれば、卵子にたどり着き受精をして、排卵されて、着床する頃には分裂を続けて何百個かの細胞に成っています。受精した瞬間から増えていきます。すごい勢いで増えます。それがある程度大きく成ったら、いろんな部位の細胞に変わっていき、そして人の身体の形になって、お母さんのお腹の中で成長し、栄養分もお母さんからもらうようになります。お母さんのお腹の中では、受精卵は異物になります。自分のDNAとは違う物体が入っている訳です。普通であるならば、異物を排除するために攻撃をします。異物だということを認識して攻撃をしますが、それを止める働きは、人間の体内にあるウイルスが止めているのです。身体の中にはたくさんのウイルスが入っています。その中の一つのウイルスが反応して、その攻撃を止めるのです。だから非常によく出来ています。そうした中を守られて十月十日お腹の中で育って、出産という形でこの世に生まれて来ます。
この卵子も月に一回排卵されますけれども、卵子の寿命というのがありまして、だいたい24時間です。24時間で卵子は死んでしまいます。一方精子はどうかと言いますと。精子は膣内に入って3日間くらいで死ぬそうです。まれに一週間ぐらい生きているのもいるということですから、排卵の前後2,3日の猶予があれば、受精する可能性があります。非常にタイミングが難しいのかも知れません。

〇お借りしている身体でこの世に存在している
すべては親神様のお働きであって、私たちがこの世に生まれて来ること自体神秘であります。お腹の中で育って、その身体が37兆個ある一つひとつの細胞が見事なネットワークで繋がって、全部の働きをそれぞれがしています。皮膚の細胞もあれば骨の細胞もあって、肝臓の細胞もあれば目の細胞もあって、白血球も赤血球も全部細胞です。一個々々の細胞です。同じDNAです。一番最初の受精卵から始まって、どれを採っても同じDNAなんです。形は違っても。神経細胞なんて1メートルくらいあるものもありますが、一つの細胞です。大きさも働きも皆いろいろで、私たちはその身体を自由に使っているわけです。
また、神経もすごいです。電気で知らしています。私たちは自分で身体を使っているつもりでいますが、自分で意識して動かせるのはわずかであります。反射神経でも全部知らない間、考える前に動いています。私もこうして手を動かしていますけれども、これもいちいち考えて動かしている訳ではなく、みなさん方もいま座ってウンウンとうなずいたりしている人も、うなずこうとしてうなずいていません。何か知らないけれど動いている。意識して動かしていることというのは意外と少ないのです。けれども100パーセント使わせてもらっています。行きたいところに歩いて行けます。握ろうと思えば握れます。食べようと思えば食べられます。そんな自由に使わせていただいている素晴らしい身体を一つ、私たちはお借りしてこの世に存在しています。

〇神様は、どうして身体を貸すのか?どうしてくれないのか?
少し前に上田嘉太郎先生(本部員)がどこかで「かしもの・かりもの」のお話をされて『みちのとも』に掲載されていました。その中の話で、ある信者さんが、何かの講習会で講師に「先生、神様はどうして身体を貸すのですか? どうしてくれないのですか? もらった方がありがたいんです」という質問をされました。するとその先生は「それは、自分のものだと大切にしないかも知れません。人のものを借りたら大切にするでしょう。だから、貸してくださっています」という説明を聞いて帰って来られました。
その話を聞いた上田先生は「それはちょっと違うのではないか。そんな説明はないだろう」と。私も、そんな説明をする人がいたら、それはおかしいと思います。だいたい世の中は、自分のものだったら大切にする人がほとんどです。人のものを大切にする人もいますが、どちらかと言えば自分のものを大切にするのが人間です。貸し借りという上で考えたならば、そうした理屈になってきますから、そんな理屈では合いません。何年か前の私だったら、おかしいというところまでしか分からず、ちゃんと説明できなかったと思います。
しかし、いまの私ははっきりと分かります。なぜか? それは人間の身体を私たちに一つずつくれたとしたら、その瞬間に死にます。死体をくれるだけです。神様の御守護なくしてこの身体が存在できるわけがありません。自分のものだと思っていること自体がおかしいです。今こうやって生きているこの身体というものは、神様がお働きくださっているから生きていられる。神様のお働きが付いている身体だからこそ生きているわけであって「じゃあこの身体をあげるから、自分で世話をしなさい」と言われたら、死体が来ます。そのときにはもう遅く、自分のものにしようと思った瞬間に死んでしまった。神様のお働きが無くなってしまった。だから「かしもの・かりものの理」が分かると、この身体は神様の身体。神様のお働きがあってこそ今生きている。神様の働きがあってすべてのことができます。この守護が抜けたら、この身体はただの肉の塊です。腐っていきますから、もう後焼くしかありません。ですから、この息一筋や血の流れなど、すべてのお働き付きで貸してくださっています。身体のメンテナンスも、すべて親神様がしてくださっています。それを使わせていただいています。

〇自分の思い通りにいくものは、一つもない
そうしたことを考えると、この世界中で自分たちがお借りしているものは、この身体一つしかないのです。他の物や人も、自分のものだとか、借りているものだとか、あり得ないのです。それは自分のものだと思っているだけです。私の子どもだとか、私の産んだ子どもだとか。私の恋人だとか、私の部下だとか。何か全部自分の、自分のと思うから、自分の思い通りにいかせたい。思い通りにいかなければ気に入らないと、そのように泥沼にはまっているような人たちは、おそらく、まず自分のものじゃないんだということを理解し、その訳を考えたら分かるかと思います。でも人間はあざないもので愚かなものですから、自分のもののような気がしています。自分の思い通りにいかないことは気に入らない。
ところが思い通りにいくものは、この世界中にあるわけがないのです。一つもありません。心通りにはなりますが、思い通りにはならない。思い通りにならない世界の中で、私たちは生かしていただいていて、そしてその心のあり様によって、与わってくるものも全部変わります。ですからあきらめるのでもなく、仕方ないというものでもありません。いか様にでもこの世界は変わっていきますし、自分の人生も変わります。自分から見える世界、これも全部変わります。むしろ同じ世界でも見方一つによって全部変わります。不足をしようと思ったらいくらでも不足ができますが、ありがたいことを探したら、たくさんありがたいことがあります。どんな病気になろうが、どんな事故に遭おうが、どんな悲惨なことになろうが、その中でも希望さえ持っていれば、立ち直っていける人もあります。

〇十全の守護と八つのほこりの解き分け、心の向きを正す
一方でどんなに恵まれていても、もうだめだと、心が折れてしまい、勇気がなくなり、希望がなくなってしまえば、それはせっかくお借りしている身体も病気にもなるかもしれません。また、与えていただいている結構な物事に対して、ありがたいと見ることができなくなったり、気付くことができなくなったり、そうした事態に陥ってしまうように思うのであります。私はこのお道の教えというのは、やはり何においても「かしもの・かりもの」のお話。この、身の内かりもの一つが分かって、そこからすべての物事を考えていけば、日常に起こってくるものはこの身体あっての賜物だと分かり、親神様への感謝の念が出てくるのです。どれだけお金があろうが、どれだけ立派な家に住もうが、この身体一つがなければ、使うこともできません。誰かのためにこれを使わせてあげよう、これをあげようと思うことすらできないし、感じることもできません。何よりも一番貴重なものが、この身体であります。神様が唯一お貸しくださった、この私たち一人ひとりの身体というものは、どれだけ金銭を積んだところで、もらえるものではありません。目一つ、内臓一つ、買って何億円の価値があります。そんな高価なものを無償で貸してくださっています。ですから本当にこの「かしもの・かりもの」の教えをもっともっと私たちは見つめて、その上で十全の守護を読ませていただき、そして心通りの守護と教えられるように、心の向きを正していくための「八つのほこり」の解き分けであると得心することであります。

〇親の思いをしっかりと受け取る軸を持つ
お道の教えというものは、本当にいろんな人間の考えや風習や文化など、いろんなことがたくさん混ざって「ああでもない。こうでもない」ということが、たくさん出てきます。しかしながら私は、教祖の教えとか、原典であるとか、そこにしっかりと根ざして、そして常にその教えの中に親の御心というものが必ずあり「人間を助けたい」という親神様・教祖の思いが絶対にあると思うのです。その軸をしっかりと持って、教理というものを勉強しないといけないと思いますし、その上での信仰実践でないと受け取っていただけないと思うのであります。
十数年前に見つけたおさしづに、
"さあをやの道を通りながら、をやの道の理が分からん。古き道があるから新しい道がある。古き道はをや、新しい道は子という。さあ/\だん/\に新しい道を通ろうとするで、古き道が忘れる。よう聞き分け。古き道があるで新し道という。古き道は埋めて了う。
人が障りがあればあれほこりやと言う。どうも情無い。日々の理が辛い。古き道というは、前々より固めたる。新しき道というは、雨が降れば崩れるという"
(明治二十二年十月九日(陰暦九月十五日)午前一時四十分 高井猶吉身の障りよりの刻限御話)
という、おさしづがあります。「古き道、新しき道」これは、いまの私たちも常に時代は変わりますので、「昔の先生方はな」「昔はこうやったやろ」とよく言われます。私は、そういう感覚でこのおさしづを探して「古き道があるから新しき道」と「昔があるから今がある」と、親々の通って来てくださったものがあるから今がある。だからこそ昔の通りというものは大切にしなければいけない。ということの裏付けとして、これを引用しようと思って調べていたのです。
ところがこのおさしづは、明治22年のおさしづです。教祖が現身を隠されてまだ2年です。そのときに「新しき道、古き道」とは何のことかと考えると、「古き道」というのは自ずと教祖の道となり、「新しき道」というのは、教祖が現身を隠された後の人間の道であると思うのです。この人間の道というのを「新しき道」と言って、その中で「人が障りがあればあれほこりやと言う。どうも情無い。日々の理が辛い」とあるわけです。「人が障りがあれば」と、人が身上になったら「あれはほこりだぞ」「あんなほこり積んでるからこないになるのや」と、そんな諭しをしたら「どうも情けないで、日々がつらい」と、新しき道というのは古き教祖の道ではない、ということをお諭しくださっているのだと思うのです。

〇身上をいただいたら「かしもの・かりもの」をしっかりと心に治める
私は、ズーッとそのように思っていますし、ただ病の元は心から、病は気からともいいます。ほこりが身に障り付くともありますので、心と身体というのは、必ずくっついています。「八つのほこり」は皆持っています。私自身も思い当たるところだらけであります。「八つのほこり」のどれが出てきてもおかしくありません。ただ身上(病気)になったから心を改めるというのは、身上がきっかけだと思っています。身上をいただいたら「かしもの・かりもの」をしっかりと心に治め「八つのほこり」を教えてくださっていますので、自分の心をしっかり見つめて、ほこりを払わせてもらい、また、我がいんねんを見つめることが大切だと思います。しかし、どんな身上をいただこうが「この心使いが、この身上のもと」と言われるような教えは、私は無いと思います。

〇日々神様の御守護が満ち満ちている
おさしづの身上さとしの中で、出て来るお言葉はほぼ「たんのう」です。そして「案じるな」ということです。「心配するな。案じるな」と、それよりも「頂いているものをまず喜びなさい。たんのうしなさい」というお諭しばかりであります。
ですから、いかなる状況になろうが、やはり日々頂いている御守護に対する感謝とたんのうの心がたすかりの元であり、そしてまた身上はいつかお返ししますから、どんな病でいつ倒れるかも分かりませんし、どんなことでいつ身上をお返ししなければならないかも知れません。しかし、その間までは生かして置いていただける毎日の御守護。どんな大きな身上をいただこうが、今日一日は生きているのです。親神様の御守護は満ち満ちているのです。だから、この病気が治らなかったらもう人生終わりだ、とか思わなくってもよいのです。今日という日を生かしていただいています。そうしたところに目を向けることが、私はこのお道の信仰ではないかなと思っています。

〇「大教会創立百三十周年」を意義あらしめたい
最後に、昨年末に「此花大教会創立百三十周年記念祭」の日取りをお決めいただいて、2年後の立教187年11月24日に執り行わせていただくこととなりました。そして、ちょうどその時は「教祖百四十年祭」年祭活動の真ん中の年にも当たります。この記念祭に向かう道中で「教祖百四十年祭」に向かう三年千日も始まります。
そうしたことも踏まえて、この創立百三十周年という節目に向かって、此花全体の信仰成人のひとつの吉祥とさせていただくことによって「大教会創立百三十周年」というものを意義あらしめていきたいと思っています。
一人ひとりもそうでありますし、一つひとつの教会もみな違います。今の状況も違いますし、信仰度合いにおいても違います。しかし、同じ教えを信仰し、そしてまた、同じ教えを伝えていく教会におきましては、やはり今日より明日、明日より明後日。去年より今年、今年より来年といったように、確実にこの記念祭に向けて信仰成人の歩みを進めさせていただきたいと思います。
私たち自身もそうですが、信仰をしっかり深め、そして身の周りの方々、普段顔を合わすような人たちもそうでありますし、ご近所の方々もそうでありますけれども、そうした方々の中に、おたすけを願っている人、たすけてほしいと、話を聞いてほしいと、思っている方もたくさんいらっしゃいます。そこにしっかりと目を向けて、教祖のようぼくとして親神様の教えを伝え、たすかっていただけるよう願い、私たち自身も、おたすけいただく道をしっかりと付けさせていただきたいと思っています。

〇「みちのこ日めくりカレンダー」で一日一つの陽気ぐらしの習慣を
具体的なことは各教会ごとに、または個人で考えて歩みを進めていくことになろうかと思いますが、最後に一つ宣伝と申しますか、この記念祭に向かっての歩みの一助として、1月25日から少年会本部より頒布されます「みちのこ日めくりカレンダー」をぜひ活用させていただきたい。
今、私は天理教少年会本部の活動推進部長という重い役を頂いて務めさせていただいていますが、このコロナ禍の中で、少年会の活動方針を打ち出したものの、一体どのように推し進めて行くのか、具体的に陽気ぐらしの実践を皆がしやすいようにするにはどうしたらいいかな、と考えたときにひらめいたのが、この「みちのこ日めくりカレンダー」であります。少し名称が長いですが『親子で!家族で!教会で!毎日コツコツみちのこ日めくり~むしさんと学ぶ陽気ぐらしの習慣~』というタイトルです。
作ろうということになってから、売り出すタイミングも考えて、結局この1月にしましたので、制作におよそ1年ぐらい掛かっています。この日めくりカレンダーの内容は、子どもでも実践できる教えをいろいろと挙げています。もちろん大人も一緒にできるものでありますし、むしろ大人も実行していないと、子どもに信仰を伝えるものが無くなってしまうようにも思います。
ですから、この名前にあるように、親子で、家族で、また教会で、毎日コツコツできることをコンセプトとして『リトルマガジン』のほんわか村に出てくる虫のキャラクターと学ぶ、陽気ぐらしの習慣ということで日めくりカレンダーを制作しました。一日一つの陽気ぐらしの習慣、今日はこれをやりましょう。気を付けましょう。ということを一日一つずつ出てくるようにしているものであります。
一部250円という超破格です。道友社の日めくりカレンダーは770円します。一部250円ですので、1000円で4つ買えます。どうぞ1000円で4つ買っていただいて、皆さん方の家庭に、そしてまた信者さんの家庭であるとか、一人暮らししている人に「みちのこ日めくりカレンダー」をお渡ししていただいて、陽気ぐらしの習慣を身に付ける一助になればと思います。
ちなみに「みちのこ日めくりカレンダー」は少年会本部から出版されますので、少年会長である真柱様にも企画案の段階から文章であるとか、トピックであるとか、度々ご覧いただきました。全部で7・8回は見ていただいて、毎回々々1時間30分ぐらいに亘って、いろいろなご意見もいただきました。そうして出来上がったものであります。真柱様監修と表記されてはいませんが、そうした大きな親心を頂いて作られたものであることも、付け加えて宣伝をさせていただきます。

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