春季大祭神殿講話(要旨)       大教会長 田邊大治


 立教187年大教会春季大祭が、1月23日に執り行われ、座りづとめ・十二下りのてをどりが陽気に勇んでつとめられた後、大教会長様が神殿講話に立たれました。

春季大祭と教祖年祭の意義


 大教会長様は、教祖十年祭の3カ月前に伺った一連の『おさしづ』を取り上げられ、とくに教祖十年祭の日取りに関連する『おさしづ』に基づきながら、春の大祭と教祖年祭との意義の相違について、分かりやすく説明されました。
 「さあ/\二十六日はこれ存命からつとめをして居る。二十七日々々々々、皆んな心を合わせにゃならんで/\。
            (明治29年2月29日)
 ……二十六日というは、始めた理と治まりた理と、理は一つである。後先二十七日と又一つの理を諭したるは、二十六日は年々の大祭として、前々変わらんと言うたるは分かろうまい。……さあ/\二十六日は夜に出て昼に治まりた理。十年祭は後でも先でもだんない/\。いずれも一つの理に治まりて了うのやで。」       (同上)
 大教会長様は、「26日は、元々は大祭である。教祖が現身を隠されて、存命のまま世界たすけの上にお働きくだされているという理合いがある。その親心にお応えしたいというのが教祖の年祭であり、それは26日の後でも先でも同じ一つの理にする。また年祭は子供のすることだから、心を合わせて通ってくれるのなら全部受け取る、といわれ、これは今も同じである。現在、26日の大祭のその日に年祭をつとめてくださっているが、その日のおつとめ自体は大祭であり、祭式が年祭という具合に受け取らせていただけばよいのではないか、と悟っている」と述べられました。

いかなるふしも ひながたとして通る


 続いて、今年元旦に起きた能登半島地震や、世界の事情であるウクライナやパレスチナの惨状に触れられ、「天災、人災は、親神様が心苦しく、不甲斐ない、残念な思いで見ておられるふしである。ふしは、一般的には忌み嫌われるもので、できれば避けたいものであるが、天理教の教えでは、『ふしから芽が出る』とお示しくだされている。ふしの受け取り方、通り方を教えてくださっているので、それを通して成人させていただくということが信仰上一番大切なことである」と述べられました。
 さらに、教祖のひながたのふしに言及。昨年の秋季大祭で真柱様が、「教祖のひながたの中でのお言葉、御態度、御行動を参考にして、道を求めることは大切であるが、50年の長きにわたって、いかなるふしがあろうと、その中を貫き通されたというそのお心を、ひながたとして通らせてらせていただくこと」。その根底にある精神をたどらせていただくとともに、親の思いに近づかせていただくというのもひながたであると思う、と話されました。

教祖、本席様のひながたの意味合い


 さらに、『諭達』に記されている有名な『おさしづ』(明治22年11月7日)の全文取り上げられ、教祖のひながたをたどることの意味合いについて諄々と分かりやすく諭されました。
 また、「ひながたそばにある」「ひながたと思えばなか/\の理がある」といわれるように、本席様・飯降伊蔵先生の道すがら、伏せ込みも一つのひながたであると諭され、本席様の伏せ込みのあり方を、『おさしづ』、『教祖伝』、『逸話編』をもとに親しく説明されました。
 さらに、この『おさしづ』に出てくる「三年千日」という言葉は、教祖五年祭に向けてのものではなく、それはたすけ一条の上の一つの伏せ込みの期間であると強調され、教祖のひながたの道に沿って伏せ込んでいくことが私たちの信仰である、と述べられました。
 最後に、「ただ今は、此花の先人の先生方が通られた道、そして、教祖、本席様が示されたひながたの道を心に置いて教えを実践し、成人を目指す旬である。11月24日の大教会創立百三十周年記念祭に向けて、さらに年祭活動の中でのひながたを求めてつとめさせていただきたい」と話され、講話を締めくくられました。

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