劇場アニメ「映画大好きポンポさん」を観たヨ~!感想とか書くヨ~!

ポンポさん映画と漫画両方について中身を言及しているヨ。
ネタバレあるヨ。


「三重構造」の気持ちよさ

今作は「見方の姿勢」によって大きく評価が変わる作品だ。
劇場アニメ「映画大好きポンポさん」は徹底した「三重構造」を意識して製作されている。
「劇中映画であるMEISTER(マイスター)」と「それを制作するポンポさんたち」と「劇場版アニメとしての”映画大好きポンポさん”自体の構図」だ。

・ジーンとダルベールの同一性

作中の基本的な表現そのものは「マイスター」と「ポンポさんたち」の対比や同一視、同一性の確認で進行する。特にジーン監督が主役ダルベールに「自身の映画への想いの同一性」を感じていることは漫画以上に分かりやすく丁寧に表現されている。というより漫画でのポンポさんは「そこ」の部分は「一側面」的な扱いであったのをメインにピックアップした形となっている。

「他の何を捨てても自分にはそれしかない」

元々マイスターは「ジーンが監督すること」までを前提にしたあてがきであり、ダルベールはマーティンが演じつつもジーンによって掘り下げられることが前提となっている。

「周りの景色なんか見えてない」

ジーンが(漫画版においては、他の誰よりも)ダルベールを深く理解していることを端的に示す原作からのエピソードだ。

(劇場版においてはキャスト、スタッフの多くも「ジーン監督の演出」から推察してダルベールたち登場人物への理解を深めるシーンも肉付けされている。「みんなも意見を出そう」という漫画版からあるマーティンの台詞を補強する良いシーンだ。)

ダルベールの排他的/求道的/オタク的なパーソナリティを通して、ジーン自身の没入的/サイコパス的/オタク的なパーソナリティが表現されていく。物語と人格が次第に明らかになっていくことに「同調(シンクロ)の美しさ」を感じられる構図になっている。
美しさという表現を使ったが「二つの物語が同じ一つのことを示すことの美しさ」は「込められたメッセージへの感情的な高ぶり」というより数学の方程式がシンプルな黄金比へ帰結するときの感想のような「整然としたものへ納得」に分類されるものだ。

これを理解・納得することの快楽はその後の「追加シーン」のカットで最高潮を迎えることになる。

・追加シーン(1)

今回、「追加シーン」と表現することで示される要素が二つある。
「マイスターの追加シーン」と「劇場版アニメとして”映画大好きポンポさん”自体の追加シーン」だ。
いわゆる「原作にないオリジナルエピソード」に当たる部分である。

「マイスターの追加シーン」とそれにまつわるポンポさんたちのエピソードは漫画「映画大好きポンポさん2」のメインエピソードを「1」に習合する形で改変したものだ。
(だから劇場版は「おおむね1と、多少の2の映画化」という表現が一番近い。)

「キャラクターをより掘り下げるために脚本(オリジナル)にないシーンを入れることの必要性と難度と葛藤と決心」というシーンを導入することで、観客はその後に展開される「映画大好きポンポさん自体の追加シーン」にも全く同じように「キャラクターをより掘り下げるために必要であったこと(そして導入への葛藤があったこと)」だと理解することが容易に出来るようになっている。

また「ナタリーとミスティアの関係性」も漫画版よりも明確に補強されていて、「ナタリーというキャラクター」を理解する上で役立つ動線が完成している。

・整理された構成

他にも細かいところで「序盤のナタリーの動き」が異なるところがある。
劇場版ではオーディションの合格は1:1で実施されており、ジーンとの初対面のシーンが後ろにズレこんでいる。これによってジーンが「シー・イズ・リリー!」(多分こんな風に言ってる。)と衝撃を受けるシーンがより強調されるようになっている。

こうした前後の整理が細々とある。

・漫画版と劇場版それぞれの「映画大好きポンポさん」の作品的性質

追加シーンを含め、劇場版での「マイスターの編集シーン」は原作と比較してかなり肉付けされている。「ダルベールが楽屋で傲慢に振る舞うシーン」はジーンが編集に悩んだ部分として繰り返し登場する。

この楽屋のシーンでのジーンの台詞が「漫画版」と「劇場版」がそれぞれ別の魅力を持つ作品であることを強く示している。

「観客が飽きるから台詞は説明的であってはいけない」

劇場版ではジーンはダルベールの台詞を「説明」から「気迫」へと変換する作業に没頭した。
そもそも漫画版ではここに相当するエピソードはない。
「漫画版の映画大好きポンポさん!」という作品は漫画ジャンルの中でも「説明」が多い作品であり、その「オタク的説明」の部分でも精度が高いことで評価を受けている作品である。
漫画版ではマイスターのエピソード自体も「ジーン君の初読み」の時点で概ねのあらすじが「説明」されている。こうした「説明」の良さを主張した漫画版で「説明シーンはカット」のエピソードをやる場合は、表現していることと漫画の表現の間に相互矛盾に近い現象が起きてしまい、説得力を欠いてしまう。
劇場版だからこそ追加できる(表現を変更できる)部分だ。
これは明確に「観る媒体」と「読む媒体」の特性の違いを活かしている。
映画モチーフの作品を映画という形で製作するにあたって「漫画版の絵をただ色と音をつけて動かすだけ」はしないという製作陣の強い想いの表れでもある。

また個人的に「映画版の方が弱かった点」としても、ここが挙がる。
漫画版も劇場版も「ポンポさん以下全ての登場キャラクターはそもそも映画オタクなのだが、ジーンが突出して映画しか自己同一性を感じているものがない」という前提がある。
ただ劇場版ではジーンが「どのくらい映画オタクなのか」を観客が知るのは登場から大分経ってからだ。漫画版では各キャラは登場とともに「自分の好きな(実在する)映画3つ」がポップアップされて、1コマで「うわ、こいつオタクじゃん!(喜)」という瞬間理解が出来るようになっている。これは説明の巧さと漫画という媒体の強みからなる演出で、商業映画には不向きなのは間違いない。
(先日、ポンポさんが好きな映画として挙げている「デスプルーフinグラインドハウス」を観たが、良かった。)

劇場版でほぼ唯一タイトルが出た「ニュー・シネマ・パラダイス」は登場キャラクターに「嫌い」と明言される使い方(もちろん、「名作」であることは全体の共通認識での取り扱いながら。)を許可していてすごいなと感心した。
(漫画版でのここのやりとりの大部分がカットされたのも、キャラクターたちの「オタクみ」が若干薄まっている要因だ。)

・追加シーン(2)

この「漫画版との違い」は、劇場版オリジナルキャラクター・アランとジーンとの再会からはじまる「劇場版アニメとして”映画大好きポンポさん”自体の追加シーン」で誰の目にも明らかな形で表現されることになる。

この追加シーンは「マイスターでの表現とジーンの同調」から少し離れ、「ジーン自身とマイスターという作品そのものにフォーカスが当たる」形で進行する。
少し穿った言い方・見方をすると「原作の良さとは若干毛色の異なるエピソード」が進行する。

言い方を変えるとこのエピソードは「映画という媒体の良さ」を強調した部分であり、劇場版「だからこそ」出来る(あるいは、映える)ものだ。
具体的には映画が「劇場版」と呼ばれるように、この作品は劇場で期間を設けられて公開されるものであり、具体的には2021年6月4日から公開されている。
ポンポさんは現代劇だ。必然、舞台は2021年「ごろ」となる。(製作は2020年だ。)
対して漫画版「1」は2017年7月、4年前に投稿・公開された。必然、漫画版の舞台は2017年「ごろ」となる。現代劇において4年という年月は決して短くない。「4年前に当年の新しいこと」を表現していれば、今ではそれは「4年前の旧いもの」だ。
「与えるインパクト」を大事にする場合、「4年前に新しいこと」を表現していたら「今年の新しいこと」で表現しないといけない。(テーマによっては素材の変更が必要ないこともあるし、4年という期間では殆どなにも変わらないジャンルもあるが、映画やコンテンツの制作というジャンルはこの数年で明確に大きく変わった。)

追加シーンで「銀行融資とクラウドファンディングの併用」という「2021年を現代と呼ぶからこそ相応しいシーン」を挿入することで、この「4年の違いを埋めるエピソード」にもなっている。

こうした内容は「時事(性)」とも呼ばれるが、「特定の年代の現代劇」を細かく表現するのに、公開期間が限定される映画という媒体はとても相応しく、映画というコンテンツを商売的な側面からも作品的な観点からもそれぞれテーマにするポンポさんがこれを実施するのは「作品と合致している」と強く感じた。

・「死んだ目」をポンポさんに見いだされ、自らも求めたジーン

劇場版におけるキャラクターの掘り下げは基本的に「肉付け」(その他の表現を厚くし、分かりやすくしたもの)が多いが、一か所だけ勘違いされやすいと思った場所があった。
ジーンのモチベーションのところだ。

ポンポさんは経歴も何もないジーンを「目が死んでいるから。目がキラキラしたやつにクリエイターは出来ない」という理由でクリエイターに向いていると直感し、採用した。

やがてマイスターの製作が比較的順調な過程でジーンと再会したアランは「目がキラキラしてる」と告げて別れた。

その後、ジーンは「何かを捨てなければ何かを得られない」とダルベールに「言わせる」。

「自分には映画しかない。」

マイスターの撮影を経て無意識のうちに「満足のピンクの海」に浸かろうとしていたジーンを、アランの一言が「貪欲なクリエイター」としての性質に戻していた。

ここらへんの流れはジーンが言うところの「説明はせずに刺激的なシーンだけ」で構成・表現されたため、ジーンや物語自体にちぐはぐさを感じる人も出てくるかなと感じた。
(実際、そうした感想を見かけた。)

誤解されず、かつ冗長にならない「皆にとっての説明の適量」は常に難しい。

・音の配置(1)声優陣

また漫画版と劇場版の大きい違いの一つとして「音」の存在は欠かせない。特にキャラクターの台詞言葉を声にする声優は非常に大きい影響を占める。
アニメにおける声優は実写映画における俳優陣だということを踏まえると、今回の配置は「マイスター」の俳優陣のオマージュ、そして(決して公式から明言されることはないにしろ)「2」のバトル回でポンポさんが採用した手法に近い配置となっている。
「ダントツのベテラン」である大塚明夫と新進気鋭の声優たちという配置だ。特にナタリーの声優、大谷凛香は声優業をメインにしていないタレントだ。
専業声優が多数いる現状にあっては絶対に「万人に良し」とは言われないキャスティングだが、「ナタリー自身が演技に不慣れな中で感性によって主演に抜擢される」というエピソードを踏まえた上で「コンセプト」を大事にしているのだと感じた。
(大谷凛香の演技が下手とかいうニュアンスはない。「ちゃんとしてる」と思った。)

・音の配置(2) 劇伴

「歌とはなんぞや」

自分が音痴かつ音楽に対する教養も特にないので、「曲の良し悪し」は本当に全然分からない。
その上で、終盤の挿入歌に関してはクオリティの為のチョイスではないのかなと感じた。
「ポンポさん」は仮想ハリウッドが舞台であり、登場人物たちにジャパニーズはいない。
さらに「マイスター」はクラシックのオーケストラ指揮者が主役であり、絶望に打ちひしがれた天才がカントリー娘と出会い気持ちを取り戻す物語だ。
その物語の編集の最高潮に流れるのが「バリバリのイマドキの歌詞つきのJ-POP」なの、目ん玉飛び出るくらいビックリした。
あまりにも作中のエピソードとの関係性が見いだせなかった。
友人は「角川らしい」と言っていたので、そういうことなんだと思う。
じゃあどんな曲が流れてたら良かったのと聞かれても困るので、日本語の歌詞がハッキリ聞こえるようについてると「聞こう」としちゃうなあと思った。くらいでまとめておきます。

・冷静と情熱のあいだ

この劇伴が流れて最高潮となるシーン自体は「熱い」ものを感じさせる箇所だ。
作品のテーマの一つが、ジーンの「オタク的情熱、熱狂、没入」にフォーカスしていることもあり、「ポンポさん」の全体像をとらえる上でも欠かせない要素になっている。

ただ劇場版を観る上では、やはり冒頭で述べたように「マイスターとポンポさんたちと劇場版としての三重構造」の視点を持つとより分かりやすくなる。
「パズルが組みあがることの快感」に近い「同調の美しさ」や「納得」が「熱狂(没入)の気持ち良さ」と同じくらい大切な要素として作品を仕上げている。

これは別媒体に原作を持つ再生産的な創作物だからこそ表現できる「強み」であり、ハイクオリティで「そこ」を仕上げたところが「劇場版」として最大限評価されるところだろう。

・作画

最後に、「画」の話。
ポンポさんが原作の絵のまま動く。少し癖を感じるCG加工だが、安定している。
(原作の絵の勢いに相当する多少の「粗さ」を表現するために、デジタル加工線がちょいちょい出るのはちょいちょい凄いなと思った。)
印象的な箇所として、「ナタリー」がフォトジェニックにジャンプして水溜まりを踏むシーンがある。ここも原作の絵の質感を活かしつつ「色」を乗せて、映画的なシーンにしている。個人的な「好み」とはしては「水」の表現はもう少し写実的な方が好きだけれど、完全に好みかどうかだけの話だ。
(近年だと「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」TV版の「水のシーン」は良かった。)

もう一つ、ジーンの2度のデジタル・カット・アンド・ペーストの「画」も劇場版ならではだ。これはペーターゼンのアナログ・カット・アンド・ペーストのシーンと表現的にも意味的にも強烈なコントラストとなっているから、デジタルであればあるだけ良いという判断だったんだと思う。
「アニメ的過ぎる」という言い分があれば、それもそうかなと思うけど中々画の動きが少ないシーンなので、ここで「動きの尺」を稼いでそうな感じは強い。
(バランスを見て判断しているのだろう、という意味で悪い意味ではない。)


・総評

この映画の一番良いところはもちろん本編が90分なところだ。
漫画版ではどうしても実施できない「三重構造」の最初にして最大の1ピースだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?