愛すべき娘たち

「好きな漫画」を聞かれたときにほぼノータイムで答える4作がある。
「愛すべき娘たち」、「外天楼」、「ガラスの仮面」、「昂」

今回はおそらく知名度が最も低い「愛すべき娘たち」について紹介したい。

「愛すべき娘たち」はよしながふみの2003年の著作だ。彼女の作品はなにかしら読んだことある人、映像化作品を見たことがある人は多いだろう。
現在の代表作は「きのう何食べた?」「大奥」だ。
過去には「西洋骨董洋菓子店」も映像化され高い視聴率を記録している。

他にも「フラワー・オブ・ライフ」も素晴らしい名作だし、「きのう何食べた?」の前身にあたる「愛がなくても喰ってゆけます。」からして作品の本質的な面白さは抜群だ。

「1限めはやる気の民法」や「西洋骨董洋菓子店」のように続きやスピンオフにあたる作品を限定部数の同人誌(自費出版)で発表することも多く、全ての発表作品を網羅的に読むのは大変な部分もあるが、少なくともこれまでの全ての商業作品は「全般的に安定した非常に高いクオリティ」で発表されている。

それはデビュー作にあたる「月とサンダル」から変わらない。特に「人間の内面の描写」においては常々右に出る人はいないクラスだと感じている。

※作画に関しても非常に安定してぶれない高い技術を持つが、シンプルな主線で描かれることが多く、「描き込み」のような要素が殆どない点は好みが分かれるところだろうか。

この「人間の内面の描写」において一種の真骨頂を極めた作品が「愛すべき娘たち」だ。


短編連作(オムニバス)形式の単巻全五話の作品であり、一コマ一コマに込められた情報量がシンプルな絵柄とは対照的にとても多い。

よしながふみは「無言のコマ(背景一色、登場人物一人、心理描写も言語化されていない)」を多用するが、そのコマを見て「その無言の登場人物と同じ感想や衝撃を読者が抱ける」ような「理解への導入線」が必ず直前の流れの中に設定されている。
そしてその無言のコマの人物の「表情」は必ず繊細かつ緻密だ。

逆に言うと「行間や表現を読み取ること」をかなり読者に求める作者であり作品群だが、その行間の示し方が抜群に巧い。「愛すべき娘たち」も全体として言葉少なく進むので「行間の読み取り」はよしながふみ作品に慣れていないと少し難度が高い部分があるかもしれない。
※「きのう何食べた?」では心理描写や情報描写を活字作品のように多用するコマと無言のコマを併用することの対比で新しい「行間の表現」方法を見いだしている。

「愛すべき娘たち」はタイトルの通り「(母)親と娘」の関係性を中心にした「家族」の在り方、また「愛情」そのものの在り方を示した作品だ。

少し具体的に中身に触れて紹介していこう。

「第1話」

母子家庭の娘側の視点で物語は進む。

学生の頃、「機嫌を悪くした母」に

「親だって人間だもの」

そう伝えられた娘は衝撃を覚えつつもそれに納得する。
(この「衝撃を覚えつつも納得するコマ」も無言だ。良い。)

母子は互いを尊重しつつ一定の距離を置く関係性でありながら長い同居によって安定していたが、ある日、母の衝撃的な告白によってその関係性に大きい変化が訪れる。

第1話は「主人公視点となる娘」の「無言のコマ」が他にも比して非常に多いエピソードだ。
「完全な無言」とは別に、「絶句」を示す「…」のコマも合わせると、誇張なしに1ページに1回ずつくらいある。

それは娘の関与によらず環境が変化し、物語が進行していくことも示している。視点は娘だが「この物語(環境と関係性の変化)」の一番の主人公は娘ではないだろう。
物語に対してこの娘がなにを考えどう気持ちを変えていくのかを焦点を置き、丁寧に描いたエピソードだ。

母と娘の他に主な登場人物が”もう一人”いるが、その人物もとても魅力的だ。言葉少なに変化する娘に対し、自らの内側や気持ちを言葉に乗せる人物であり、「母と娘」「娘と”もう一人”」「”もう一人”と母」「三人」この四つの対比性と物語の結びが肝となっている。

「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」

「第2話」

男性大学講師と女子生徒の関係について、講師側の視点で物語が進む。
生徒に「特徴的な方法」で好意を寄せられた講師はその対応に苦心し、友人に相談する。
講師は「講師と生徒」という絶対的に不平等な関係性について危惧を抱きつつも、少なからず生徒への興味を抱き始めるようになった。

「互いの尊重」が言外の基礎にあった「第1話」と異なり、「第2話」はこの「絶対的な不平等」を軸に物語が進んでいく。

そもそも「不平等」は「平等」がなにかを定義した上でそうではないということを描く必要があり必然的に沢山の情報の描写が必要だが、「第2話」では「第1話の登場人物たち」を相談相手の友人という形で脇役に配置して彼女らが客観的に関わることで「不平等の表現に必要な情報」を必要最小限かつ分かりやすく示している。

そして視点者である講師にとってもその不平等は直近で解決すべき課題として分かりやすく目の前に積まれることになり、「どのように解決したのか」、そして「物語はどう結ばれたのか」が肝となるエピソードだ。

この物語は主人公と視点者が同一人物であり、「自身の関与」によって環境が変化し、物語が進行した。

全五話唯一男性が視点となった回であり、物語の構造そのものは最もオーソドックスなものかもしれない。

物語の内容的には他の四話と関係する部分は最も薄いように見えるが、他の四話で物語をまとめて「一方的であったり偏向的な表現であったりする作品」とならないように、オーソドックスな部分を意識しつつ、特に「第1話」と対比されるように描かれている。

「第3話」(前後編)


唯一の前後編作であり、この「愛すべき娘たち」の最も根幹となるエピソードだ。

物語は一般に「行き遅れ」とも表現される女性の視点で進む。雑談相手の女友達からも「何故結婚できないのか」と不思議がられるほど彼女に欠点はない。可愛らしく美しい見目と、人を慮る慈しみと適切なコミュニケーション能力を兼ね備えており、いわゆる「男が嫌い」という類でもなかった。

その不思議は女性の親族にも及んでおり、気の利かせた親族のおばが女性に今時珍しい「見合い話」を持ってくることで話は進み始める。このおば、いわゆる「口数の多い世話焼き」だが同時に「女性を気遣う」描写の細やかさが素晴らしい。
女性の側に立ち、意図を汲み、「彼女の幸せ」を願っていることが本当に良く分かる。

「やっぱりね」

このシーンに特ににじみでている。

実際に薦められた見合いを受ける中で女性は「自身の価値観」に対して自覚的になっていく。
この女性の内側(価値観)の掘り出しが「第3話」の肝要だ。

見合い相手の言動に対して女性が「どう受け止めた」のか「なにを考えているのか」は言葉にされず、ほとんど文字にもされない。推察は出来るが分かりにくい、あるいは分からないようになっている部分が多い。

間に挟まれる女性の人柄を示すエピソードも加えて、読者は女友達や親族と同じような「不思議」を大なり小なり女性に感じることになるだろう。

ところが女性は突然の障害に突き当たることになる。そこで初めて女性が「どのような価値観なのか」が明示される形になる。そして読者のこれまでの不思議もやわらかく霧散する。
「愛すべき娘たち」のタイトルが示すものも見えてくる。

ただ、物語は「ここ」からだ。「ここ」から「結び」までの展開がこの作品なのだ。
同じメッセージをどう受け止めるのかが「価値観」の違いなのだとすれば、受け止めた結果どう行動するのかが「価値観に準じる」ということだ。

「愛すべき娘たち」は全編を通して登場人物の「価値観」と「価値観に準じること」に注目を置いた作品だ。

途中、第1話の娘が女友達として現れ、女性とかけあいをするシーンがある。
ここの娘は読者の代役でもある。女性は読者とかけあいをし、自らの価値観と価値観に準じることとはどういうことかを実際に示してみせた。

第3話にも女性の他に重要な登場人物が”もう一人”いる。第1話の”もう一人”同様、こちらもとても魅力的に表現されている。女性の価値観を読み取るのに欠かせない役割であり、かつ、その人が示す自身の価値観にも強い引力がある。二人の価値観は対比的というよりも親和的だ。この親和性(と、それが同じではないこと)が第3話のエピソードの肝だ。

「第4話」


第1話の娘の日々の描写から始まる。娘は中学生時代のことを思い出し、仲の良かった二人の友人「佐伯」と「牧村」に想いを馳せ、久しぶりに手紙を出すこととした。

当時の三人のやりとりからはじまり、「佐伯と牧村の現在に至るまでの物語」が紡がれる。形式としては「佐伯から見た牧村」の話だ。

牧村は賢い女子だった。加えて、今でいう多様性や男女平等参画について一家言を持っていた。佐伯はそんな牧村のことを攻撃的だと笑いながらも敬っていた。
そしてそんな話をシロツメクサの花冠をつくりながらのっぱらでしている彼女たちの様子はとても女性的でもあり、言葉と仕草の対比のシーンだ。

今回の物語の主人公は佐伯だが、カメラが佐伯に当たる機会は限られ、牧村の断続的レンズを通してでしか表現されていない。逆に言えば佐伯が牧村のレンズの前に登場する際には必ず発言を伴っている。
「無言」を活用した第1話に対し、佐伯は「発言」によって人物像が形成されていた。
しかし発言が多いからといってその人のことが分かりやすいというものでもない。
発言も無言も同じくらいものごとを伝えるし、隠すし、嘘をつくし、本当のことを伝える。
佐伯の「本当」はどこにあったのか。

第3話の「価値観とそれに準じること」を主軸にした女性とも対比的だ。
第3話のサブテーマを端的に「理想」とまとめるなら、第4話のサブテーマは「現実」だ。
「現実」の中で牧村は生きていた。

最後に時代は今に戻り、牧村のところへ娘からの手紙が届いて終わる。

「最終話(第5話)」


「周囲が必ずしもフェアにいてくれると思ったら大間違いです」

第3話は「愛すべき娘たち」という作品の肝要だが、第5話は登場人物である彼女たちにとっての肝要のエピソードだ。

第1話の主人公であった母、娘、そして母方の祖母の三代にまつわる話が描かれる。
引き続き視点は娘だがこれも物語の軸は母だ。ただ祖母の登場によって母は「(祖母にとっての)娘」にもなる。


「母から娘へ」「祖母から母へ」「祖母から娘へ」

第1話が対等、平等な相互に線の伸びる関係性あったことに対比し、明確に上下の位置づけのある関係性が表現される。

特に祖母と母の関係は、母からすれば(話を聞いた娘から見ても)「良いもの」ではなかった。祖母の幼かった頃の母への振る舞いを「虐待」や、今時の「毒親」だと表現することも出来るほどだ。

この祖母、母、娘の上下関係は「愛すべき娘たち」で描かれるなかでは最も普遍的な関係性であり、多かれ少なかれ近しい状況であったり似た関係性を観たことがあったりする人が一番多いエピソードだとも思う。

では、祖母は「悪人」だろうか。これに「悪人だ」と呼ぶ人も一定数いると思う。
でも「省みれば行き過ぎた部分もあるが、子を思ってのことであり、悪い人ではない」と考える人も多いのではないだろうか。特にそのときの判断の功罪がその場で判断しにくい育児についてはありがちな評価だろう。
(僕個人が作中示された部分の祖母の育児方針を受け入れるものではない。)

「まとめ」

「価値観」や「愛情」と呼ばれるものと、それを発露する「価値観に準じること」やより具体的な「恋愛・結婚・育児」という行為に至るまでの「違い」の部分にフォーカスが当たった、とても繊細なテーマの作品だ。

僕は初めて第3話を読んだときに目の前の世界の解像度が明らかに高くなった感動に泣いてしまったし、何度読み返しても"ク"るものがある。

仕事観、生活観、恋愛観、そして人生観。すべてに大きい影響を受けた。(この「影響」自体も作中のテーマでもある。)

ぜひ読んでほしい。



(一度読んだ人向け)

これ以降はネタバレあるというかエピソード前後のある考察なので本編読んでから見てください。佐伯と牧村の区別のつけようがなかった第4話以外はあえてキャラクターの名前も伏せてますがこれ以降はおおむね作中呼称で表現しています。



「第1話」(ネタバレあり)

麻里(母)は自分の母(祖母)が自分と弟に対して平等(フェア)でなかったことを強く恨んでいた。娘の雪子に対しても「フェアではない」と自覚的ながら、そう対応している。
肌と歯の指摘に関しては刷り込みの領域であり、麻里個人から祖母への恨みはない。恨みがないなら良いという話ではなく、「呪(のろ)い」の類だ。

ただ麻里はこの「呪い」を解いてくれようといている人と出会いパートナーとなった。
第1話と第5話で大橋は気持ちを込めて「綺麗だよ」と伝え、母の呪いを解くための努力をしつづけていることが分かる。
自分の母(祖母)が娘(麻里)にかけた呪いは、麻里の娘の雪子には解けない呪いであった。

特に大橋は気が利く。この「気が利く」「気を遣える」という表現はよしながふみの武器の一つだ。読者の「気が利く」と少しずれたら違和感が強くなる項目だが、「気の利かない」とされている第三者(今回は雪子)を置くなどして「気が利いている」ことを端的に示している。

またキャラクター・人物像の説明に「既存実在の作品がどのように好きか」を示す手法も好んで使う。これを存在しないタイトル(パロディタイトル)にしてしまうとぼやけてしまう。
最近の作品だと「映画大好きポンポさん」などでも分かりやすく使われている手法だ。
第3話の映画のやりとりもそうだ。
雪子も次第に大橋の魅力に気づき「感じのいい青年」だと表現する。

雪子が「似合わない」と言ったのはもちろん麻里の髪型のことではなく「似合ってるよ」と言われて「ありがとう」と笑顔で返したやりとりのことだ。家にも、そして麻里と大橋の関係性のなかにも自分は不要なのだと雪子は感じた。

そして最後に麻里はそんな雪子の想いに触れ、第1話は終わる。

「第2話」(ネタバレあり)

単体で見て好みかどうかでいえば全然好みではないエピソードだ。
(というか単体だと弱いエピソードだ。)
それでも上で書いたように必要なエピソードだ。

滝島は作中最も分かりやすい形で多くの人から「呪い」をかけられている。
「呪い」がどういうものかを説明してくれている。
「あたり空気読めない女なんで、叱られたりぶたれたりしないと分かんないんです」と言うように自分のことを最も底辺に感じており、あらゆる呪いをかけられることに生きる意味を感じ、痛みに喜びを覚える。(精神的マゾヒズム)

キヨにはそれが理解できず、滝島の求めない対応をした。滝島に精神的パートナーであることも求めたキヨからすれば応答を間違えたことになる。

最後に滝島の隣にいる男は「何やってんだよ、バカ、のろま、グズ、ブス」と滝島を謗るが、今の滝島からすれば自分のことを理解し、現状を説明し、美醜の価値が一致し、自分より賢く、案内してくれている、「丁度良く優しい」人だ。分かり合うという点ではキヨよりも明らかに適任だろう。

今回の文章を書く上で他のエピソードと同じくらい読み返したけど、やっぱり全然好みではないが必要なんだなという感想に落ち着く。

「第3話」(ネタバレあり)

祖父の道徳話から話は始まる。とても普通のことを言っているが、莢子の「価値観と価値観に準じること」を決定的に方針づけた一言だ。

繰り返しになるが第3話で示される「価値観」とはなにかが作品全体を占める構成要素なので、登場人物たちのやりとりが壊れない範囲で分かりやすく導入線が引かれている。
台詞「本当に好きな人」の強調などだ。

序盤の見合い相手を断りつづける理屈(本質的にはミスリードだ)も表現される。(ホテルはともかく)「怠け者」や「苦手」という表現を使い、世界を隔てているからだというように読み取れる。
(繰り返しだがミスリードであり、そもそも莢子は無自覚的に結婚をする気がない。)

親族から見ても莢子と祖父は異端だ。更に言えば「全体の幸せ」のためにマルクス主義となり後続を育てた祖父だったが、その祖父からみても莢子はより本質的に「全体の幸せ」の部分に近づいていた。

あと、映画の会話シーンは多少補足が必要だと思う。

「ライフ・イズ・ビューティフル(’99)」と「アンダー・グラウンド(‘96)」は当時からみて「少し前の良い洋画」の代名詞であり、そこから話題が膨らんでいく。
「ミツバチの囁き(’73)」はいわゆる「映画オタク」に受けが良い。(と友達の映画オタクが言っていた。)これにも莢子はレスポンスが良いことで不破は自らの価値観を示すタイトルとして「ハッシュ!(’01)」を挙げた。

日本映画であり「ゲイカップルと子どもが欲しい女性の相互関係性」の話だ。
題材も含め、これまで挙がったタイトルに比べて「観る人の価値観」によって感じるところが大きく変わる類のヒューマンドラマであり、それを観て、そしてこのタイミングでそのタイトルを挙げる不破の人格と感想に莢子は少なからず感動を覚える。

分かり合える(「嫌だと思う所はひとつもなかったのよ。心の綺麗な人だった」)不破とのデートを経て、莢子は自分のなかに「分け隔てのための線がない」ことに気づいてしまう。

「恋をするって、人を分け隔てるという事じゃない」

「人を分け隔てない」という祖父の話は、みる人からみれば「呪い」にも近い形で、そして祖父自身よりも強い形で、莢子の価値観を形成させていた。

“では、祖父は「悪人」だろうか。これに「悪人だ」と呼ぶ人も一定数いると思う。”
でも第5話の祖母の育児方針と一番違う点は、祖父の言葉と行いは「良いこと」だとされている点だ。

莢子自身も自身の性質に気づいたからといって何かを恨んだりしておらず、最も自身を表現できる博愛主義者としてのシスターとなる方法をとった。
マルクス主義のうち反宗教主義の部分と対比して麻里は「皮肉な話」としたが、雪子は莢子と莢子の祖父が見ていた方向が同じことを知っているので、「矛盾は無かったのよ」とまとめた。

「第4話」(ネタバレあり)

雪子は子どものころから片づけが苦手だ。これに強い意味はないが、よしながふみ作品では個性の一つくらいの調子で良く出てくるので、多分よしながふみ自身、片づけが苦手なのだろうと思わせる。

また今回の三人娘のやりとりは最近の漫画作品でも増えてきた隠喩比喩が多く、初見でも牧村の環境を理解しやすいだろう。ただ上で書いたように「三人が放課後、シロツメクロサの花冠を作りながら」というバランスのとり方は非常に繊細だ。

「変わりゆく牧村」を見てきた佐伯はそれまで呑んできた言葉を一気に吐いて縁遠くなってしまったが、久しぶりに会って元気そうな姿をみて安心した。隣の男は料理のとりわけも自分でしないような男だったが、それでも牧村は幸せそうで、その男も悪い人ではなさそうだった。

また牧村はかけたい言葉を呑んで家に帰るが、雪子から届いた手紙を読んで「変わっていなかった如月(雪子)」に涙して終わる。

「最終話」(ネタバレあり)

女学校時代の描写、いわゆる「研究職」に対しての評価が低いのがリアリティあって「うわあ」ってなるところからのスタート。
親族が集まるシーンで特にそれぞれ自己紹介もないが呼称に関係性は含まれていて誰が誰とどう繋がっているのか自体はなんとか分かるようになっている。
あと、上では祖母の育児方針について色々書かないと言ったけど、まあ弟の勉は悪いよ。勉は。

麻里の呪いが健在であることを示すシーンにつながり、大橋は健気に何度も繰り返しその呪いを解こうとする。大橋は良いやつだ。(今更だが結婚しているので麻里も大橋だ。)

最後に雪子が祖母の振る舞いの事実を知ったところで、ガラガラと音を立てて雪子のなかの(最後にわずかに残った)「母親像」が崩壊していく。
「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ。」とまで思わせた。
その上で、それらを察していた(麻里も察していただろうと表現した)大橋は「分かってるのと許せるのと愛せるのはみんな違う」と表現する。本当に良い子だ。(そして、とても「よしながふみの子」らしい子だ。)

「まとめ」

「愛すべき娘たち」は「鞘子の祖父」と「雪子の祖母」の2人から発信される情報がとても多い。ただその2人も誰かしら何かしらかの影響を受けていることが明示されており、物語や人生は相互にかつ複雑にからみあい受け継がれ、進行していくものだと表現されつづけている。

「愛すべき娘たち」。

親から子へ。時に「呪い」と呼べるような「強い価値観」として受け継がれる「もの」の流れを描いた作品だ。

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