No.4|百日行願4日目(2024年8月6日)

百日行願、四日目

今日も今日とて、生かされているわが生命を
授け元である天地の親神様へ御礼申し上げる

あ~、ありがとうございます。

宗教家は、氏子のため
そのため『だけ』に存在しています。

それは「人が助かりさえすればそれで結構」の教祖様の言葉のまま。

氏子が助かるとは……?
祈ろうが、
話を聴こうが、
話をしようが、
なんならビンタしようが、

氏子が助かればそれで良いのです。

助かるとは何かというと、
『気づいて改まること』。

何に気づくのか。
それは神様という偉大なる存在に。

偉大なる神様とはなんなのか。
それは、自分の命を育んでいる御存在であると。

それにさえ、気付けたら、
(ただただ、生かされているだけだったんだと気付けたなら)
あとは自然発生的に御礼申し上げながら生きる毎日になりますので、
それが氏子の助かりになるのかと
金光教に属する一宗教家である私の考えでもあります。

そうとして、
助かりはわかったとしても
その助かり方は氏子それぞれによってどうしたらよいかわからないものですので、
あくまでも氏子に併せていく、まさにオーダーメイドという姿勢が大切なのだと思います。

ただ、
宗教家として(神様を現す存在として)譲れないところはもっておきたい。

助かれば何でも良いのかと言われたらそういうわけではないし、
御礼が言えていない氏子の声をどこまで聞くべきものなのか(どこまで付き合うべきなのか)は常に考えているところです。

昨夜、小学校6年生の長女に次のような話をしました。

娘:パパは、いつも話を聞いているけど、どうやって聞いているの?人の話ばっかり聞いて疲れない?

私:えーっとね、だいたいの人がね「どうしたら良いですか?」って訪ねてくるんだけど、そのときパパはどうやって応えていると思う?

娘:えー、パパがいつも言っている「神様への御礼をしたら良い」ってこと?

私:それも大事だけど、まずは「あなたはどうしたいの?」ってパパは聞くんだ。

娘:なるほどね。その後は?

私:でもね、「どうしたいの?」って聞かれても悩んでいる人の多くはどうしたいかがわからないから。だから、わかるまで一緒に考えるっていうのが、パパがいつもやっていることなんだよ。

娘:へ~、そうなんだね。

私:それで、ずーっと聴いていくとね「神様に命を頂いている」っていうのがわかるようになるんだよ。めちゃくちゃ時間がかかる人もいるけどね

娘:そっか。大変そうだけど、がんばってね。

私:聞いてくれて、ありがとう。

悩んでいる氏子は、御礼が言えない。
それはもう確実に。100%言い切れる。

逆におかげを頂く人は御礼を言う人。これも100%で言い切れる。
そういうものだと。道理です。

悩むから御礼が言えない。
御礼が言えないから悩む。
卵?ニワトリ?どっちだっていい。
とにかく御礼を申すこと。

御礼するのが大事だってとかく頭で分かったとしても、
目の前の問題ごとが大きすぎてそれどころじゃない。
その気持ちも痛いほどわかります。

ただ、俯瞰してみれたらそんなことはない。
目の前の問題ごとなんてとてもちっぽけなこと
=生きているから問題ごとも抱えられるんだし
信心を進めていけば必ずそうなる。

でも悩みがあまりにも近すぎて(顔面にこびり付きすぎていて)全体像がよく見えない。俯瞰できない。

ゆえに神様も見えない、命を頂いているってこともわからない、だから御礼が言えない。

まずは、こびり付いた悩みを剥がす作業が要る。

それこそが宗教家である私が氏子であるあなたの悩みを聴いて聴いて聴いていく行為……、

金光教のお取次なのです。
と、私は思っています。

なので、やっていることはいっつも同じです。

でも、悩んでいる氏子はいつだって違うから
その都度、微調整を重ねる日々なのです。

そんな私は、悩んでいる氏子たちのお邪魔にならないように。
神様が最速でお助けになるほんの一助となるように。
今日もわが生命に御礼を申し上げながら、
お使い頂きたいと、ただそれだけなのです。

昨日の投稿の「あれやこれや考えないようにしている」その背景には、
このような私の思惑があることを知って頂けましたらこれ幸いです。

追伸:このような考え方で一日を過ごすと、あっという間に一日が終わっているのですから。

有り難い限りです。ご信心、オススメですよ。

追伸2:世の親御さんはこの投稿の「私→あなた|氏子→お子様」に置き換えて読んでみるとおもしろい気付きがあると思います。

宗教家と氏子の関係は、よく親子の関係に例えられます、非常に近いので。

きっと、親からしたら子どもが助かればそれで良いって、心からの気持ちなのでしょうから。

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