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閑村瀧恭三伝

戦前静岡茶広報史の一場面(7)

さて、「戦前静岡茶広報史の一場面」というタイトルで始めたこの連載は、色々想定外の枝分かれがあって収拾がつかなくなっているのだけれど、さしあたり私の興味は、茶業広告よりも瀧恭三自身に向かっているので、あとでまとめて書き直すとしたら、この人を中心に据えて、静岡茶業との関わりにも触れる形になるような気がしている。勿論、出発点に戻って、戦前の茶業界のメディア展開について拡げていく可能性を否定するものではないのだけれど。

で、目下の課題は、瀧恭三である。この、私にとって恐ろしく魅力的な人物は、既に歿後80年になろうとしており、おそらく現代において、御子孫及び茶業史研究に関わる人以外殆ど名前も知らないのでは無いかと思う。その上で、『茶業界』主筆であったこと、茶業史関連の著作が在る事、は知っていても、どんな人だったかと言うことにまで関心を持った人がどれほど居たか、となると甚だ心許ない。だからこそ、私が「自由研究」をする意味もあるのだけれど。
そして、現時点で判明したことから、近代地方文人の一つの生き方が浮かび上がる、とても興味深い人物だと言うことが出来る。
今回は、その小括を書いておく。例えば人名辞典を書くとしたらこんな感じかな、と言う意識で、ここまでに判明していることを書いてみよう。

瀧恭三

たききょうぞう。号は閑村(閑邨とも)。生没年未詳。文筆業、編集業を中心に活動した。大正2年11月から昭和15年3月まで『茶業界』主筆を務めた。

父は、田中藩士瀧亨(凌雲)。凌雲は藩主本田氏に従って安房長尾藩に移った後、千葉、青森と、官吏として移動しながら画家、文人として名があり、また『東奥日報』にも関わりがあった。明治23年に青森を去ったあと、10年以上消息が分からず、35年頃静岡二番町に移ったらしい。その後は表だった活動はせず、大正5年9月1日、静岡の自宅で筆を手にしたまま亡くなったという。
この間、恭三は父母に従って移動したと考えられるが、生年不明のため、出生地も明らかにし得ない。なお、昭和15年、静岡大火当時、母は90歳で存命。恭三の子供たちと共に鷹匠町に暮らしていた。
明治32年6月「蕗のまろや」で『中学世界』普通文第三賞を獲得、その後、35年にかけて、目次で確認出来るだけでも小説を中心に一賞4回、二賞1回、三賞に2回(「蕗のまろや」含む)入選している。『文芸倶楽部』には「つきせぬ恨」(明治36年6月、第一等)、「北征の人」(明治36年10月、第二等)、「白壁」(明治39年1月、第二等)の、3篇の懸賞小説が掲載された。ほかにも、数編の小説が確認出来る。『地方文芸史』の言う「懸賞小説界の四天王」の一人と目された時代で、地域の文芸誌への投稿もあった。この頃は、県立高等女学校の職員であったらしい。
その後、遅くとも明治40年には韓国に渡り『京城日報』に小説を連載していること、深尾韶の証言がある。一方、親しかった俳人で新聞記者の小野賢一郎の証言では、明治39年頃には朝鮮総督府の教科書編纂事務に従事しており、明治41年には体調を崩して帰国したことになっている。明治43年に刊行された長編小説『只の人』は、京城が舞台となっている。
その後、明治44年頃から、静岡における瀧恭三の活動が見え始める。「静岡公報」「静岡県報」記者、と言う記述があることから、県の仕事をしていたらしく、この前後に高木来喜との交流があったと考えられる。一方で、読売新聞にいた上司小剣の曙社で短歌会を開いていたことは、飯田蛇笏の証言があるほか、短歌や俳句の世界にも交流があったことが確認出来る。
大正2年、『茶業界』主筆になって以降も大正7年に『並行線』という小説を『京城日報』で連載したらしく、小説、俳句、短歌と、閑村名で文筆活動をしながら静岡県茶業組合聯合会の仕事もしていた。昭和10年『牧野原物語』を刊行、翌11年には、医師で俳人の柴毅の遺稿集『竹四遺稿』の編集に当たったほか、それ以前に伴野末治の遺稿集も担当したらしく、静岡での交友関係、文事が想像される。
瀧の名前は、『茶業界』を引き継いだ『茶』誌上に昭和16年まで見られるが、その後はみられなくなる。

歯切れが悪い。
生没年も、学歴もわからない。
職業文人にはなり切れなかった地方の文人が、それはそれで、投稿作家として中央の文化人とも交流しながら文芸活動を続け、後半生は、なぜか茶業の業界誌の編集者になって殆ど30年間、茶の生産や貿易について、或いは茶業史について多くの文章を残した。
悉皆目録を作るのは容易ではないが、『茶業界』掲載分を含め、可能な限りの作品を読んで、改めて、彼の文章そのものに触れてみたい。

いまは、この文学史のメインストリームに上がってこなかった魅力的な人物の存在を確認したところで、一旦終わらせておく。
学生が引き継いでくれるといいんだけれど。

次は作品論になるか、あるいは、広告史に戻るかも定まっていない。

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