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広島県立大学とは何だったのか~1990年 庄原の青春~(4)庄原に行ってきた。

(県大とは何だったのかシリーズの更新が全然出来てなくて、すみません。)

仕事が急にキャンセル。3連休になってしまったので、(思い付きで)東京から庄原に行くことにした。

成田空港から広島空港まで
春秋航空というLCCを利用

3日かけて、広島県立大学の図書館、三次市立図書館、庄原市立図書館と「県立大学と庄原の記事」を求めて図書館巡りをしている。

1990年ごろの県大についてインターネットで調べてみても何一つ見つからないので、図書館で当時の出版物を見ようと思ったが、この図書館巡りは大いに収穫があった
(これについてはまた別途記事にする予定)

お楽しみに!

あとは懐かしい場所。備後庄原駅、ジョイフル、サングリーン(三次)
1年の時に住んでいた三次市畠敷町などをレンタカーで見て回った。
何もかも、ほとんど変わり果てていて驚く。

ジョイフルは老朽化による建替えのため
2026年にビルが解体されるとの事
(中国新聞記事による)

庄原キャンパスに行くと、4月という事もあって新入生と思われる若い学生がたくさんバスから降りてくる。

「広島県立大学」という大学は2005年に廃止になったが、庄原キャンパスは今も現実に生きているキャンパスなのだ、

2024年、この4月から庄原で新生活を始めた若者たちがいるのだ。この子たちは、自分たちと同じようにこれから4年間庄原で暮らすのか。

バスが校舎の真横まで来るようになった。

34年前(1990年4月)にスクールバスから降り立ち、初めて七塚原に来た日の微かな記憶を手繰り寄せて、2024年のキャンパスにいる若者たちの姿と重ね合わせる。

1990年18歳。私はどんな気持ちで庄原キャンパスに居たか。

苔むしてスタジオジブリ感が出てきた庄原キャンパス

現役予備校(T進ハイスクール)に通い、参考書もたくさん贅沢に買い、Z会などの通信教材もやり、「親の金を使いまくって」(当時自覚なし)第一志望の(というのもおこがましい)国立大学は足切りされ、W稲田大学はおろか第4第5志望の私立大学も全部全部全部全部全部

不合格。

親の金を無駄使いした。
全然勉強してねーじゃん。

最後に国公立大学の後期日程しか残って無くて広島県立大学に奇跡のギリギリ現役合格。
助かった。と思った

さて合格したが・・
「人生の目標」は大学4年間で考えれば良いだろう。
モラトリアムという言葉が流行っていたし、1989に日経平均株価は暴落したが、まだまだ高校卒業したてのバカなガキ(自分)はバブル気分。遊ぶ事しか考えていなかった。

自分は庄原市内のアパートは契約せず、三次市畠敷町の学生寮(確か家賃3万円)に住むことになった。そこに決めた理由は全く覚えていない。

県立大学の同期(2期生)の雑感としては、
・県内の公立高校から推薦で来たマジメ高校生が30%ぐらい。
・広島市内、関西、中部地方から浪人して受かった1浪2浪の人たちが70%ぐらい。

学生の出身地は全国区だった。

1期生の入学状況

ひいき目に見ても一般試験組にとっての「広島県立大」は広島大学・岡山大学か有名私大の滑り止めだった。第一志望なんてだれもいない。

(最初は)ほとんど皆の表情に、こんな比婆の山奥に来ることになった、「自分のふがいなさに対する悔しさ」が垣間見えていたと思う。

ところで、
広島県立大学は偏差値は55ぐらいだったが倍率は50倍超えの人気で
1989の開学から(統計学的には)日本一の難関大学になった。

平成元年の経営情報学科は91倍
「かいつむり」より

でも勘違いしていた。

俺たちは高倍率を勝ち抜いたが、「高偏差値」じゃなかった。
ただの凡人(またはそれ以下)の集まりだ。
不合格者がケアレスミスをしたために我々は運良くボーダーラインをくぐり抜けただけだ。

大学受験が終わり「受験勉強」をする必要はなくなったが、勉強がしたくて大学に来たわけではないので、大学に入って、勉強などするはずがない。

今になって考えれば(自分は)経営学を専攻しているのだから税理士になるとか、会社経営の勉強をするのが普通だと思う。
誰かに経営学とは何かを教えてもらいたかったがインターネットもなかった時代に本も新聞も読んでなかったバカに経営学を知る由もない。

高校時代から本を読む習慣がなかった。
同世代の男ならわかると思うが愛読書はドントかシュガーかデラべっぴんぐらいだった。(受験戦争のせいということにしておく。)

本は読まなかったけど大学図書館のレーザーディスクは充実していてよく利用したなあ。1990年当時DVDなんてものはなかった。

三次市の寮に同居していた同級生は私を含め3人いたが、そのうち1人は1回の後期で県大を辞め大学再受験をして青山学院大学に入った。結局、寮は2人になった。

私はスキー部に入ることにした。
バブルから始まったスキーブームはまだ続いていたし、広島県北にはスキー場もたくさんある。中学校からスキーをしていた自分にはスキー部を選ぶしかないと思った。小池書店で買ったHotdogPressにもスキーをする大学生は「爽やかtastyなコカ・コーラ」を飲むべきだと書いてあった。

1987公開
ホイチョイ映画の金字塔

春に入ったスキー部は
「スキーのシーズン・冬」を迎える前に
「庄原のクソ暑い夏」を迎える。
夏のスキー部は「ただの飲みサー」だった。多くのスキー部員が雪ではなく4年次の卒業試験を華麗に滑り留年した。(弁解をしておくと、i部長だけはまともで熱心な体育会系スキー部の人だった。)

私も気が付けばバイトと飲み会ばかりの生活になり。
本を読むと眠くなるので活字はほとんど読まなくなった。
自分は1年の夏休み前には午前中から大学に行くことはほとんどなくなっていた。当然午前中の科目のほとんどの単位を落とした。

「かいつむり」より

県大のかなり特殊な事情として、庄原、三次出身者(おそらく学年で10人もいなかっただろう)以外は全員が寮かアパートでの一人暮らしだということだ。4年間小さな街で全校大合宿である。何をやっても、どんな状態でも誰からも叱られることはない。精神的に未熟な若者が、何をしたらいいのかよくわからないまま4年間もの自由な時間を手にし謳歌したのだ。

それと悪かったのが留年がなかった。
全部単位を落としても4年の卒業間際まで「進級だけは出来る」のだ。
4年間親にもばれずに遊びまくられた。まあ4年の最後にえらいことになるのだが。(特にスキー部)

僕たちはそんな県北の山奥で何を考え何をしていたのか。

ただ遊びたかった、遊ぶ金欲しさに勉強もせずバイトをして、時間と金を浪費した。フリーターのような生活である。(フリーターのほうが学費が掛からないだけましだ。)

アックスビルの「つぼ八」で酒を飲み
ジョイフルのはす向かいのポプラ2Fにあった「カラオケ・マキ」で
ブルーハーツのTRAINTRAINをヤケクソで歌った。プリンセスプリンセスとかも大好きだったな。あとドリカムね。

3回生になったら就活をしなくてはならない、とは思った。
でもバブル的なカッコいい就職先には憧れるけど自分がどんな仕事を選べば良いのかすら全然わからない。何も考えてないからね。

教授との就活面談で、どんな会社に入りたいのと聞かれて私は「総合商社」と真顔で答えた。教授は苦笑い。海外にも行ったことのない、田舎の公立大学卒業の奴が総合商社に入れるとマジで思っているのか。自分は高校時代、英語だけは偏差値70をキープしており「英語だけは得意だ」と思っていたが、世間知らずは酷いものだ。脳みそが海綿体になっていたのだ。

そんな自分が1番熱心に取り組んだのは
大学祭「白楊祭」の運営だった。

(広島大学には及ばないけれども)広島でナンバー2の国公立大学が県北にあるんだ。大学祭は大学の存在を内外に知らしめるチャンスなんだ!「すごい大学祭をやろう!」と思って一生懸命やった。

かいつむり
かいつむり
かいつむり

イカ天で人気だったFLYING KIDSを白楊祭に呼んで体育館でライブをぶち上げた!あの日の事は忘れない。1991年10月27日だ。

FLYING KIDSを聞くたびに思い出す

FLYING KIDSはすごかった、震えた。プロってスゲェよなあ。(そこから私がマスコミ芸能分野を目指すきっかけとなった)

けど俺たちはどうだっただろう?

力の無さを痛感した。
まあ、広島市内の広島修道大学や広島女子大学の大学祭には到底及ばない。

広島第2位の国公立大学(自称)の文化祭がこの程度のものなのか。

「居酒屋・花車」でやった大学祭の打上げは
みんな泣いてた。感情が爆発していた。

庄原で出会った友と、泣いて。喧嘩して。笑って。恋愛して。分かれて。

この幸せな庄原の時間がずっと続くように願ったり。一方で、卒業してこんな山奥から早く出ていきたいと思ったり。

ほとんどの県大生は卒業したら庄原から出ていくんだ。(たまに居着く人もいるが)

まるで瀬戸内の島じゃないか。
(謎)

庄原で「ロクに勉強もせず時間と金の浪費をした」とはわかってるけど

あの4年間は人生の宝物だ。

亀井静先生からの(たぶん)県大生へのお言葉

次は、庄原三次の図書館で調べた県立大学の1989-1993頃のあれこれを記事にする予定です。そのあと、国会図書館にも行ったのよ。笑


記事は自分のために書いていますが、良いねは素直に嬉しく記事を書くモチベーションになります。


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