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なんてことない忍ぶの日常

忍ぶは毎朝、ため息をつきたくなる。
布団の中で、朝の準備の算段を立てなければならない。眠気に思わずまけてしまいそうになりながら、今日着る服のことや化粧のこと-あの色のアイシャドウを使おうとか、アイラインは濃く引きすぎないようにしようとか、そういうことを考える。
ほんとうは瑣末なことと思っているのに、まるで義務のようにきっちりとそういうことを考える。

だから、肌をきれいに見せるためのものたちを塗るときは、まるで泥をぬっているよう。毛穴という毛穴を塗り固めて、蓋をしているようで、自分が窒息しそうになる。

忍ぶは恋人の小池くんによくこうこぼしていた。
「ほんとうは化粧なんてしなくていいのに」

小池くんはおおらかな人なので、忍ぶの横着をまるで意に介さない。忍ぶのからだがひとより毛深くても、化粧がよれよれでも、そういった類の怠慢を「かわいい」といって済ませてしまう。忍ぶはこういう時、小池くんは何を持って忍ぶを女としてみているのか、不思議な気持ちになるのだ。

忍ぶは男の子たちのことを考える。
小さな時にぶつけられた、男の子たちの率直な言葉や、思春期に入ってからの忍ぶを通り過ぎていく視線たちのことを。
飲み会の席で聞く男の子たちのおんなへの欲望、要望、理想。まるで忍ぶなんていないみたいに扱われて、そうそう自分も女性優位の場では同じことをやっているなぁなんて思いながらも、その言葉たちが深く突き刺さるのだ。

おんなにはなぜこんなにも美しく、若くあることが要求されるのだろう?

今の自分は、若い頃の自分よりずっと好きだ。今の自分は、あの頃のように不用意に他人を傷付けたり、自分におもいあがったりしないし、色んなことをうまくこなせるようになった。

忍ぶは20代後半にさしかかろうとしている。
まだ気持ちは、大学をあがったばかりだ。仕事でも新人扱いで、大人という世界に入ってからの何も達成したことがないのに、「おばさん」という言葉の境界だという。身体が衰え始めるのだ。
忍ぶという人間は、身体の美しさや若々しさに価値があるのだろうか、と悲しくなる。

小池くんは、忍のことを昔から知ってるひとだ。忍ぶはトウキョウにでてきて、そろそろ7年ほど経つけれど、忍ぶが洗練をしらない田舎の女の子だった頃を知っている。化粧もしらず、にきびだらけの冴えない女の子だった頃を。

小池くんと忍ぶがお互いのことをよく知り出したのは、ふたりがトウキョウで再会したあとだけれど、忍ぶの小さな怠慢をおおらかに受け止められるたびに、忍ぶは何かに許された気がするのだった。


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