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「風通しのよい身体」とは?

晴れやかな青空の日に、横浜で開かれた「本は港」へ1年ぶりに訪れた。

「わたしたちにはからだがあった― からだに意識をうつして過ごしてみると」のトークイベントに参加した。

二人のお話を聴きながら、
ふっと自分の中に浮かぶ気持ちや考えをそのまま巡らせてたり、響いて書き残したりしながら聴いていた。
特に自分の中に残ったり、メモに書いていたりした言葉たちをリストに残しておきたい。

・武道を経験する中で、いかに身体と暴力性を使っていなかったかに気づく
・「体得」の手がかりとしての「ことば」
・子どもは人のまねをして覚えていく
・なんとなくまねをすることでひらかれていく
・その場にいることで感じる音の振動。―能の声、しんとした静けさ
・「恐怖麻痺」という言葉がある
・会社で島のようなデスクで働いていると、常時何かに接続されているような感じで、スマホのバッテリーが早く減っていくような感じで消耗していく
・「歌うこと」声を合わせる場所がある。歌っている間は安心感が生まれる
・「言葉と身体の結びつき」「言葉と音の結びつき」
・口にしている言葉がちゃんと意味しているか
・相手にちゃんと言葉をデリバーしているか
・「風通しのよい身体」を目指す
→階段とエスカレーターがあるときに、ふっと階段を選べるような感じ
 気になるお店があるときに、もうちょっと歩いてみようとなる感じ
・「セルフケア」は、人にわざわざいうほどでもない、小さな気づきにくい変化は、自分だからこそ気づけるし、自分しか気づけないからこそ大切

・「ケア」careful=注視する、気づいてあげる、という意味があるので、
「セルフケア」は、自分を注視して自分のことに気づくこと

特に自分が気になった言葉について考えてみた。

① 武道を経験する中で、いかに身体と暴力性を使っていなかったかに気づく

最近、友人との会話に出てくる頻度の高さから、自分の中で「暴力」について考えることが多い。
学校、あるいは家庭の中での子どもへの見えにくい「暴力」。
極限状態に置かれたときに、人はその暴力性が露わになる、あるいはならずにいるということの分岐点や心構えが気になっている。

「ゴールデンウィークに「スラムドック・ミリオネア」のリバイバル上映を観たとき、あまりに子どもがあたりまえのように大人から暴力を受けているシーンを見続けるのがしんどくて、「綺麗事でない現実」という無力感とやるせなさを感じた。
家族と共に暴力を受けていた側が、くるっと暴力をふるう側に反転するところも生々しい。

自分もかつて合気道をやっていた時、試合形式の練習をよく行った。
私が習っていた流派では、攻撃側が短剣を模した柔らかい棒を胸の間に突きにいくという部分があり、
普段表れることのない自分のむき出しになる攻撃性とその弱々しさに、戸惑いと居心地の悪さを感じたのをよく覚えている。
(当時の私は自分の痛みや人へ立ち向かっていくことが合わず、合気道自体は1年ちょっとで辞めた。)

また、「ある日を境に、近隣に住んでいた人たちの状況が変わり、暴力に晒される」という事象に、小さい頃から私は関心が強い。(ベルリンの壁やユーゴスラビア内戦など)
自分の中での考えもまとまっていないし、この内容を考えるには自分がどうしても身構えてしまうのでなかなか考える機会は少ない。
けれど、今なお続くパレスチナの戦闘もあるし、自分が平和な場所にいるだけということは心に留めておきたい。

② なんとなくまねをすることで身体がひらかれていく

「まねることで身体が開かれる」ことで頭に浮かぶのは「ZUMBA」だった。
ZUMBAは、ラテンミュージックを中心に、世界中の様々な音楽に合わせてエクササイズするダンスフィットネスである。

フィットネスクラブで初めて「ZUMBA」を体験した時、最初からびっくりした。
「これから音楽がはじまったら、ことばでの説明はありません!音楽を楽しみながら、身体の動きを真似してみてください」

…ほんとに?という気持ちだった。
ダンス経験はなし。いやいや、なんにも説明なくて大丈夫なのかな…と思っていたが、はじまってみると、様々なジャンルの音楽に合わせて、先生の動きをなんとなく真似していることが楽しい。何度も参加していくうちに、なんとなく動きのパターンも慣れてくる。
まさに「なんとなくまねをすることで身体がひらかれていく」だった。

特に、私が通っていたフィットネスクラブは、年配の方も多かったので、年齢も関係なく、いつでも音楽に身を任せながら踊りを楽しめるのだという感覚もすごく心地よかった。

ダンスってこんな感じのイメージで不安だったけど、そんなことはなかった!

③「言葉と身体の結びつき」「言葉と音の結びつき」

質問をしようと思いながら、時間が過ぎてしまったので飲み込んだ質問。
「言葉と身体の結びつき」「言葉と音の結びつき」について、
英語に慣れ親しんでいるおふたりに聴いてみたかった。

最近、初対面の人たち5,6人と同じテーブルでお茶をしていて、話すときに英語と日本語を頻繁に変えながら話す機会があったのだけれど、
わかりやすく自分の声の高さが変わったことが面白かった。
日本語で話すときには高めの声で、英語を話すときには低めの声になる
のだ。

もともと自分の地声は割と低めで、親しいと感じている人たちへは割と低めの地声のまま話すことが多い。ただ、低めの地声だからこそ、初対面や慣れない人には少し高めの声で話しているのかもしれないと思っている。
とはいえ、英語を話すときにはあきらかに声が低くなるので、「言葉と身体の結びつき」「言葉と音の結びつき」というときに、異なる言語を話した場合の結びつきについて気になった。

ちなみにこの話を、韓国語が母語、日本語・英語をビジネスレベルで話す友人にしたところ、明確に言語によって自分の声の高さが変わると話していて面白かった。

「本は港」のブックマーケットでは、好きな本屋さん「本屋 象の旅」で2冊購入。
限られたスペースの中で持ってくる本や置き方にも、本屋の店主さんたちが表れているようで、さらにそこから全く知らなかったけど気になる本が見つかったときには、とてもわくわくする。

一緒に訪れた友人と、お互いが購入した本を眺めつつ、トークイベントで思ったことや感じたことを話せたのもとっても楽しかったし、また来年も訪れたい。

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