移籍から上京まで

※以前の有料記事の再投稿です。

自民党総裁選に関しまして、慌しくなってきております (現在終了)


心なしか皆さんからの視線が、“近々跳ね上がる株をいち早くに購入してた奴”のような気がしてなりません

感じる必要性ゼロのプレッシャーを自ら作り上げる度に、「あのお方(ご本人様)に比べると俺はなんて小物なんだ」と実感する日々

小物を自覚することで、良い開き直りをお見せできればいいなぁと考えてるところであります。


さて、前回の記事では吉本興業へ移籍するまでをざっくりと書かせていただきました

今回はそれ以降ということになります

参ります!





松竹芸能を離れる決断をした僕がまず初めにしたこと、それはホームヘルパー2級の資格を取ることでした


ん?


いきなりすみません。しかし本当のことなのです。松竹退所を決めて、少し時間が作れそうだなと思い、以前から興味のあった資格であるホームヘルパー2級を取る学校に少し通います(今は介護職員初任者研修というそうですね)


天王寺にある学校で、たしか2ヶ月ほどで取得したかと思います


2ヶ月間お笑いから離れていたかというと、そうではありません。ちゃんと、やるべきことはやっていました


やるべきことというのは、吉本の劇場である「5upよしもと」のオーディションを受けること。吉本へ移籍とはいっても、まずこのオーディションに受からなければ所属とは言えない状況です。受かったとて、一度や二度の合格では所属という雰囲気ではなかったような気がします



初めてそのオーディションライブに参加した日、開演前の点呼で「小森園ひろしさん」「ハイ!」と返事をした際に隣りにいた爆ノ介(現、ザ・プラン9)が「えっ??」という表情をしていたのが印象に残っています


「え、もしかしてカバと爆ノ介、俺のこと知ってくれてる・・・?」って心境でした。吉本のすげぇ奴が自分のことを知ってくれてるのが嬉しかったのです。器が小さく情けない、しかしどうにも隠せない本音でもありました。と同時に『ここでやっていくんだ俺は』と腹を括るきっかけにもなりました


競争の激しいオーディションでありましたが、僕はありがたいことに二度目で合格させていただき、そこから何度か落ちては受かってを繰り返してるうちにある日『銀行口座を教えてください。』という連絡がきてギャラが振り込まれるようになり、「あ、俺吉本所属になったんだなー。」と思えるに至った次第であります


所属になったといっても劇場出番がたくさんあるわけではなく、インディーズライブへの出演とアルバイトを繰り返す日々。世間一般の方からすれば、体たらく甚だしい生活でしょう。しかし目標がハッキリしている人間とは強いもので、心が折れることはなく、「この体たらくで何が悪い!俺の生活にいちゃもん付けていいのは両親だけだ!それ以外の奴に何と思われようとかまわん!」のガッツで過ごせておりました。(両親に何て思われてるかは気になりますけどもね!それはそれはとてもとても気になりますけどもね!!)


とはいえL&Bの生活(ライブ&バイト)が続く毎日、『しんどいときは上り坂、ラクなときは下り坂』とはよく言ったもので、わりとしっかりしんどかったです。



=======しんどい元凶『アルバイト』経歴======

18歳 引越し屋(繁忙期での短期バイト。エレベーター無しの5階、通称「無し5」のツラさを初めて知る)


19歳 焼き鳥屋(ひたすら焼き鳥焼いたり、釜飯作ったり。バイト仲間と行った深夜のボーリングでハイスコア「254」をたたき出す)


21歳 コンビニ早朝(店長が嫌なのを我慢して半年ほど続けるも、アメフトで怪我したのをきっかけに「このタイミングだ!!」と思い辞める)


22歳 パチンコ屋(時給の高さのみで選んだパチンコ屋、禁煙ブームなんぞどこ吹く風のタバコまみれの職場。そして当時のこの仕事は、ドル箱の上げ下げがあったので非常に腰に悪い)


22歳 派遣会社(パチンコ屋と同時進行でやっていた、登録制の派遣労働。今では考えられないぐらい仕事が多かった。時給800円の、粉塵まみれのコンテナ内作業は地獄。コンテナ内で自分が何を積み下ろししているかも分からぬ地獄。一緒に作業してたおじさんからネズミ講に誘われてさらに地獄)


24歳 居酒屋(ホールスタッフ。精神衛生的にはまだマシ。僕に好意を持ってくれていた中国人女性が「こもりサ〜ン、できたヨ〜。食べまショ〜。」と、宴会後の客の食べ残しをキレイに盛り付けて出してくれていた。「いや、そんな事してんと片付け手伝ってくれへん?」と毎回思っていた。)


25歳 某有名チェーンのお好み焼き屋(職場の雰囲気が非常に悪く、年下の店長にボロカスに怒られてるおじさんを見て、一刻も早く抜けようと4ヶ月で仕事を覚えてすぐ辞める)


26歳〜 コンビニ夜勤(ファミリーマートとローソン。一人、キツく当たってくる奴がいたぐらいで、人間関係は概ね良好。初めてコンビニ強盗のリアル映像を見る。)


27歳〜 競馬新聞工場内作業(実は芸人多数勤務の金曜土曜の朝仕事。やたらと3連単的中させるおじさんが居た。ここでの経験が今の馬券予想に生かされて、、いない)


※ほかにも駐車場や、たこ焼き屋の呼び込みや、ロッテリアの朝勤務など経験。駐車場ではNGKで勤務したこともありました。(西川のりお師匠のベンツを運転したり、トミーズ健さんに「誘導の仕方が悪い」と叱られてイラッとしたり)

※上京してからはコンビニの派遣、歌舞伎町ラウンジのボーイ、水道メーターの検針、ウーバーイーツなど


歌舞伎町のボーイがいちばん「ん??」と引っかかるでしょうが、そこで働いていた、大阪のときの先輩女性芸人さんの紹介で入らせてもらった職場です。ここにはものっすごいお世話になりました


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・・・なんの話でしたっけ?

脱毛サロンに行った話でしたっけ?

TKO木本さんに泣きそうになるぐらい怒られた話でしたっけ?



いや、ライブだライブ。ライブをはじめとしたお笑いの活動の話だ


そう、この頃はとにもかくにもライブ。ネタ。コントコントコント


地元の友達と喋っていて「この歳になると〜(こんとしになると)」との会話が出たら、「コント師」って言葉に一度変換されてしまうぐらい、コントばかりでした



ライブばかりの、コントばかりの日々。もちろんR-1ぐらんぷりに向けてのものでした

2011年は準決勝、2012年は3回戦、で、迎えた2013年。ここが一つの転機となります

結果としては準決勝敗退なのですが、ただの準決勝敗退ではないのです(自分の中では)

手前味噌ながら3分尺のコントとしてはかなり良いモノであったと思うし、手応えもそれなりにあったし、準決勝観覧した方の評判も相当よかったのです。で、敗退したのです

率直な感想としまして「あ〜、ここまでかぁ。。。」と思ったのです。自分の実力は「ここまでか」と。


このときに、初めてリアルに『芸人辞める』という選択肢を考えました。ほんとに辞めようとしました。1ヶ月ほどライブ休んだりして考えたと記憶してます。そして結局は続ける決意をするのですが、これは厳密にいうと『続ける決意』ではなく『一年後に辞める決意』でした


僕の心境としましては・・・


「これでダメなんだからもうダメなんだろうなー。選んではもらえないんだろうなー。でもちょっと待て、芸人になって8年ほど、親に反対されることなくむしろ応援してもらって、地元の友達や学生時代の仲間にも気にかけてもらえて、小さなインディーズライブから吉本公式ライブに至るまで足しげく通って応援してくださるお客さんもいて、、、そんな中で自分のために、自分が結果出したいためだけに頑張ってきて、そんで自分の実力が届かなかったからという理由で辞めるのは失礼極まりない大馬鹿野郎なんじゃないのか。・・・よし、一年後だ。一年後に辞めよう。俺の実力が届かないことはもう分かった。ここから一年間は、今まで応援してくれた方のために必死こいてやる。それで一年後に『すみません!一生懸命やりましたが無理でした!今までありがとうございました!!』で終わりだ。そっちの方が気持ちもスッキリするし、次の人生にも進んでいきやすくなる。」


でした。


今思えばギリギリ筋が通ってないようなよくわからない理屈なんですが。



そして一年後、なんとR-1ぐらんぷり決勝進出を果たすのです

ありゃりゃ。辞めれなくなっちゃった。どうしましょ。続けるしかないよね、ってことで引退撤回であります


ここまでで分かる通り、このような結果を残せたのは本当に周りの方のおかげなんですよね。ライブ観にくるなどの行動を起こして具体的に応援してくださる方には足向けて寝られないんですよね。(実際は足向けてぐっすり寝てますよね。人一倍寝つきがいいので皆さんが思ってる以上にぐっすりですよね。なんなら最近自分でも分かるぐらいイビキかいてますよね。)


惜しくも(?)優勝は逃しましたが、大きな目標を一つ達成

が、翌年は準決勝敗退。(この年の選考はかなり物議を醸したものでありました。僕は何の異論もないですが。いや、少しはあるかな)

そのまた翌年はしれっと3回戦敗退(これがなかなかキツかった!慢心!)

3回戦敗退の直前ぐらいで東京行きを決めていたので、その年の5月に上京。といった具合です。ちなみに吉本には一年以上前から上京希望の意思を伝えてはいたのですが、うまいことあやふやにされ続けていました。(文句ではないですよ。あやふやにするのがとても上手だったのです)



これらが、上京までであります。



・・・いや「上京までであります。」やあるかい!!最後らへんざっくりすぎるわ!いろんなことあり過ぎて全部書けてないやないか!バイトの経歴なんか書くからや!ハショれそんなもん!!



すみません。もっとうまいこと詳細に書きたいのですが、我ながらぶっ飛ばしたくなるほどの駄文。ご勘弁を。


前回今回と、ありがとうございました。今後もnote更新続けていきますので、よければ、ほんとによければでいいのでお付き合いくださいませ。(上京後のことも書いていければと。)


下記に、うまいこと記事に入れ込めなかったことをつらつらと書きましたので、よければご覧ください。


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◆大阪難波にあります味園ビルの「なんば白鯨」、ここがなければネタの量産は不可能でした。ほんと大感謝。今後も大感謝。


◆大阪で一人暮らししていたのは、谷町九丁目・四天王寺前夕陽ヶ丘のあたりです。1Kで家賃3万8000円。オートロック付。鉄骨鉄筋。いい感じでトレーニングできる坂道が近くにあり、とても気に入っていました。


◆松竹を辞める「脱竹」というフレーズ、最初に広めたのは僕かもしれませんが、産み落としたのは僕ではありません。今は芸人やってない人です。で、本人も自分が産み落としたことに気付いてないです。



◆現在はR-1ぐらんぷりもなく、フワフワした状態でありますが、自分の腕をブンブン振り回し、無理矢理にでもバタバタさせて、このフワフワを打開してやろうという気持ちであります。

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