自分の感受性くらい
だいぶ前にInstagramにあげたものなんだけど…
自分の感受性くらい
今日は風愛を叫ぶわけではなく
コロナ禍で、
不安や恐怖や怒りや憎悪、疑心や侮蔑やその他諸々…負のエネルギーでいっぱいになってしまった人と、
関わることのあるところで働いています。
感染者が増えると、この人達も増えます
今日はそんな人達と関わる時間が長くて、
引っ張られないよう自分を保つのに苦労しました。
怒りに満ちた言葉を浴び続けるのはなかなかにしんどくて、
でも不安でいっぱいになって吐き出すところも無くて破裂しそうでこんなことになってるんだろうな…てのもわかるから、
そうですよね…そうですよね…って聞いてると、
こちらまで負のエネルギーで満たされていくようで、
だからといって「そうはおっしゃいますけどね💥」て反論しようものなら、
自ら負のエネルギーを生み出すことに繋がるわけで、
どっちにしろポジティブは吸い取られていきます。
そんなとき、負のエネルギーぐるぐるの中に取り込まれないように思い出す詩があります。
学生の頃からの付き合いの大好きな友達に教えてもらった、
茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」という詩。
何かを自分以外のもののせいにするということは、
自分ではその何かの責任が取れないということ。
私は自分が関わったことに対して責任が取れないなんて不自由は嫌。
事態が大き過ぎて一人で責任が取れないことなんてなんぼでもあるけども、
その中のここは私が責任持ちたい自分で決めたって言いたい。
ぐるぐるに飲み込まれそうになっても、そこには行かないって自分で選びたい。
明日もきっと、今日みたいな日。
そして明日もきっと、自分の感受性くらい、自分で守る。
「自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」
「自分の感受性くらい 茨木のり子 花神社より」
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