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音楽朗読劇「オペラ座の怪人」感想

オペラ座の怪人。私は正直この物語を胸糞悪い作品だと思っている。
物語としては好きだけど、ハッピーエンドだとかそういうことは言えないし、泡のように消えていく感情が多い理不尽な物語。
オペラ座の怪人の映画を初めて見たのは大学2年生の演劇論の授業。
当時の私は感想レポートの冒頭の書き出しに「オペラ座の怪人を見終わり最初に思ったことは、なぜファントムは最後まで不幸にならなければならなかったのか、ということだった。」と書いた。
オタクの考察ブログみたいな始まりじゃないですか。
以下レポート内容です。

 オペラ座の怪人を見終わり最初に思ったことは、なぜファントムは最後まで不幸にならなければならなかったのか、ということだった。決して最高の幸せを手に入れてほしいと思うほどではなかったが、人並みに幸せに触れることがあってもよかったのではないかと考える。最初にクリスティーヌとオペラ座の地下の洞窟に行ったとき、クリスティーヌに仮面を取られたファントムは激昂する。クリスティーヌの好奇心がファントムを侮辱したということになる。その一連の流れで、ファントムにとって仮面は本当に大事なアイテムであり、それを取ると彼は怒るということをクリスティーヌは理解したはずだ。それなのに、どうして「ドン・ファンの勝利」の最中でクリスティーヌはファントムの仮面を舞台上で、大衆の前で取ったのだろうか。最後にクリスティーヌは「歪んでいるのはあなたの顔ではなくその魂だ」と歌うシーンがあるが、そんなことを言いつつなぜファントムの顔を舞台上で晒させた必要があったのか。クリスティーヌの言動がわからない部分があり、なかなか彼女に共感をすることができない。
 ファントムが受ける理不尽は本編で数多くある。「私があなたに望むのは―All I ask of You―」の最中、ラウルは「君が不安だと思うときいつでもそばにいよう」と歌う。それは光の世界に出てこられないファントムには出来ない行為であり、しかもそれをファントムは柱の陰から聞いている。クリスティーヌもそのラウルの熱い想いを受け止め、キスをして二人で仲良く歌いながらみんなの元へ帰っていく。ファントムは自分が1から育てたクリスティーヌの音楽性や歌を通して、ラウルとクリスティーヌが結ばれる瞬間を見てしまう。自らが作り上げた音楽の天使は自分に振り向くことなく誰かと幸せになる道を選んだ。私はこの時点で、ファントムが殺すべきなのはラウルではなくクリスティーヌなのでは?と思っていた。クリスティーヌは最後ファントムに対する慈愛の心と哀れみからキスをする。クリスティーヌはもう自分だけの天使ではない、自分の下から離れようとしている。「戻れない地点を越えて―The Point of No Retur慈愛」の歌詞にもあったが、クリスティーヌの心はもう決まっており、ファントムを愛することはできなかったという答えが指輪を返すシーンにある。「愛しているよ、心から」と告げるファントムにクリスティーヌは感謝の一言も述べないままラウルと二人、舟をこぎながら愛を確かめるように歌う。嫌悪にも近い感情なのではないかとも思えるほど残酷な結果だけを提示するクリスティーヌはなぜファントムにキスすることができたのだろうか。どこか申し訳なく思う気持ちはそんな一瞬で消えてしまうものなのか。
 クリスティーヌの墓に刻まれた「よき妻、よき母」という文字。ファントムはクリスティーヌとのキスで人間愛に目覚めるとプリントにあったが、ある種の諦めでもあったのではないかと思う。キスをされたファントムはもしかしたらクリスティーヌに母性のようなものを感じ、自分とは縁の遠かった母親という存在を感じることができたのではないか。どれだけ求めても手に入らない母親という存在を感じることが出来たから2人を見逃して「夜の音楽」に終止符を打つことができたのではないかと思う。歯止めがきかなくなり、もう戻ることの出来ない地点に来てしまっていたファントムがすべてを終わらせるために怪人から一人の人間に戻り、自らの足で闇の中へ消えていく。戻れない地点の解釈は授業内では「自分と他者の関係性が変わってしまった地点、もう戻ることの出来ない過去」というように紹介されていたが、シンプルに考えて、犯罪に手を染め続けてしまったファントムはもう人間の社会に、光の世界に戻ることはできないという意味合いでの戻れないという解釈もあったのではないかと思う。そんなファントムが最後の最後に鏡を自らの手で割り歩いて去る、という行動こそが「ファントム」という概念の終わりの終わりを表現していると考える。ファントムもただ一人の男性に戻り物語は幕を閉じた。かと思わせておいて最後にファントムの薔薇が出てくる。薔薇だけに色がついていくことがファントムの存在であり、「心の中にオペラ座の怪人がいる」というテーマ曲の歌詞を彷彿とさせエンドロールへ向かう。
 オペラ座の怪人は私にとっては報われないファントムの愛の物語のように思えた。すべての人の幸せが彼にとっての不幸になる。幸せになってほしかったとまではいかなくても、せめてどん底まで不幸になってほしくなかったという思考が見終わった後の頭を巡る。

文章構成とかレポートとしての書き方とかはともかく、当時の私はオペラ座の怪人を見ながらかなり憤慨していた様子。
友達とも「オペラ座の怪人に感情移入できるキャラなんで誰もいない。好きになれるキャラなんて誰もいない。」と言われた。
メグはすごい良い子らしいけれど、私はメグの存在をほとんど覚えていない。
でも私はなんとなくファントムのことが好きだった。
クリスティーヌは同情ができるようなヒロインではなかった。

まあそれはともかく、その話がしたくてnoteを書いているわけではなくて、音楽朗読劇「オペラ座の怪人」をネット配信で見たんです。
話は変わるけど、自分がオペラ座の怪人で一番好きなシーンはどこかと聞かれると、冒頭のオークションでシャンデリアにかかっていた布を取った瞬間に画面が色を取り戻し、オペラ座全盛期の輝かしい舞台の映像に切り替わるというシーン。
どう考えても映像でしか表現の出来ないものがあまりにも多い作品だと思っていたため、朗読劇で表現するなんて、しかも歌わないで表現するなんて、どういった内容になるんだろうと、少し不安の感情もあった。
結果としてやっぱり声優さんの演技力と表現力はすごいなと思ったので、3500円のネットチケットは全然損ではなかったと思える。

しかしだ。

私の知っているオペラ座の怪人とはやはり違う。
まあ1時間30分で内容をまとめるというのも、劇中劇だってできないというのも、そもそも登場人物が3人しかいないというのも、それは当たり前なんだけども。
理解のために見ながら状況分析もしちゃったよ。(サムネイルの画像)


ラウルとクリスティーヌの間にいつ愛が芽生えたのかが分からない。
まあそもそも幼いころからお互い想っていて、大人になって再会して出会ったときからもう好きだったよって言われたらそうなんだけど、序盤はあまりにも強い拒絶が複数回ありすぎる。
いくらファントムにラウルのことを忘れろと言われても、なんというか……言われたからってそこまで態度は急変しないよなって思う。
まあファントムという名の音楽の天使に陶酔していたクリスティーヌには、天使が一番正しい、故に天使を否定する人間を許せないところがあったのかもしれない。
でも映画本編だと歌って抱き合ってキスしてみたいなシーンがあったけど、あれがない。
だからクリスティーヌがラウルのことを助けたいと、愛していると言っている感情があまり伝わらない。
手紙の宛名が「ラウル様」から「親愛なるラウル」に変わるまでの過程を私たちは知らない。

あとペルシャ人って誰?何者?この人何?

死んだ男のためにミサを捧げよう(歌いだす)(???)
ここ意味分からなくて最高に好き。

声がどこから聞こえるか自由自在だ(何をしているんだろう)
どことなく気になる部分が多い。

そしてファントムという男の最期。
これは完全に納得がいかない。
レポートにも書いてある通り、オペラ座の怪人という作品は、クリスティーヌのお墓にファントムを象徴する赤い薔薇が出てきて、「心の中にオペラ座の怪人がいる」というテーマソングを彷彿とさせ、ファントムという存在が生死という概念を越えて永遠になっていくっていうのが素晴らしい終わりだと思っている。
ということでクリスティーヌよりも先に死ぬことを匂わせるファントムは私にとっては解釈違いだ。
それに今回の朗読劇、音楽朗読劇という名を冠しておきながら、ウェバーのオペラ座の怪人が流れない。
あの有名なテーマソングが……、オペラ座という輝かしい舞台の荘厳さと栄華を象徴する曲が……、権利には勝てなかったのか……。
なんというか惜しすぎる。
最後のファントムの一人の長い語り、あれは多分この朗読劇の中で一番素晴らしい部分だと思う。
あそこが一番の見せ場であり、クライマックスだと思う。
でも一番最期の台詞の後、オペラ座の怪人のテーマが流れたら本当に完璧だったと思う。
鳥肌もんよ。
多分。
いやー、惜しい。
朗読劇に映画と同じボリュームを求めるのも悪いかと思うけど、惜しい……。

朗読劇のオペラ座の怪人と映画のオペラ座の怪人。
はっきりと2つの違いを挙げるならば、ファントムという存在を人間として扱うか、あくまでファントムとして扱うかというところにあると思う。
映画のファントムは自らの住処「夜の世界」から消えた先、行方知れずとなっている。
生きているのか死んでいるのか、どう暮らしたのかもわからない。
それでもクリスティーヌのお墓にはファントムの花が供えられている。
ファントムももう生きている年齢ではないのに。
映画のファントムは人間としての愛を知り、しかし人間として生きることを否定した。
それ故にきっと最後も謎めいた怪人のような形で姿を彷彿とさせるのだろう。
それに比べ朗読劇のファントムはれっきとした人間だった。
人を憎み、妬み、愛した人間。
誰かにずっと受け入れてほしかった、小さな愛が欲しかった。
自分の為に泣いてくれたクリスティーヌにすべてを感じ、彼らを許し、そして死へと向かっていった。
あくまで人間として。
朗読劇においてオペラ座の怪人と呼ばれた人間が、人間として死んでいけるのは素晴らしいと思った。


今回見ようと思ったきっかけ、石川界人くんの話を少し。
すごくよかった……。
ファントムという嫉妬と愛憎に狂い、幸せを願い、それでも幸せを手にすることのできなかった男を演じる石川界人、さ、最高なんだな……。
それと対比でラウルという明るい未来のある高潔な青年を演じるということ。
誠実そうな声が出る男だから、ラウルという人間の印象すら変わる。
あとは水責めの拷問をされているシーンの疾走感と焦燥感。
あれはすごかった……、朗読劇ってすごいんだなぁ。
息を吸う音、息を吐く音、そのリズムを感じることが出来る。
石川界人くんの朗読劇見るの初めてなんですよ。
見れてよかったな~、すごかったな~。
7000円で大満足ですね。



最後に。
朗読劇の楽しみ方って、なんなんだろうなぁ。
朗読劇、今までの人生で一度しか行ったことがない。
あれは去年の夏の「青空」。
原作があるものの朗読劇を観に行くのとそうでないのとでは完全に違う。
青空はその時初見だったため、自分の頭の中で映像を描きながら情景などを想像することが出来た。
でもオペラ座の怪人は私は映画を見ている。
どんな照明の当たり方をしているか、どんな天気なのか、私は見たことがある。
私の頭の中は、記憶の中のオペラ座と耳から入る情報できっと迷子になったのだろう。
とりあえずオペラ座の怪人の映画が見たい。
そう思いながら私はオペラ座の怪人のCDを聞く。

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