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【勝手に続報1】「あの日」を忘れない~被災の記録 Dさんの場合

『勝手に続報』と題した本シリーズ。
過去に商業媒体で取材した方のその後のお話など、以前伺いきれなかったトピックに関して追加取材を行います。

第一弾は日刊SPA!のこの記事で取り上げたDさん。

2011年3月11日の「あの日」から、まもなく10年が経とうとしています。
2021年2月27日、福島県沖で発生した最大震度6強の地震も記憶に新しく、大型地震にはまだまだ警戒が必要です。Dさんには前回、虐待と貧困を中心に語っていただきましたが、今回は東日本大震災での経験をお聞きしました。
※後半部分に被災時のご遺体の状況を含めた、センシティブな話題を扱っています。ご注意ください。

★★★

◇近況について

ーーお時間をいただきありがとうございます。今回は東日本大震災でのご自身の経験を語ってもらおうと思うのですが、その前にまずは近況から教えていただけますか。

Dさん「相変わらず面接を受けながら暮らしてます。都内の企業を受けているんですが、正社員での雇用は厳しいですね。地震とは関係ないですが、つい最近大阪で生活保護費減額の違法判決が出たので、そのニュースを今は注視してます。よろしくお願いいたします」

◇「あの日」の動向について

ーー今年の3月で震災から十年ですが、「あの日」のDさんの状況を教えてください。

Dさん「当日は中学校の卒業式でした。その後懇親会があったのですが、まぁ前回お話ししたように複雑な家庭だったので母からは参加しないように言われ、自宅にいました。皮肉な話ですが、そのおかげで命拾いしたんです」

ーー懇親会の会場が被災したんですか。津波で?

Dさん「津波というか、海の水が川を逆流して氾濫したみたいで。私の自宅は郊外にあったので被害を免れたんですが、都市部は被害が酷かったですね。私の方は、祖母を背負って外に飛び出て、15分くらいじっとしてました。長かったし大きかったし、棚も倒れてきたのでいつもと違うと思いました。
そこから近所の避難所に行ったんですが、電気もガスも水道も止まっていたんです。地区が一か月ずっと。流水で水道管が壊れたみたいでした」

◇避難生活について

ーー避難所でもライフラインが整わないというのは過酷な状況でしたね。避難所の様子を教えていただけますか。

Dさん「最初は10世帯ほど、人数でいうと40人~50人ほどでしょうか。そこまで混雑はしていなくて、避難所が新しい小学校の体育館だったので、不便はあまりなかったです。
他の地域からバス二台で避難者が乗りつけてきてからは、一気に人口密度があがりました。
小学校の先生が家に帰らず、避難所運営してましたね。交代制で常時三人以上は控えていました。最終的には200人くらいで2週間ほど生活したでしょうか。着の身着のまま来た人、瓦礫にぶつかって骨が折れたまま来た人など、ぼろぼろの人たちばかりでした」

ーーその2週間ほどの生活を、衣食住を中心に教えていただけますか。

Dさん「服はそんなに困らなかったです。着替えのない人たちにあげたくらいでした。
食に関しては、幸運なことに某飲食チェーン店の店長さんが、店にあった具材を避難所に持ってきてくれていたので、それでしのげました。大人たちは避難所の運営で忙しかったので、食事の準備は私を含めた子供たちが中心で回してました。たまご、肉、野菜全部ありましたね。家庭科室で雑炊作ったり。自治体や国の支援はその二週間はほとんどなかったです。
住環境に関しては、基本雑魚寝です。体育用のマットレスはお年寄り用に使い切って、毛布は元々数が少なすぎてほとんど行き渡りませんでした。ストーブはあったので助かりました。娯楽は全くありませんでした」

ーーDさんは避難所ではどんな役割をされていたんですか。

Dさん「やはり食事と、あとは名簿作りの手伝いですね。周辺から逃げてきた人たちから情報を集めたり。中高生にやらせるにしては仕事量が多かった気がします」

ーー200人での共同生活となると、衛生面は気になりますよね。トイレとか入浴に関してはどうなっていたんでしょうか。

Dさん「トイレは最初のうちはきれいだったんですが、人が多くなってからは汚れてきました。タンクが逆流して汚水が溢れたこともあって、その処理は本当に大変で。プールに貯めていた水で無理やり流して、あとは布で便器をぐるぐる巻きにして封鎖しました。汚水まみれになりましたよ。
シャワーは二週間くらいしてから自衛隊が設置してくれて、環境を整えてくれました。その間は全く入れなかったので、濡れたタオルで体をふくとか、軽く流したりした程度です」

ーーご自宅はどの程度被害に遭われたんでしょうか。

Dさん「半壊です。実家は理髪店をしていたんですけど、お店の部分は全壊。繋がっている住居部分は何とか無事でした。その流れで廃業になって、今でもそのままだと思いますね」

ーー2週間ほどの避難所生活が終わってから、ご自宅で生活されていたわけですが、不便はありませんでしたか。

Dさん「街中まで車で行きたかったんですが、緊急車両以外は給油できない状態だったので、2時間ほど歩いて買い出しに行ってました。2か月とか3か月ほどでしょうか。テレビは1か月ほどで見られるようになりました。水道は電気が通った半年後くらいに復旧しました。その間は泥かきのボランティアをしていました」

◇被災後のショッキングな体験について

※一部センシティブな話題を扱っています。

ーー以前伺った際に、その泥かきで衝撃的な体験をされたとお話されていましたね。

Dさん「遺体をたくさん見つけましたね。計30体ほどでしょうか。最初見たときは『あ、死体だ』と思いましたよ。周りもうわぁ、という反応で。警察に届けるのが筋なのでしょうが、警察もそれどころではないので、ボランティアの人たちで軽く遺体の体を奇麗にして安置所に運んでいくのが通例でしたね。
身近な人の遺体も見ましたよ。習い事の先生だった人です。50代の女性だったかなぁ。車の中で溺死したらしくて、車の周りにみんなが集まっているから見に行ったら、先生でしたね。『あ、逃げ遅れたんだな』と思いました」

ーーご遺体も特殊な状態だったと以前伺いましたが、そちらもお話しください。

Dさん「木に引っかかっている遺体ですね。水死体だったので体が膨れて、木の枝に皮膚が刺さるんですね。ビルとビルの間の木に。わりとよく見かけたので、そのうちにみんなもあんまり反応しなくなりました。高校生くらいの遺体も見つけましたよ。流されている途中に木片か何かにぶつかったんだと思うのですが、全身あおたんだらけでした」

ーーご友人も亡くなられたとか。

Dさん「本当に人の少ない田舎だったので、幼稚園から持ち上がりで19人ほど仲のいい幼馴染がいたのですが、そのうち4人が亡くなりました。近くの遺体安置所にお別れを言いに行こうという人もいたのですが、気乗りしなかったのでやめておきました」

ーー遺体安置所というワードが先ほどから出ていますが、どのような様子でしたか。

Dさん「結構大きなアリーナだったんですが、そこに常時いっぱいになるくらい遺体袋が並んでました。数にしたら500袋ほどでしょうか。そこは後に避難所になったので、遺体はドーム状の屋根がある市場に移されました。意外に臭いとかは気にならなかったので、きちんと防腐処理はされていたんだと思います」

◇被災経験を通じて

ーー被災経験を通じて、最も印象深いことを教えていただけますか。

Dさん「一つは、先ほど言ったように避難所運営に関わったことです。そしてもう一つは、地域の消防団で活動されていたとある男性の記憶です。その男性はお子さんがいたんですが、『街の様子を見てくる』と行ってお子さんを避難所に置いて行かれて、そのまま帰って来なかった」

ーーDさんの人生に、東日本大震災での被災経験はどの程度影響していますか。

Dさん「少なくとも人生の半分以上に影響してるでしょうね。あの震災があるとないとでは、運命が変わっていたと思います。特に人間関係ですね。震災後、色々あって友人と仲が引き裂かれることもあって。親同士の諍いとかで」

ーーまだ大型地震を経験していない方々に対して、メッセージはありますか。

Dさん「以前、勤め先で被災経験のない関東圏出身の方がこう言ったんです。『被災者はいつまで被害者面なんだ』と。その時には戦慄しましたね。いつまでも他人事だと思わない方がいいと思います。いつ当事者になるかなんてわからないんですから。この間の地震もありましたし、いつかは東京でも大きい地震があると思います。こういう事実があったんだということは、覚えていてほしいですね」

ーー思い出すのも辛いご記憶もあったでしょうが、お話いただきありがとうございました。

★★★

約一時間の小インタビューでしたが、ご遺体の話も含めショッキングな話題が続きました。「いつまでも他人事と思わないで」というメッセージが重く響きます。
10年という歳月は、あの災禍の経験を整理するには短すぎるような気もします。今後長い時間をかけて、こうした経験談が人々の間で共有され、新たな犠牲を防ぐために活かされればと願ってやみません。


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