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なんでも

幼い頃、分からないことがあるたびに母ちゃんに尋ねてました。すると大体

「それはな、なんでもや」

という文法として成り立っていない意味の分からない返答が返ってきたものです。このオバハン、自分が知らんことを知らんとは言わずに知ってるけど教えないスタンスで育成者としてのポジションを保持しようとしている・・・と満腹亭少年は子供ながらに思っていたとかいなかったとか。。
そのせいか今までの人生で妙に理屈っぽく生きてきた気がします。校則とかも「なんで?」って先生に聞いてもまともな返答なんて返ってきた試しがなかったし、友達の行動でおかしいなと思ったことを言ったら「そんなんええねん」とあしらわれたり。そんなことが今考えるとわりかし多かったような気がします。

今、自分自身が大人になって当時の母の気持ちが理解できてきた気がします。世の中、理屈は理解してるんだけど言語化してそれを説明できないということがたくさんあります。時間をかければ説明することはできるんだろうけど、とにかく骨が折れる。要するに面倒臭い。それが母の「なんでも」に凝縮されていたのだと思います。

それでもやっぱり子供の頃感じていた「なんでも」のいい加減さが嫌だから、特に30代に入ってからはなるだけ自分の行動や考え方に理屈を付随させるように意識するようになりました。なぜ?と尋ねられたときに「なんでも」ではなく、どれだけ理解されなかったとしても自分なりの理屈を持つようにしています。
ですが、これを意識し始めてから自分がどんどん面白くなくなっているように感じるんです。面白いっていうのは笑わせるということじゃなく人間として面白みが無くなってきていると。なんでもシステマチックに考えて本当に大事で温度感のある近しいものを見落としているんじゃないだろうか?理屈っぽくなるにつれてどんどん温度感のないつまらない人間になっている気がします。
ポケットパンパンに理屈を詰め込んだせいでシルエットがごっつ格好悪いって感じ。ポケットに余裕があればあるほどシルエット格好良いやん、みたいな。人生Gパンシルエット説です。

僕は人並みに映画が好きなんですが、良い映画観たなぁと思った時によく思うのは、感想がうまく言語化できないんです。でもそれこそが映画やドラマの最たる評価なんじゃないかと思うんです。だって言葉で表現できるような感動なら表現する必要がないですから。言語化できない感動を表現することこそが映画を含めた表現の究極系だと思うんです。

それを踏まえて考えるとですね、日々感じたこととか自分の行動とか心理を言語化する理屈っぽい努力をしつつ、それでもどうしても言語化できない素晴らしい何かを探し続ける砂金採取のような作業こそが人生なんじゃないでしょうか。
と、そんなことを定義づけしようとしていることが無粋で理屈っぽいんですよね。

この世は理屈で成立しているけど、本当に大事な部分は理屈じゃない。
これは当たり前のことだけど常に懐に持っておきたいですね。


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