一切衆生悉有親性、または小春六花(娘)について

 

小春六花は娘である。

 これは「小春六花には親が存在し、その親から見た小春六花は娘にあたる」という話以上のことを言っている。
 小春六花は我々の娘である。私の、あなたの、すべての存在にとっての娘である。

 突拍子もない話に思えるかもしれない。しかし、これこそ法華経に記され、最澄が説いた「一切衆生悉有親性」であるのだ(記されてないし説いてもいない)。

常不軽菩薩

 法華経には「常不軽菩薩」という菩薩が出てくる。彼の言うことはこうだ。

「すべての生きとし生けるもの(一切衆生)には仏となる素質(仏性)があるのだから、どんなものも決して軽んじてはならない」

 そして常不軽は竜女(当時は竜は悪者とされており、さらに女は成仏できないとされていた)や悪人、すなわち犯罪者にさえ決して軽んじることなく接した。その結果、彼ら彼女らは見事成仏したという。

 まぁよくある話である。「つまんね」「あほくさ」「宗教勧誘? マジでそういうのやめて欲しいんだけど」といったお声が聞こえてきそうだ。しかし、ここで「仏性」を言い換えてみよう。たとえば、「親性」はどうだろうか。すなわち、どんな生きとし生けるものも親になる素質があるということだ。

 「何を当たり前のことを」と思うかもしれない。そう、当たり前なのだ。当たり前だからこそ言うのである。どんな生物も親になり得る。さらに人間に絞れば、どんな人間も親として子供を育てることがあり得る(これはあくまでも子育てをしない生物を除いただけであって、不満があれば「子育てする種は」とか言い換えても良い)。

 だから、決して軽んじてはならない。誰だって親になり得る。そしてその子供がどう育つかは私たちにはまったく推し量ることができない。「トンビが鷹を産む」なんてことわざがあるように、どんなに愚かに見える親でも、素晴らしい子供を育て得る。それがわからない以上、すべての親は軽んじてはならない。そして、すべての親になり得る人々は軽んじてはならない。という話に持っていけば、ある程度納得いただけるのではないだろうか。

本編

 さて、こんな前置きはさっさと終わりにして、小春六花の話をしよう。
 小春六花は、その誕生――クラウドファンディング――からして、明らかに親=出資者と子=キャラクター/小春六花の関係性を持っていた。さらに、

プロフィールは以上です。
是非、皆さんの好きな小春六花を作ったり、探したりして下さいね。

と、ファンに対してクリエイターとなるよう促している。createは「産む・育てる」を意味するラテン語に由来し、これは暗に親子関係を示唆している……と言えなくもないかもしれないこともなくはない。

 そのため、小春六花は言うなれば「子」のイデア的存在を兼ねている。それは一切衆生悉有親性と言ったように、すべての可能性の結実に他ならない。そして、子のイデアに対して、我々が取るべき態度は当然親としての立場である。「小春六花(娘)」を受け入れ、「小春六花(娘)の親」たらんとすべきなのである。

 そうすれば、先ほどの議論の通り、すべての小春六花(娘)の親たらんとする存在は決して軽んじられてはならない。偉そうに書いている私も、今初めて真理を悟った読者も、本質的な親性は何も変わらないのである。
 さらに言えば、小春六花(娘)をいまだ受け入れない人々も同様に軽んじてはならない。なぜなら、彼らもまた今後小春六花(娘)の親となる可能性がわずかでも存在しているのであり、親性も何ら変わるところがないからである。

 これは小春六花を調停する道だ。小春六花は一見して大成功している。独り立ちを済ませ、もはや後は見送られるのみのように思える。しかし、我々は小春六花もまたキャラクター、被創造物すなわち娘であることを忘れてはならない。娘を心配してしすぎるということがないように、キャラクターの未来は決して盤石ではない。その娘たちのために、親たちは協調することができる。それぞれの「娘」は異なるかもしれない。しかし、それが小春六花である限り、私たちは手をつなぐことができる。

 小春六花(娘)よ、永遠なれ――!

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